第10章【終調(カデンツァ)】
──夜と朝のあわい。
世界がまだ夢を見ている時間帯。
茜色とも蒼ともつかぬ空の下、真野カケルはひとり、“空間の裂け目”の前に立っていた。
その身を風が撫でる。けれど、冷たくはなかった。
背後では、世界が静かに震えていた。
現実に混じり込むように、異世界の欠片が滲んでいる。
竜の骨。空に浮かぶ塔。
機械仕掛けの魔法陣が空間に浮かび、見慣れた街並みに不気味な影を落とす。
「……やっぱり、全部繋がってたんだな」
呟くと、彼の胸元に吊るされた“星の石”が、かすかに光った。
記憶の奥底に眠っていた景色が、次々に浮かんでくる。
――幻界都市ルクスティナ。
魔導と理論が支配する空に浮かぶ都市。
白銀の髪と深い青の瞳を持つ少女・ルミアと過ごした、懐かしくも切ない日々。
――この現代日本での日常。
東雲ユイの笑顔。
クラウ・リヴィエールとのくだらないやりとり。
アナスタシア=クローデルの厳しくも優しい視線。
そして、神代レナの冷静な記録者の眼差し。
「この異常を終わらせる。……俺が、世界の“調律因子”なら」
カケルの足元には、無数の光の糸が交錯していた。
それは“現実”という名の大地に織られた、無数の縦糸と横糸。
運命の結晶。
この世界を“元に戻す”ためには、たったひとつだけ必要なものがあった。
――中心の因子である彼の、“自己消滅”。
記憶から。記録から。存在のあらゆる痕跡から――
真野カケルという存在を、完全に消すという選択。
「……でも、悪くなかったよ。こんな日常も」
彼は、ほんの少し笑った。
そこには、苦悩も恐怖もなかった。ただ、静かな満足だけがあった。
◇ ◇ ◇
Scene:校舎屋上 ―― 放課後
風に髪を揺らしながら、クラウは無言で剣を地面に突き立てた。
隣でアナスタシア=クローデルが沈黙を守り、東雲ユイは拳を握りしめて空を見上げていた。
「彼は、選んだのよ。私たちの日常を」
アナスタシアの声は、わずかに震えていた。
クラウも、何も言わなかった。
ただ、その手が強く柄を握りしめていたのがすべてを物語っていた。
「本当は……止めたかったよ」
ユイがぽつりと呟く。
その頬には、一筋の涙が流れていた。
「でも、私は彼に“自分で選んでほしい”って言ったから。だから……」
その言葉に、誰も反論はしなかった。
否、できなかった。
神代レナは、携えていた記録装置の起動を止めると、手帳の最後のページに一文だけを手書きで記した。
真野カケル――名もなき存在因子。彼は確かに、ここに在った。
それだけで、十分だった。
◇ ◇ ◇
Scene:空の裂け目(終局)
空の中心に口を開けた“裂け目”へ、カケルはゆっくりと歩み寄った。
彼の目に、今この瞬間、あらゆる世界の断片が映っていた。
崩れかけた学園。空を舞う幻獣。魔導兵装に変質した街並み。
そして、重なるように現れる“本来あるべき世界”の断片。
その中心で、彼は静かに呟いた。
「さようなら」
それは、自分に対しての別れでもあった。
星の石が砕ける。
その欠片は小さな光となり、空へ、街へ、世界中へと舞い散っていく。
彼の身体もまた、輪郭を曖昧にしながら溶けはじめていた。
ふと、カケルは過去の記憶――ルミアの言葉を思い出した。
「“変わらない日常”って、すごいことよ」
それが、どれだけ価値のあるものだったのか。
彼は、ようやく理解できた気がした。
「君たちと過ごせて、幸せだった」
その言葉を最後に、彼は光の中に消えた。
世界の裂け目が閉じていく。
――そして、世界は静かに調律された。
◇ ◇ ◇
Scene:その後の日常(後日譚)
春の風が、学園に吹いていた。
あの日と同じように、新しい日常が始まっていた。
誰も、「真野カケル」という名前を口にする者はいない。
けれど。
クラウは今日も購買のプリンを二つ買っていた。
アナスタシアは、研究棟の書庫でふと天井を見上げて黙り込む時があった。
ユイは、窓辺の席に座り、何かを思い出すように小さく笑った。
誰も理由を知らないまま、ふとした瞬間に、胸が締めつけられる。
放課後の夕暮れ、風が吹く音。
誰かがいたような気がして、誰かの言葉が残っている気がして。
――その人がいた日常だけが、心のどこかに、確かに残っていた。
◇ ◇ ◇
Scene:最後のページ
東雲ユイは、一冊のノートを閉じた。
そこには、最後のページだけが、綺麗な文字で埋まっていた。
「きっと、君が世界を守ってくれるって信じてる」
名前も、顔も、思い出せない。
けれど、どうしても忘れられない気持ちだけが残っていた。
「……ありがとう、カケル」
その名を、口に出してみた。
理由はわからなかった。ただ、そうしなければならない気がした。
空を見上げる。
そこには、何もない、ただの青い空が広がっていた。
けれど、その空は、誰よりも彼を想っている空だった。
そして何よりも、美しかった。