第1話 契約妻、抱っこで出陣
婚礼の鐘は、やけに澄んでいた。
澄んでいるのに、私の耳には「悪評」「断罪」「あの赤子」という言葉の膜が張りついて、音が鈍くなる。
「伯爵令嬢セシリア・ローレン。契約条項、最終確認を」
書記官が読み上げる羊皮紙は、恋文とはほど遠い。嫁入り道具は現金化、持参金はゼロ、代わりに実家領への継続的支援。侯爵夫人としての礼遇は完全に保証。最重要項——“侯爵家にいる赤子の母としての地位を与える”。
「……承知しています」
私が署名を置いた瞬間、視線の矢が背中に刺さる。
若き侯爵エルンスト・ヴァイス。冷たく整った横顔。社交界では“平民の女を孕ませ、赤子を取り上げて追い出した”と囁かれる当人。——それが真実かどうか、今の私には分からない。ただ、没落しかけた実家を支えるため、そして何よりも、捨てられそうな“誰か”の居場所になりたいから、私は来た。
「ようこそ、我が家へ。……無理はしないでください」
低い声は、噂の温度よりずっとやわらかい。
「まずは……会わせてください。赤子に」
侯爵邸の静脈みたいな廊下を抜け、育児室の扉が開く。
ふくふくの頬。うすい睫毛。小さな手。
目が合った。世界が一歩、明るくなる。
胸の奥で、何かがほどけた。
「……ごめんなさい、今、覚悟ができました」
「覚悟?」
「母になる覚悟です。契約じゃなくて、私の言葉として」
侍女長ミランダが、ほっと息を漏らす。「抱いてごらん」と私の腕を整え、赤子——リィナをそっとのせる。体温が伝わる。重さは、怖くない。
「リィナは、よく笑いますよ」
「名前、かわいいですね」
そのときだ。リィナがきらりと視線を泳がせ、小さな指をぴんと伸ばした。
「……“ここ”」
最初のことばが胸の奥に刺さって、私は思わず顔を上げた。
指先の先——育児室の窓。その外に見えるのは、干上がった畑。雨が減ってから土地が痩せ、領民は水桶を抱えて坂を上り下りしていると聞いた。
「フーゴ!」侯爵が呼ぶ。家令が即座に現れ、状況だけで理解したように顎を引く。
「道具は西倉に。掘るのは——」
「私も行きます」私はリィナを抱いたまま言った。「……この子が“ここ”と言ったのなら、私たちが最初に見るべきだと思うの」
庭を抜けて畑へ。土は割れ、風は乾いていた。
私は片手でリィナを抱き、片手で杖をつく。エルンストは黙ってスコップを持って並んだ。
「場所は——」
リィナがもう一度、私の胸で指を伸ばす。「ここ」
「ここ、だそうです」
「承知」
最初のひと掘り。乾いた音。二度、三度。
十度目のスコップで、音が変わった。
土が湿り、匂いがやわらぐ。次の瞬間——
しゃら、と涼しい音がした。
指先の下から、清水がひとすじ、息をするみたいに湧き出した。
「水だ!」
フーゴが叫び、農夫たちが駆け寄る。ミランダが裾をたくしあげ、桶を並べる。私は思わず笑ってしまう。腕の中で、リィナも笑う。二人の笑い声が重なって、畑に音の影を落とした。
「……偶然、では片づけられませんね」エルンストが低く言う。「この子は時々、こうして——」
「指差すのですか?」
「“ここ”と。指差した先はたいてい、役に立つ場所だ。私はそれを、祝福だと思っている」
噂の男は、噂よりずっと真っ直ぐな目をしていた。
私は水の透明を見つめながら、腕の中の小さな指を握る。
「決めましょう、侯爵様」
「何を」
「この子の“ここ”で見つけたものは、みんなのものです。領民に、水と道と種を分ける。……欲のために使わないと、約束します」
エルンストは、ほんのわずかに目を見開いた。
「あなたが決めるのか」
「母として。契約じゃなく、私の意思です」
フーゴが咳払いし、いつもの事務口調に戻る。
「では“分け前規約”を作りましょう。『祝福の発見物は、領民共同の資産とし、使用と利益を開かれた場で決定する』。初動は井戸端の拡張、次に水路の敷設、最後に小麦の品種更新。よろしいですね、旦那様、奥様」
「異論はない」
「賛成です」
水はすでに小川のように流れ始め、割れた土を濡らしていく。畑の匂いが生き返る。遠くで仔山羊が鳴いた。いつの間にか、近所の子どもたちも集まって、靴を脱いで足首まで浸かっている。
「リィナ様の“ここ”、ほんとだったね!」
「明日はどこを指すのかな!」
子どもの期待は、あっという間に領地に広がるだろう。
期待は、時に人を焦らせる。だからこそ、最初に決めておく。
「……ねえ、エルンスト様」
「なんだ」
「この子に“指させろ”と命じる人が現れたら、どうします?」
「追い返す。祝福は命令で動かない」
「よかった」
私は肩の力を抜いた。抱いたリィナが、眠そうに目をこする。
陽が傾き、湧水が金色に光る。
ミランダが毛布を持ってきて、私に微笑む。「お母様、初日から立派ですよ」
「……お母様、なんて呼ばれたの、はじめてです」
言葉に、胸があたたかくなる。
この家に来た理由は二つ。実家を守ること。そして、捨てられそうな“誰か”の場所になること。
その“誰か”を抱いて、私はもう迷っていない。
そのとき——
「ここ」
眠い声で、リィナがもう一度指差した。今度は畑の外。荒れた生け垣の向こう——使われなくなった古い道の痕跡。
「古道か」エルンストの目が細くなる。「昔、交易路だった線だ。……塞いだのは誰だ?」
「明日、確かめましょう」私は笑って言う。「今日は、母としての初仕事をします。湧いた水に“名前”を付けるんです」
「名前?」
「子どもたちが呼びやすいもの。そうすると、残りやすいから」
私は腕の中のリィナを見下ろし、そっと囁く。
「“ここ”の泉。——いいえ、『リィナの指さし泉』、なんてどう?」
リィナが小さく手をぱちぱち叩いた。賛成らしい。
エルンストも、ふっと口元を緩める。「記録に残そう。分け前規約と一緒にな」
婚礼の鐘は、今度こそ澄んだ音で届いた。
噂の膜は、薄くなる。
家族はこれから。けれど——始まったばかりのこの“これから”は、きっと強い。
――――
今日の義娘:湧き水のきらめきに合わせて、両手で小さくぱちぱち。拍の合う子は、運も呼ぶ。