08 国旗
おそるおそる、すぐ傍にあるジェイドさんの広い背中へと近付いた。
とても綺麗な背中だ。なんていう名前の筋肉かわからないけれど綺麗に盛り上がり、全体的には逆三角形の形をしている。
こんなことを言ってしまうとなんだけれど、今ここで私が彼を殺そうと思えば、簡単に出来てしまうという状況にあるし、それだけ信用されているのであれば……必ず期待に応えたい。
「しっ……失礼します」
緊張し過ぎて声が裏返った私に、ジェイドさんは思わず小さく吹き出したようだった。
けど、何も言わなかった。
ええ。短い付き合いですが、ジェイドさんの人となりは承知しております。貴方は貴族出身だからというわけでもなく、性格が完全に紳士ですものね。
ジェイドさんにちゃんと会うまでは、職務上でそういうことが出来るなら幸運くらいに思って貰えて、お互い半裸になって私を背中から抱きしめてもらうくらい、簡単に済むだろうと思って居た。
けれど、ジェイドさんは驚いてしまうほどの潔癖さを見せたし、私には万が一の危険や不利益を与えないようにしてくれて非常に誠実だった。
そっと背中に触れると、熱い。体温の違いだろうか。鍛え上げられた筋肉のせいかもしれない。
「ラヴィ二ア。ごめん。抵抗があるのは、わかるけど……その」
私が彼の背中を触っていたら、ジェイドさんが身じろぎをしていた。時間が掛かっているので、どうしたのかと不安になってしまったのかもしれない。
「あ! ごめんなさい……!」
慌てた私は色気も何もなく、勢い良く彼の背中に抱きついた。二人の肌が触れた。
……熱い。
そして、私は与えられた天啓である『竜喚び』を使った。私たち二人の触れた場所からは白い光が放たれたはずだけれど、目を閉じて集中していた。
ああ、なんだか触れ合った部分から、溶け合うかのような感覚を覚える。手のひらだけの時よりも、もっともっと深く遠く、彼の中へと入っていく。
ジェイドさんの中には、竜との契約がある。それを私は、共鳴させる。ここに来てと喚んでみる。
竜が応えた。これは、いつも通り。
手を合わせただけでは、見えなかったものが、今は……より鮮明に見える。
銀色の竜の背景には、ごつごつとした岩肌が見える。もしかして、洞窟の中に居るの……?
こんなにも、喚んでも喚んでも来なかったということは、洞窟の中に迷い込んで出られなくなったのかもしれない。
竜には光り輝く宝物を集め隠す習性があるので、洞窟に潜むことを好む。
……美しい、きらめく銀の鱗を持つ竜だ。
旗? どうして。洞窟の中に、貼られた旗が見える。あの、国旗は……古いものだ。
……いけない。あまり長い時間を掛けて深く潜ると、戻れなくなる。
私たちは聖女教育を受ける時に、それを口酸っぱくして教えられるのだ。その目で見える現実以外を、あまり、長い間見てはいけないと。
ああ……美しい赤い瞳が、私を見た。そう思った。
ーーーー意識が戻る瞬間は、突然だった。
「二ア……ラヴィ二ア? 大丈夫か?」
彼の背中にぴったりとくっつき、両手で抱きしめていた私が何も言わないままだったので、心配したジェイドさんが、ずっと呼びかけてくれていたようだ。
「あ……はい。はい。大丈夫です」
自分で想定していたよりも、深く潜り長くすぎたのかもしれない。立ち上がろうとしてよろけて、彼の肩に手をついてしまった。
「ラヴィ二ア?」
「ごめんなさい。本当に……もう、大丈夫です」
さっき見えた、あの国旗。あれは、確か……。
先ほど見えた図案を忘れたくない。私は手早く服を着て、下着姿のジェイドさんから目隠しを取り払い、手を縛っていた縄を切った。
「……背中と背中なのかと……」
立ち上がり顔が赤くなっているジェイドさんの呟きを聞いて、私は一瞬、彼がここで何を言っているのかわからなかった。
……あ。さっき背中と背中を合わせ合うって、そう思って居たということ……? どんな体勢なの?
「え? 駄目ですよ。ジェイドさん。背中同士だと、私との接触面が少なくなりますし……すみません! すぐに戻って来ます!」
さっき見えた国旗のことで頭がいっぱいになっていた私は、ジェイドさんとの話もそこそこに部屋を飛び出した。
あれは、古い図案の国旗だった。洞窟に貼ってあった。
普通に考えればジェイドさんの竜は、あの国の中の、どこかの洞窟に居るということだろう。
走っていた私は図書室へと入り、国旗の書物を確認し、自分の記憶には間違いがなかったと頷いた。
「ユンカナン王国ね……私が見たものは、古い国旗だわ」
人と獣人が住む国なので、国旗の図案も人と獣たちが助け合うものだ。
そして、私はユンカナン王国の地図を借りて、ジェイドさんの部屋まで急ぎ戻ることにした。
あの旗をすぐに忘れてしまいそうな気がして、慌てて走ってしまったけれど、下着姿のままで一人置いて来てしまったわ……一番に気になっているのは、彼だったろうに。
「ジェイドさん! お待たせしました!」
勢い良くバーンと扉を開けつつそう言えば、着替えを済ませたジェイドさんはベッドに座っていて、驚いた顔で私を見て居た。
「ラヴィ二ア。何か、わかったのか?」
「おそらくは……という感じですけれど、竜は洞窟に居ました」
「洞窟に?」
「ええ。もしかしたら、洞窟へ迷い込んで出られなくなっている可能性もあると思いました。私の喚びかけにも応じますし、拒否はしていません。ただ、何かでその場から動けない……そんな感じがしたんです」
さっき彼の中にある契約を共鳴させて、得られた情報はそれだけ。けれど、国旗が見えたのは良かった。
「すぐに助けにいかないと……」
竜の現状を知り顔色が変わったジェイドさんがバッと立ち上がったので、私はそんな彼を落ち着かせるために近寄り腕をさすった。
「ジェイドさん……お気持ちはわかります。けれど、今は何処に行けば良いのかさえ、私たちは絞れていません。竜の元へ行くならば、そこを明確にしてからになります。もう少しだけ、どうか待ってください。今は洞窟の中に居ること、無事であること、そして、ジェイドさんを拒否して来ないという事がわかっただけでも、良しとしてください」
私はその瞬間、ジェイドさんの頬を通り抜けた一粒の涙を見て、目を見開いてしまった。
成人した男性が人前で泣いてはいけないという法律は存在しないのだけど、あまり見たことがない光景であるのは事実だったから。
「……良かった。ゲイボルグ」
ああ……これまでの複雑な思いが極まって、つい涙を流してしまったのね。
私はそんな彼を見ていて、胸が痛かった。ジェイドさんはこれまでに、あまり自身の感情を見せることはなかった。
ただ、竜が無事で自分を拒否しているわけではないと、わかっただけなのに……。
それに、今まで口にすることを避けていた彼の竜はゲイボルグと言うのね。すごく良い名前。
「はい。そうなんです。ジェイドさん。大丈夫です。居場所さえ絞れば、あの竜が洞窟で迷って出られなくなったなら、助けに行けば済むだけのはずです。さっき見えた国旗で国名はわかりましたから、あとはその国にある洞窟で似ているものを見付けます」
「わかった」
言葉少なになったジェイドさんは手の甲で涙を拭うと、私が図書室から持って来た一冊の古い本へと目を向けた。