呼び戻すもの
幼い頃、父と海に行ったことがある。
家から車で小1時間足らずのところにある小さな浜辺で、夏になれば近所の家族連れや子供たちで賑わう場所だった。
しかし、私たちが行ったのは誰もいない冬の海で、吹き付ける浜風が身を切るように冷たかった。
父は私の手を強く握り、浜辺を打ち寄せる波に沿うように歩いた。
私はただ、季節外れの浜辺を散歩しているだけだと思っていた。空は鈍色の曇天で、遠くをカモメが1羽、寂しげに飛んでいた。
こんな景色は、つまらない。もっと楽しい遊具やおもちゃがある、温かい場所に行きたい。私はそう思いながらも、しかし父の暗い顔に気圧され何も言えずに付いてまわった。
数十分に及ぶ、無言の散歩。とうとう浜辺の端まで行き着いた。その先には岩場が続き、岩々が波飛沫に黒く濡れていた。
不意に、父が私を抱き上げた。
私は父が私の疲れを察して抱いてくれたのだと思った。しかし、父は私を労っているとは言えない、むしろ私を逃すまいとがっちり掴んでいるといった様相だった。
そして、父はただ海の向こう、地平線を見つめながらざぶざぶと海に入っていった。
私は驚き、咄嗟に身を捩った。しかし父の力は強く、抱きかかえられるほど小さかった子供の私には、抜け出すことは到底できなかった。
私のつま先が海に触れ、足が濡れ、腹が浸かる。私は叫び、泣きじゃくる。どんなに大きな声で泣き、暴れようとも、周囲には人どころか、カモメすら居なかった。
そんな時だった、波を掻き分ける父の動きがぴたりと止まった。その顔には驚きが浮かび、急いで首を動かして何かを探していた。
父の顔が浜を向いた時、父は目玉が飛び出すんじゃないか、というほど目を大きく見開き、青くなった唇は大きく震えていた。何か言葉を発しようとしているのか、唇が開いたかと思うと、父は突然、先ほどまでとは逆方向の浜辺に向かって進み始めた。波に阻まれながらも突き進む様は必死そのものだった。
父は何を見たのか?
私は波と飛沫に邪魔をされながらも浜辺の方を見た。しかしそこには何もおらず、打ち寄せられたゴミがぽつぽつと見て取れるだけだった。
体が海から出た瞬間、父は浜辺に向かって大きく叫んだ。「待ってくれ!」
一体何に向かって叫んでいるのか、そもそも何故父はこんなことをしたのか。私は訳が分からず、ただひたすらに泣きじゃくっていた。父の腕や肩を叩き、「はなして」と叫び続けていた。
浜辺に上がり、父は遠くを見ながら駆けたが、数メートル進んでから、駆け足が歩きに変わり、やがて立ち止まった。それから、何かを諦めたかのような顔をし、ようやく私を見た。
その目には涙が溢れ、目を合わせた私に向かって「ごめんね」と言い一層強く抱きしめた。
私はぽかんとし、されるがままになっていた。
そんな時間が数秒続き、父が再び顔を上げた時には泣き笑いのような表情になっていた。
「帰ろうか」
そう言って、私たちは車へと急いだ。
寒い寒いと言いながら早足で海を離れる父に優しく抱かれながら、私は遠ざかる浜辺に目をやった。
ほんの一瞬、視界の隅に何かが映った。髪の短い小柄な女性が立っている、かのように見えたが、結局どこを見渡しても浜辺には誰もいなかった。
その日のことがまるで無かったかのように、日々は飛ぶように過ぎ、つい先日父が亡くなった。
私は若い父と、会ったことのない亡き母が寄り添う古い写真を眺めながら、その日のことを不意に思い出した。
髪が短く、父の肩の高さほどの身長の母。父の腕を抱き、ファインダーに向け愛らしい笑顔を浮かべている。
あの時、父は死んだ母を見たのだろうか?
父も死んでしまった今、確かめる術は何もなく、ただ遠い過去のあやふやな思い出だけが、私に残った。