ゴーストライター
うだるような暑さの中、女子高生の陽子が帰宅すると
そこには冴えない中年男性の姿があった。
彼は家族ではない。どうやって侵入したのだろう。
その顔を知ってはいるものの、言葉を交わしたことはない。
そして、ご近所で悪い噂が立っている要注意人物であった。
陽子は叫ぼうとするが、うまく声が出せない。
逃げようとしても、足が震えて走れそうにない。
このままでは何かされる。と陽子は怯えるが、
男はキョロキョロと周囲を見渡し、何度も首を傾げるばかりだった。
永遠にも感じる数秒の後、男は口を開いた。
「やあ、驚かせてしまって申し訳ない
どうやら僕は幽霊になったらしい
君に危害を加える気はないよ
だからどうか安心してほしい」
「……はあ!? 幽霊!?
なに馬鹿なこと言ってんの!?
とにかく警察呼ぶから!」
陽子は慌ててスマホを取り出したせいか
手元が狂い、うっかり床に落としてしまった。
すぐに拾おうとするも男が正面にいるので手が出せず、
あわや万事休すかという状況に追い込まれた。
しかし男は後ずさり、両手を上げて無害をアピールし、
彼女がスマホを拾うのを黙って見守った。
何を考えているのかわからない。
陽子は得体の知れない恐怖に支配された。
「まあ、急にこんなこと言われても信じられないよね
僕だってまだ自分が死んだって実感ないし……
とりあえず、これを見てもらえばわかるかも」
そう言い、男が精神を集中させると彼の体はふわりと宙に浮き上がり、
全身の色がスーッと薄くなってゆき、半透明の状態へと変化した。
その様相は、まさしく想像通りの幽霊であった。
陽子は思わず声を上げた。
「最初からその姿で待機しとけよ!
生身のおっさんに待ち伏せされるほうが怖えーんだよ!」
***
男は見た目が透けているだけでなく、触れることができなかった。
もしこれがCGだかホログラムだかの技術を使った悪戯だとしても、
それはそれで凄いことのようにも思える。
陽子はこの怪現象を撮影しようと試みるが、
どうもスマホ越しでは男の姿が映らず、
実は夢でも見ているのかと疑うのだった。
「さて、ここからが本題だ
僕がこの世から成仏するためには、
生前のやり残しを消化しないといけない気がするんだ
だから、君にはそれを手伝ってほしいんだよね
……どうかな、陽子ちゃん?」
「下の名前で呼ぶなよ気持ち悪い!
てか、先にそのやり残しの内容を言え!
聞いた上で断るからさあ!」
男は空中で正座し、真剣な表情で語る。
「僕は生前、あまり外に出ない生活をしていたせいで
ご近所さんからは無職だと思われていたけど……
実は、ある分野ではそこそこ有名な作家だったんだ
でも最後の作品を完成させる前に死んじゃってね……
もうわかるだろ? 君にやってもらいたいことが」
「まさか、私にその作品を完成させろと……?」
男は黙って頷く。
この世に未練を残して死んでいった人間なんて大勢いるだろう。
しかし、そんな人々の幽霊なんて今まで見たことがない。
だが、この男はこうして現世を彷徨っている。
芸術家の執念というやつなのだろうか。
それなら少し納得できそうな気がする。
が、しかし。
「いや、無理無理
私、音楽とか美術の成績悪いし、
最後まで何かをやり遂げた経験とかもないからね
成仏したけりゃ、お寺とか行けば?
お坊さんの念仏で逝けるっしょ、たぶん」
「いや〜、そこをなんとか頼むよ〜
あれを完成させたら引退しようって決めてたんだよ〜
人生最後の作品のつもりだったのに、
まさか僕の人生が先に終わるとは思ってなかったんだよ〜
これじゃあ死んでも死に切れないよ〜」
幽霊が手を合わせてお願いしてくる。
これまでの人生で初めての経験だ。
「本当にもう、あと3ページだけなんだよ〜
僕の中では最高傑作だと思ってるし、
ファンのみんなも楽しみにしてるんだよ〜」
「んっ……『ページ』?
そういや作家って名乗ってたけど、
おっさんは何やってた人なん?」
「ああ、漫画家だよ」
「えっ、マジで?
なんか代表作とかあんの?」
「“学級委員の淫らな放課後”が一番売れたね」
「エロ漫画家かよ!?」
***
陽子はすぐさまそのタイトルをネットで検索し、
作者が有名な成人漫画家の高井山愛太郎という人物だと把握した。
陽子の目の前にいる男で間違いない。
ご近所ゆえに、要注意人物ゆえに彼の本名を知っていたのだ。
そんな珍しい本名で活動しているとは、実に肝の据わった男である。
「いや、ますます無理だって!
私が女子高生ってこと忘れてない!?
それって18禁でしょうが!
未成年に何させようとしてんだ馬鹿!」
「僕は中学の頃から読んでたよ
その時の感動が忘れられなくてね……
『将来はエロ漫画家になるんだ』って目標を持って、
高校から自分でも作品を描くようになり、
気づけばそこそこ売れっ子になっていたというわけさ」
「そんなヒストリーどうでもいいわ!
さっさと寺行け! この悪霊が!」
完全に拒絶されるが、愛太郎は尚も諦めずに拝み倒す。
「いや〜、本当にちょっとでいいからさ〜
ちょっと体貸してもらうだけでいいからさ〜
中に入れさせてよ〜 すぐに終わるからさ〜
なんなら右手だけでもいいからさ〜
お願いだよ陽子ちゃ〜ん!」
「言い方がいやらしいんだよ!
誰が体なんて貸すか変態野郎!
一度貸したら最後、何を仕出かすかわかったもんじゃねえ!
いや、どうせ自分の胸揉んだりすんだろ!?
魂胆が透けて見えるんだよ!」
「今は体も透けてるけどね
……まあ、そりゃ揉むけどさ
あくまで今後の作品づくりのための参考資料だよ
女の子に乗り移るなんて経験、滅多にないからね
実際にどんな感触なのかとか知っておきたいじゃない」
「お前に今後はねえんだよ!
てか、さっき『最後の作品』って言ってたじゃん!
引退することに対して未練あったんじゃないの!?」
図星を突かれ、愛太郎は心臓が動きそうになった。
「はは、僕なりに葛藤して決断したつもりだったんだけどなあ
やっぱり僕はエロ漫画を描かずにはいられない生き物なのか……」
「もう生き物じゃないけどな
……とにかく、私は絶対に手伝わないかんね?
そこまで完成させたいんだったら他の人を頼りなよ
私みたいな女子高生じゃなくて、大人の男とかにさあ」
「う〜ん、そっかあ
やっぱり難しいよねえ
どうせなら女の子に取り憑いてみたかったんだけどなぁ」
「エロいことばっか考えやがって……って、それが仕事か
ところで、おっさんの死因は何だった……ん? あれ?」
陽子は自分で口にした単語に違和感を覚えた。
死因。
さっき情報を調べた時、この作家が死んだというニュースはなかった。
彼ほどの売れっ子ならそれなりに話題になっていてもおかしくはない。
それに、近所で死人が出たともなれば大騒ぎになったはずだ。
「え、ちょっと、おっさん
死んだのっていつの話?」
「う〜ん……
たぶん5分くらい前かな
コンビニでアイスでも買おうと家を出たら、
急に心臓が痛くなってそのままポックリさ」
「ばっ……そういうことは先に言え!
なんか妙に落ち着いてるから、
死んでから長いのかと思ったじゃんよ!」
「普段から現実的にはあり得ないことばっか考えてるからなぁ
奇妙な状況への順応性が高かったんだろうね、ははは」
「笑い事じゃねーーー!!」
***
陽子はすぐさま119番通報し、愛太郎の自宅へと走った。
愛太郎には彼女の行動が理解できなかった。
もう死んでいるのに、まさか助けようというのか?
いや、夏場だし、ご近所だから死体を放置できないのだろう。
放っておけばすぐに虫が湧いて大変なことになる。
なかなか行動力のある子だ、と感心していると目的地に到着した。
陽子は玄関先で倒れている愛太郎を発見するなり、
うつ伏せに倒れている彼を仰向けにひっくり返し、
胸の中央に両手を重ねて置き、小刻みに押し始めた。
胸が5cm程度沈む強さで、1分間あたり100〜120回。
これを救急隊員が到着するまで続ける。
なかなかに体力を消耗する作業だ。
「え、心臓マッサージ?
もう止まってるし、きっと意味ないよ」
「それを動かそうとしてんだよ!」
「いやまあ、気持ちはありがたいけど、
そこまで頑張らなくてもいいよ
今日は死ぬほど暑いし、君まで倒れちゃうよ」
「うるさいなあ!
おっさん生き返りたくないの!?
生き返って、自分の手で作品を完成させたくないの!?」
なんと胸を打つ言葉だろうか。
たしかにそうだ。
本当は誰かの手なんて借りたくはない。
自分のやりたいことは、他人の手に委ねるべきではないのだ。
愛太郎は、大切なことに気づかされた。
異変はすぐに起きた。
心臓マッサージを開始してから2分後の出来事である。
「あ、なんだか……意識がぼーっとする感覚……
この幽霊の体が、本体に戻ろうとしてるみたいだ……!」
「マジで!?
やっぱ意味あんじゃん!」
手応えあり。
陽子は心の奥から熱いものが込み上げるのを感じたが、
あくまで頭は冷静に、心臓マッサージのペース維持に集中した。
「ああ、すごく気持ちいいよ……!」
吸い込まれるみたいだ……!」
「動け動け動け!
戻れ戻れ戻れ!」
「くっ……!
なんてテクニックだ……!
もう我慢できない……!」
陽子は、力強く叫んだ。
「生き返れええぇぇぇ!!」
愛太郎は、力強く答えた。
「いやだあああぁぁぁ!!」
「なんで……!?」
もうすぐ生き返れるというのに、なぜか拒否する愛太郎。
それでも陽子は蘇生の手を緩めない。
「……抵抗すんな馬鹿!!
さっさと本体に戻れよ!」
「もうちょっと……もうちょっとだけ……!」
「何がもうちょっとなんだよ!?
こちとら初めての心臓マッサージで疲れてるし、
これで合ってるのか不安なんだよ!
いい加減にしろっ!!」
「いや、その心臓マッサージなんだけどね……!
僕の体に女子高生が跨ってるでしょ……!
そんで、ゆさゆさ揺れまくってるでしょ……!
この構図を目に焼き付けておきたいんだ……!
あ、なんかアイディアが湧いてきた……!
“保健委員の秘密の放課後”……!」
「生き返れええええぇぇぇぇ!!!」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!!!」
*****
後日、陽子は1人の男性の命を救ったとして表彰され、
この経験を機に医学の道を志した。
一命を取り留めた愛太郎は引退を考え直し、
その後、100歳の寿命を迎えるまで生涯エロ漫画家として生きた。