第4章【揺らぎの中で、静かに動き始めるもの】
Scene:深夜 ― カケルの夢の中
……風の音。
草原の匂い。
だがそれは、地球のそれとはわずかに異なる。風が曲がり、光が滲み、星々が“形”を持って見える。
夜空に浮かぶのは、螺旋と円環で構成された幾何学模様の星たち。
まるで、誰かの計算式の中に空ごと取り込まれているような違和感。
その中で、カケルは立っていた。
そして口に出していた。
「……ルクスティナ」
自分でもなぜこの言葉を知っているのか分からない。
けれど、確信だけがあった。ここは“帰るべき場所”で、懐かしい――そんな場所だ。
「カケル」
名を呼ぶ声。
振り返ると、銀の髪と、深い夜を湛えた瞳の少女が、そこに立っていた。
胸元に下がる“星の石”は、淡く、しかし絶えず脈動している。まるで、時空そのものと共鳴しているように。
「……君は、誰?」
問いながらも、知っている気がした。だが、言葉が浮かばない。
少女はただ、微笑んだ。
「……あなたが、忘れても。わたしは、忘れないよ」
そして、そっと指先でカケルの頬に触れる。
その瞬間――空間が反転する。色が裏返るように、現実の法則がめくれ、別の世界が露わになる。
幻界都市ルクスティナ。
空に浮かぶその都市は、数十層の空間を階層として持ち、魔導と計算によって浮遊を維持していた。
そこには、人工の星、流体状の大地、透明な塔。
非現実が“日常”として存在する世界だった。
そしてカケルは、その世界の中心で、少女と共に暮らしていた。
「君の名前は……」
ようやく言葉に出しかけたとき、世界が解けはじめる。
夢は現実へと引き戻され、少女の声だけが最後に残る。
「……わたしは、ルミア」
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Scene:朝 ― カケルの部屋(現代)
カケルは静かに目を開けた。
天井の染み、カーテンの隙間から差し込む朝日、アラームの電子音。
“いつもの朝”だ。
だが、その感覚は一枚の写真で崩される。
ベッド脇の棚に、見覚えのない写真が立てかけられていた。
そこには、夢の中で出会った少女――ルミアが、微笑んでいた。
風に揺れる銀髪、首元の星の石。どれも、あまりに鮮明で現実的すぎる。
「……まさか」
震える指先で裏面を返す。
そこには、丁寧な手書きの文字があった。
「きっと、君が世界を守ってくれるって信じてる」
カケルは言葉を失った。
夢と現実の境界が、確かに曖昧になりはじめている。
(……誰なんだ、俺)
そんな言葉が、初めて彼の胸の奥に生まれた。
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Scene:アナスタシアとレナの対話
アナスタシア=クローデルは、神代レナの研究所に降りていた。
白い光と数百の魔導式が走る中、レナは無表情に立っていた。
「彼は“原初構成因子”。存在そのものが、空間と法則を調律する要」
レナの声は、感情の起伏を持たない。まるで記録装置が喋っているかのようだった。
「無自覚のまま、周囲の非日常を“日常”に変換していく。それは結果として、空間の歪みと均衡を生むが……」
「いずれ、それが破綻を呼ぶ?」
「はい。今は彼が“調律対象を選ばずに済んでいる”だけにすぎません」
アナスタシアは目を伏せた。
「……でも私は、彼を信じたい。“あの感覚”を、否定したくない」
レナは静かに頷いた。
「それが、あなたの“誤差因子”です。観測記録に追記しておきます」
そして、空間に投影されたもうひとつのグラフが動く。
「問題は、外部因子。“深界連合”の端末存在が、この学園に浸透しています」
「……魔王生徒会?」
「ええ。彼らは、世界の“異世界化”を目指している。人類の進化という名のもとに」
アナスタシアの手が、無意識に拳を握っていた。
「だったら私は……その対極に立つ。“普通のままで在りたい”と願う側に」
「その選択を観測します」
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Scene:放課後 ― カケルとクラウ
夕暮れの中庭。
クラウ・リヴィエールは自販機で買ったプリンをカケルに渡す。
「疲れてるな、お前。寝不足か?」
「夢を見たんだ」
カケルは、いつものように気だるげな調子で言った。
「空に浮かぶ町で、銀髪の女の子と……普通に暮らしてた。なんか、楽しかった」
クラウの手が、一瞬止まる。
そして、思い出す。自分の世界が崩れ落ちる前、空に浮かぶ都市――そこにいた、少年の姿。
(まさか……)
だが、言わない。
それを言えば、日常が壊れる気がした。
「お前さ、自分のこと“普通”って思ってる?」
「そりゃもう。俺、どこにでもいる“日常男子”だし?」
カケルの軽口に、クラウは無言のまま、空を見上げる。
日常と非日常の境界が、もうすぐ“彼”を中心に歪み始める――その予感が、確かにあった。
⸻
その夜、カケルはもう一度写真を見つめた。
微笑む少女と、そこに確かに存在した“記憶の名残”。
その名前が、今でははっきりと胸の奥で響いていた。
「……ルミア」
そして、彼の中で眠るものが、ほんの僅かに動き出す。