逃亡とパニック
Iさんも怖がって挨拶もそこそこに退散しちゃって、救急病院に向かう夫婦を見送ってる時に悠斗からLINEが来たんだって。
真夜中だらか普通放っておくんだけど、相手が悠斗なら何か起こったに違いないって。そしたら「何を手に入れた」だったから、恐ろしくなって私にLINE電話してきた。
そして今に至る。
この騒動でも家人は起きて来なくて、そっと一階のお祖父さんお祖母さんの部屋を覗くとよく寝てた。夜中に起こすのも申し訳ないから、秋葉さんは帰り支度をすると庭のテーブルセットで私達を待ってた。
「それで、件の巫女形埴輪がその胸に抱いてる巾着の中身なんだ?」
疑問形だが確認を悠斗はした。
藍染め和柄の巾着袋を大切そうに秋葉さんは抱えてる。
「うん、理性では解かってんねん。けどこれは私のもんやから」
夜明けの光の中で悠斗は渋~い表情をする。
「まだ理性が残ってるうちに、それを俺に渡しとこう」
差出された手を避けるように秋葉さんは身体を逸らす。
「秋葉さん」
「解かってる。せやかてこの子は私と居りたがってんねん」
「うぎゃぁーーっ」
赤ん坊の泣き声が夜明けの静寂の中で緊張した空気を頭上から切り裂いた。二階だ。泣き止まずに会話を邪魔する勢いだった。あやしている雰囲気もあるが、赤ん坊の叫ぶような泣き声は鎮まることがない。
まるで何処かが痛むような、そんな泣き方が私を不安にさせた。
「悠斗!」
「解かった。取敢えずは持ってて」
ピタッと泣き声が止んだ。
悠斗の表情はかつてなく渋く、眉間や顎に皺を刻む。
「ご迷惑掛けるのもなんやから、U家からは一旦退散しよ」
秋葉さんの提案に私達は途中の道の駅まで戻った。店舗は開いてないけどトイレ休憩と自販機で飲み物を購入する。
お父さんはリクライニングを倒して眠りこけたまんまだ。
「足湯無料って書いてあるね」
秋葉さんの言葉にみんなの視線は寒い早朝に湯気を立てる足湯に集まった。源泉かけ流しで二十四時間開放されてるんだ。
「悠斗が来るいうからずっと外におって身体が冷え切ってんねん。ちょっとあったまってこうよ」
「こんな時間に?」
「足湯は体中あったまんねん」
タオルを何枚か持ってたはず、と車に戻る。
みんな意識は足湯にあった。
開けたのは後部座席のドアだった。
お父さんが残ってるからって施錠してないし、鍵も残したままだったんだ。
犬の鳴き声に振り返るとミニバンが急発進してて唖然とした。
「秋葉さん!」
大地さんが取り付こうとしたけど、僅かの差で逃がしちゃった。取り付けてもそれはそれで危ないよ大地さん。
「クッソ!逃がしてもうた」
「無理しちゃダメ!でも秋葉さんこれは相当憑りつかれてるよ」
理性が残されてるみたいだから安心してたのに。
「ミノイちゃん預かっといてよかったな。一緒やったら呪力が相乗効果でやばかった」
デイバッグを大地さんは軽く叩いた。その中にミノイが居るんだ。
「逃げて、目的地あるのかな?」
「あるんやろ。せやないと奪われまいとするだけやったらおかしいやん。――取敢えず足湯しながら今後のこと相談しよか」
バスは九時四十分まで来ないから十分過ぎる時間があった。
車で真夜中の高速をぶっ飛ばした時には早かったのに、電車を乗り継いでの復路は半日も掛った。旅してる気分で楽しくはあったけど。大地さんも美味しい物食べさせてくれたし。
小雪と八弥斗は車に乗せたままにしておいて結果的に良かった。列車に乗るにはケースと動物を合計しても十kg以下なんて絶対無理だもん。どうして日本はこうなの。
東北自動車道を走ってる途中、スマホのアラームで起きたお父さんは小雪と八弥斗の恨みがましい目に戸惑い、自分の置かれてる状況に驚いたって。
その頃の私達はまだ足湯を堪能中だった。
「どうしてお父さんは置いてけ堀なんだ⁉」
「私達の方が置いてけ堀なの!秋葉さんに車を乗っ取られちゃったんだから」
お父さんを通して目的地を訊くと大阪だという。
「マンションに帰るの?」
これには答えがなく違うと分かった。
「お前達大丈夫か?兎に角お父さん何処かで降ろしてもらうから」
「犬連れじゃ公共交通機関はアウトだよ」
「うっ。――置いてくしか仕方ない。仕事もあるし…」
うっそ!今の秋葉さんは犬を任せられない状態なんですけど。いや、お父さんの状況も分かるんだけどさ。
「父ちゃんそのまま秋葉さんにくっついといて、逃がさないでくれ」
スマホを悠斗に奪われる。どうして一言貸してって言えない?
「は?秋葉さんの様子がおかしいのは分かるが、お父さんには仕事があるんだ」
「は?付いて来ないでいいって言ったのに付いて来たのは父ちゃんじゃん。仕事休む位の覚悟はしてなかったって?」
「お前な…」
何て言い方すんのよ、お父さんには辛口なんだから。スマホを取り返す。
「お父さん、いつも迷惑掛けてごめんなさい。でも秋葉さんには誰か付いてなくちゃダメなの。お願いお父さん。秋葉さんについてて上げて」
「……仕方ないな」
苦渋に満ちた呟きって奴だった。
「ありがとうお父さん大好きだよ」
「お前…都合よく…」
「八弥斗と小雪も頼んだからな父ちゃん」
「分かってる。そっちも気を付けるんだぞ。大地君によろしく伝えてくれ」
「伝わってます」
横から大地さんが返事して、それはスマホの向こうにも伝わった。
お父さんは車中で私達の学校に欠席届をしてくれた。
これは後で聞いたんだけど、了承したものの、大阪まで付き合う必要もないと判断したお父さんは、秋葉さんから車のキーを取り返そうとしたんだ。
サービスエリアで朝食を摂って、災害用に車に載せておいた犬用の食事を二匹に与えた後だったんだって。キーを奪われたらお父さんは身体能力が高いから、取り返そうとしても秋葉さんには無理。
すると何処かから缶ジュースが飛んで来て肘に当たってスマートキーを落としちゃったんだ。素早く拾おうとしたら八弥斗に体当たりをかまされて、驚いた瞬間ガラスが割れる音がしてもう一度驚いた。見ると割れた瓶ジュースの下半分がアスファルトで割れてたって。きっと割れて鋭くなった方を先に飛んで来たに決まってる。怖…。
「ここに残るか、一緒に来るか決めて下さい」
緊張した面持ちの秋葉さんに堅い声で告げられて、同行する決心をしたんだ。
羽生駅で秩父鉄道に乗換えてるとお父さんから大阪だって連絡が入った。高速を降りる気配はなくて、マンションにも向かわず南下する道を走ってる最中だった。
そしてお父さんはある申し出をしたんだ。
「秋葉さん、そんなに急ぎますか?」
返事はなかったけど反応はあったそうだ。
「少しでもマンションで休まないかな?状況からすると貫徹だろう?違うかな?」
これには企みはなくて、誠心誠意秋葉さんの身体を案じたんだ。だよねお父さん。
「確かに疲れてます、私」
何かを決心したような口調だった。
「何をするにしても万全な状態じゃないと。目的地の近くでもいいから、一旦疲れを取る為に休まないか?」
助手席で見守っていると「そう…ですね」と応えがあった。
「そうです、そうなんです。休んだ方がええんです」
それは自分に言い聞かすようだったという。意外な反応にお父さんは心の中で強く拳を握った。
その時の秋葉さんはお父さんに言えなかったんだけど、運転に必死だったんだって。何故って彼女を乗っ取ろうとしてるモノは力は強いんだけど超長期のブランクがあって現代の様相が全く理解出来ない上に、本格的に目覚めたばかりで記憶が脈絡もなく湧き溢れてた。
U家で私達を待ってる間にも擦り合わせはあって、それで彼女が強烈に欲しがっている物と手に入る場所だけは判明してた。そこに突き進もうとする力が強くて、内なる説得は進まなくて溢れかえる情報量に溺れかけてたそうだ。
「でも、これから行く場所で休めます。そう…休める場所なんだ」
そこでなら落ち着いて説得も可能なのではないか、一縷の望みを抱いてた。
夕方にようやく到着したのは河内長野市にある一軒家だった。表札には北条とあって、親友の怪奇作家北条夏実先生の実家だという。といってもご家族は亡くなられているから、夏実先生しかいらっしゃらないんだ。家主不在なのに慣れた様子で合鍵で上がり込み、小さな庭に小雪と八弥斗を導いた。
「どなたもいらっしゃらないんですか?」
家は整然としていて暮らしの様子もあるが、最近は帰って来ていない感じもある。小型犬用の餌のストックもある。
「夏実は私のマンションに居るんでしょう。作家仲間やオカルト仲間は天満橋のマンションをええ感じに使うてるから、独りになりたかったら逆にここに来るんです。一時期お金のない時に、その頃は夏実のお母さんも生きとったんですけど、暮らしてたこともあるんですよ」
お互い芽の出ない作家志望として意気投合して以来の、一緒にいて全然気の使わない存在だというのは知ってる。
昭和の建築だからリビングではなく茶の間だと秋葉さんは言い、使い込まれた鎌倉彫のちゃぶ台が郷愁を誘う風景だったとか。秋葉さんが持出したお洒落な電気ケトルがアンバランスだったって。
「解かってるんです、異常ですよね。私の中にも素直に従おうとする自分と逆らおうとする自分がおって、どちらか言うと逆らおうとする自分が負けてもうてるんです」
一服するとそう話つつ愛おしそうに埴輪の入った藍染めの巾着を撫でた。
「見ます?可愛いんですよ」
見せられても埴輪に興味の薄いお父さんには埴輪だとしか分からない。
「これを手に入れに栃木まで?」
「ちゃいます。別のんです。でもそこにこの子がおって…」
「その子は、君に何をしろと?姪や甥まで置き去りにして」
答えはなく、神妙な表情で黙り込まれた。やがて視線だけが動いた時、背筋が凍る思いをしたって。小雪と八弥斗が跳んで来てお父さんを守るように盾になった。
『邪魔するな』
動いたのは秋葉さんの唇だったけど、声は全然別物で不思議な響きを帯びて、物理的な力で圧迫してくるようだった。
「じゃ…」
喉に言葉がつかえて冷めたお茶で潤した。
「邪魔はしない。邪魔はしないから付いて行かせてもらいたい…。君は私の…義妹の身体を都合よく使ってるんだから、それが条件だ」
秋葉さんの身体が崩れて、えらいこっちゃと確かめると寝息を立ててたから、隣の部屋の押し入れで見つけた毛布を掛けてあげた。
で、お父さんはどうしたかっていうと、とっても疲れてたんで小雪と八弥斗に添い寝してもらって寝たって。お疲れ様です。
河内長野の家に寄ったのは休む為だけじゃない。
「夏実には悪いんやけどこれを貰いに来たんです」
翌朝、非常に長い入浴の後で、そう告げた秋葉さんが手にした破魔矢からは焔のような陽炎が立ってた。いつもは垂らしてる艶やかなストレートの黒髪を、古代風に結った上にミステリアスな美貌で告げられると、別世界に引き込まれる思いだったって。
「怡君には連絡されました?」
「面倒な仕事中だから連絡が取れないとお義父さんが」
「ああ、やばいな…」
「やばいのかい?」
「やばいんですよ。強いんです目覚めたこの子ってかこの人。敵を捜してるんです。古代に逃してしまった敵の呪術師を」
彼女は一度失敗してしまっていたから、それが遺恨として呪具としての巫女形埴輪に強く残ってしまってたんだ。
「どう考えてももう死んでるな」
真面目な顔して頷くお父さんがおかしかったって。その反面秋葉さんの中の乙女さんはパニック起こしかけてたんだ。
「何処に行くか訊かれても答えられへんかったでしょ?地名が古代のピンポイント過ぎて、理性の残った片っぽで知識総動員して当たってみるんやけど、大まかにしか…え~乙女さん、と仮に呼んどきましょか。乙女さんが行きたい場所が判れへんかったんです」
脳裏に薄っすらと浮かぶ乙女さんは、張りのある肌の肉付きの逞しい気の強そうな女性だったって。一番近いのは鈴木杏だそうだ。
判ったのは奈良に行きたがってることと、破邪の儀式に使う矢が必要だったこと。他にも儀式の細々とした物を欲しがってたけど、何より矢はなくてはならないんだ。でも破魔矢ってお正月しかない期間限定品だから、今の時期何処の神社を周ってもない物なんだよね。
ええ、知ってますよ仏具神具店で買えるのは。でもそれって御祈祷されてないよね。鏑矢でないとダメだし。秋葉さんは知り合いの神主さんに連絡取ることも考えたんだけど、乙女さんの圧が強くて、自分から誰かに発信ってさせてもらえなかったんだ。
「乙女さんの思考も取っ散らかってて…。修吾さんの言う通り休んだのが良かったな。多少説得にも成功したし、筋立てが見えて来たから」
休んだのは割と強引だったらしい。
「充電器を買いに行きたいんだけどね。」
連絡しなきゃなんないとこが多くて、スマホの電池の残量が心許なくなってた。財布を持って来てないから、モバイル決済出来なきゃ買い物も出来ない。でも答えはNOだった。乙女さんは自分に理解出来ない物を使わせるのを嫌がったんだって。
「困ったな…」
どうしたもんかと考えてたら秋葉さんの腕がすっと上に伸びて、キレイな指が天を指し、無表情な顔は何も考えまいとしてるようだった。
それでピンと来たお父さんがそっと立上ると「右」とだけ告げられた。
二階に上がって右の部屋を開けると物は少ないけど女性の部屋だって分かって、それでちょっと狼狽えた。なんせ本人の了承は得てる?んだけど勝手に入るのは気が引けるんだ。窓辺の机の上に文房具と並べて、3in1の充電ケーブルが置かれてあるのをすぐ見つけたって。
古代の人が充電器の形態を知ってる訳がない。喜びで無言が辛い中で充電したんだって。
必要な物を用意をしているからって、秋葉さんが内なる乙女さんを無言で説得して時間稼ぎしてた時、うちでも私が悠斗を説得に掛かってた。
怡君との連絡なんかは大地さんがしてくれてたから、お父さんは心配だけど問題は大人達に任せられるって考えてたのに、悠斗は自分も付いて行くって言い出したんだ。
身長の高低差が激しくて姉の威厳が示せないから、キッチンの椅子に乗って厳めしく腕を組んで諭したんだ。
「止めな、わざわざ嘴突っ込まなくても怡君達がちゃんとしてくれる」
その場には大地さんや仕事を終えて急いて駆けつけてくれた怡君だけでなく、茜お祖母ちゃんや良平お祖父ちゃんも心配して来てくれてたんだけど、みんな意外そうな表情で私を見てたから吃驚した。
「え?みんなでぞろぞろ行かなきゃなんないの?」
「姉ちゃんは絶対問題を人任せにしないってみんな思ってたんだよ」
「私に何が出来るって?つーか何か出来るとしても、私が出来ることは怡君がもっと上手くやってくれるんだから。大地さんも手を貸してくれるんだし、私達は口出ししてもウザがられるだけ。学校行ってお父さんと秋葉さんの無事を祈って待つだけだよ」
「明日からゴールデンウィークですけど?」
「合間の平日は学校あるでしょ」
「あっても休めばいいだろ、高々数日じゃないか」
「あんた受験生だって自覚ある?悠斗。そんなんじゃ秩父高校落ちちゃうでしょうが。内申点だって重要なんだよ」
「俺は大学進学しないから秩父高校いかない。裕太と農工科学高校受験すんだ」
「それでも受験があることは変わりないでしょが。バカでも入れるなんて聞いたことない」
「姉ちゃんが勉強見てくれっから大丈夫なんだよ俺は」
「人に頼っといて大丈夫とはなんだ!そんな姿勢じゃ勉強教えてなんてやんない。いいから賢いお姉ちゃんの意見に従っときな!ここは大人達に任せて、私達は学生の本分に取り組むの」
「高校なんて通わなくても高校卒業資格試験で一発合格出来る、って豪語してる人の言葉とも思えませんが?」
「私はね!おバカのあんたが中卒を最終学歴にしないように心配したげてんでしょうが」
「だからって身内をほっとけるかよ」
「頼りになる大人がいるっての。信じて任せときなさいよ!」
「信じてるし余計な事しないって約束する。八弥斗や小雪や秋葉さんも父ちゃんも心配だから俺は行く!」
犬を先に心配したなこの野郎。
睨み合ってるとお祖父ちゃんが仲裁に乗り出した。
「僕や修吾君の血を引いてるのになんでバカなのか理解に苦しむが、穂那実、気持ちは解かるんだが悠斗にも感ずるところがあるんだろう。僕も一緒に行くから悠斗を行かせてやってくれ」
「お祖父ちゃん」
「あなた…」
私とお祖母ちゃんが同時だ。
「悠斗は理屈より感覚の人だからね。穂那実、、悠斗が中卒でも私が面倒見るしなんなら裏口工作もしたげるから、悠斗のしたいようにさせてやってよ」
オイオイ、それを本人の目の前で言うんじゃない。もう皆さん子供に甘いんだから。それでもって案じる私の気持ちなんて全然解かってない悠斗がいらん口を開くんだ。
「ほら、俺の周りは優秀なんだから俺位何とかなんだよ。姉ちゃんだからって俺の分まで背負込まねぇで弟の決断を尊重して。ね、お願い!」
なんで大人達が悠斗を止めてくんないのか分かんないけど、折れるしかない。
「また要らんもの憑かせて帰ったら承知しないからね」
「それはもう承知するどうこうじゃねぇんじゃね?」
ギッと睨み付けてやると大地さんが悠斗の口を塞いだ。
「私は学校行ってくる」
「遅刻じゃない?」
なんで意外そうに訊くのさ怡君。
「そうだね。でも二時間目から出席出来るから」
「ま~じめ~」
「ええ、ええ、将来に対してだけじゃなくて、現在この瞬間に対してだって私は真面目ですぅ」
「いいことよ穂那実。私も朔とこっちに泊まるから寂しくないわ」
玄関まで朔を抱いたお祖母ちゃんが送ってくれた。黒くて可愛い奴め。
「お祖父ちゃんと行かないの?」
「仕事があるし、そっち方面はさっぱりだもの」
「それは嬉しいな。じゃ、行ってくるね」
行ってらっしゃいの声は二つ。お祖母ちゃんと家政婦の黒谷さんのものだった。
通学は行きはよいよい下りだけど、帰りは上がり曲がりくねるから自転車は電動だ。公道まで押してたら怡君が追い駆けて来た。
「穂那実」
「どうかした?」
「悠斗のこと」
「悠斗の?」
「穂那実が悠斗の幸せを一番に考えてることは解かってる」
「家族だし」
「そうだね。―これだけは解かっておきゃなきゃダメなことがある。悠斗は不幸にならない子だよ。どんな現実もするっと受入れちゃうから、吃驚する程ね。それは私も穂那実と同じだから解かるんじゃない?社会一般的な幸せとは違うのがそんなに気に懸かる?」
「そうなるんじゃないかとは思ってたけど…」
「海外に遊びに行ったり、ホワイトカラーな人生が幸せっていうのは社会的な洗脳でしかないんだよ。生き方や幸せは人それぞれなんだから。何が言いたいかっていうと、悠斗がそういうのとは違う選択をするからって、一々心配そうな素振りを悠斗に見せないで。あの子は一番にあんたの反応を気にするんだから。解かるよね?」
あの子は好い子だから、私の反応によっては道を間違えてしまうだろう。
「解かる」
「それともう一つ。あんたはあんたの幸せを掴まなきゃダメなんだからね。誰かの為の自分は卒業して、あんたこそ自分が何をしたいのか本当に考えなきゃ」
「……私が?オックスフォード大学卒業してバリバリ世界で自分の力を試したいと考えてますが?」
「それが出来るのと自分のしたい事ってのとは時にイコールしないんだよ。親兄弟の面倒をみる為に高額納税者への道を進む必要はないってこと」
これは不意打ちだった。頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
「誰かの為に生きられるのは幸せでもあるさ。けどその相手の重荷にもなったりするじゃない。家族であってもね。――何が本当に自分のしたい事で辛くても進みたい道か、考えてみて。それがあんたの家族の幸せでもあるんだからね」
「……はい…」
「素直だねぇ。だからこのやさぐれまくった怡君が柄にもないこと言っちゃうんだ。でもあんたの幸せはあんただけのものじゃなくて、家族だけのものでもなくてね。茜ママや良平パパ、秋葉や私の幸せでもあるんだよ。ああ恒平も入れとかないとね、でないと奴がへそ曲げちゃう」
ちょっと照れ臭そうに師匠を付け加えた。
こうして出掛けた悠斗達だったけど、すんなり秋葉さんと合流は出来なかった。
乙女さんの指示通り奈良の大神神社に向かってお清めの砂は受取れたけど、現代と古代のギャップは凄まじく、一日二日で整合させることは出来なかったんだ。埴輪の乙女さんが製作されたのは五世紀後半頃から六世紀中頃とみていい。つまり千五百年以上は前なんだから、そりゃ無理ってもんですよ。
乙女さんのパニックは秋葉さんにも移った。乙女さんはどうかして自分の知る場所を探そうとして、そこからは迷走に次ぐ迷走を始めたんだ。
秋葉さんは必死で朝廷に逆らう敵はもういない平和な時代だと説得しても、朝廷に逆らう敵、土蜘蛛の呪術師を倒すことだけを千五百年以上も風化させもせず思い凝らしていた乙女さんには、到底受容れられる事実じゃない。パニックに陥って頭を抱える秋葉さんに代わって、運転させてもらえるようになったお父さんは様々な場所に車を走らせることになった。
現在の日本の地理区分と、乙女さんは埴輪だから万葉の昔の地理区分とは違う。本州でみると、関西より東は中部地方、関東地方、東北地方となる。だが昔は東海道、北陸道に挟まれて東山道という真ん中を貫いた、大きな区分があって、乙女さんが迷走したのは東山道だ。現在でいうと滋賀から青森の広域なのだけど、その中で岐阜の飛騨から始まって福島の岩代という、景色のいい山岳地帯までを迷走した。
何せ頼りは自分の感覚だけだったから、それらしい存在を感じると秋葉さんが地名を現代に翻訳してお父さんに告げる。でもってその辺りを流して、曰くのある代物を持った旧家とかならまだしも、絶対障っちゃいけなそうな祠の跡や打ち捨てられた神社なんかは、秋葉さん冷汗ものだったって。
あ~~だよね~。
近付けば敵じゃない、土蜘蛛の呪術師はいないって判るものの、ちょっとづつの絶望は、積み重なって容易に大きな狂気に変化してしまいそうで秋葉さんはそれにも恐怖した。
怡君と合流したかったけど乙女さんは現代の機器をさらに厭うようになって、スマホに触ること自体を忌まれるようになって内側から見張られたから、スタンプを送る隙さえなかった。
こういう時に現金を持たない苦しみをひしひしとお父さんは感じたんだ。何故って連絡する時間が取れない訳じゃなかったからだ。秋葉さんは乙女さんと一体だし、日に日に乙女さんの占める割合が多くなってたから無理だけど、小銭があればこそっと公衆電話で連絡することだって出来た。支払いは何十万でも可能だけど、十円玉をたった数枚おろすことが不可能だったんだ。
支払いは秋葉さんの気遣いで乙女さんには見せないようにしてた。最初にその現場を目にした時、スマホが理解出来ない人間にモバイル決済が解かる訳もなく、どんな仕掛けだ絡繰りだ、お前は人を惑わす悪い人間だ、などと秋葉さんを封じ込んでお父さんを退治しようとしたんだって。支払いが済むとスマホは取上げられた。
それを乗り越えてからお父さんと秋葉さんは乙女さんに反感を抱くんじゃなくて、分かるものを与えて懐柔する道を選んだんだ。さすが賢い!
果物なら昔からあるし、その当時に無かったとしても受入れるのは難しくない。それに当時旬の山菜やらなんやら。ただその効果は時間を掛けて徐々に効いてくるものだから、急ぐなって自分を戒めてた。
GPSがあっても対象は常に移動するし山中は電波も届かないことが多いから、悠斗達も中々追いつけなかった。乙女さんが何を追ってるのかも分からないんじゃ先回りも出来ないしね。
毎日悠斗と連絡は取ってたんだけど、追い駆けながらも現地を楽しんでる様子にムカつかされましたよ、ホント。
「予想はしてたけど、ゴールデンウィークの登校日も帰んないつもりだね。あんたの法力で秋葉さんの居場所が分かる訳じゃないんだから、そろそろ帰って来たらどうなのよ」
「姉ちゃん、一度始めたものを途中で放り出せる男じゃ俺はないぜ」
「あんたね…」
「姉ちゃんへのお土産も買ってあるって」
「そういう問題じゃない」
「じゃあまた。あ、母ちゃんが」
サッサとLINE電話を終わらせてしまった。
「悠斗は帰って来ないって?」
リモートで仕事してたお祖母ちゃんはキッチンに入りしな会話を聞いてた。
「明日の登校日も絶対帰って来ないよあいつ」
「学校だけはちゃんと出てた方がいいんだけどねぇ」
すやすや眠る朔のベビーベッドを覗く。
朔を寝かしてるのは電動で動く揺り籠にもなるベッドだ。揺らし方も選べれば音楽までかかる優れもので外に持ち運びも出来る。
「朔を見ててくれて有難いけど、あなたは?何処にも出掛けないけどお友達とは予定がなかったの?」
「休みだからって必ず何処かに出掛けなくちゃいけないってことじゃないじゃない。お父さんも仕事で忙しいし、友達とも後半には遊ぼうって話はしてるんだよ」
「そう?」
「明後日は遠足だしね」
我が校の一年の遠足は毎年ゴールデンウィークの中日って決まってるんだって。
「あら、じゃあお弁当がいるわよね。お祖母ちゃん張り切っちゃうわ」
お祖母ちゃんが笑うと周囲がぱあっと明るく華やかな雰囲気になる。
「え?自分で作るから大丈夫だよ」
「何言ってるのよ、お祖母ちゃんに作らせて。何十年振りだろう、ワクワクするわ。何作ろっかな、リクエストない?」
「私大喰らいだから大きなお弁当箱だよ」
「当然じゃない、育ち盛りなんだから」
背も胸も全然育ってくれないんですけど。
「たくさん食べてくれるんだったらお重にでもしようかな?ねっねっ、何がいい?」
「え?ん…根菜と牛肉のきんぴら。あれ美味しかった。玉子焼きは甘いのが好き」
変な気分だった。くすぐったい嬉しさを素直に表現するのが何故か憚られるっていうか、遠足とかお出掛けにしてもお母さんはお弁当なんて作ってくれたことなくて、いつも自分で適当に作ってたんだ。母子家庭じゃ珍しくない。弥生もサンドイッチや菓子パンのお弁当だったりしてた。
その弥生は翌日の登校日に何日も寝てないって顔で登校して来てて吃驚した。普段は明るいのに暗い顔して口数も少ない。
そして…ちらつく影。
鳥肌が立って背筋がゾワッとした。
探ろうとしたら逃げた。しまったな。うちのことに気を取られててこんな奴に気付けなかった。
「弥生、お守りちゃんと持ってる?」
定期的に氏神様のお守りを頂いてるんだ。
「持ってるよ。鞄に入れっぱなしだもん」
こりゃいかん。
「なんだか変なモノ憑いてるから、私祓っちゃうよ」
こいつを祓うには何がいいだろう。本体じゃないから紙飛行機で遠くに飛ばしても無駄だし、兎に角紙風船にでも封じとくしかないか…。
「大丈夫、降参はまだまだ先だよ。頑張んないと」
「そうだけど…。厄介そうな奴だよ。無理しない方がいい。明日は大したコースじゃないけど歩きなんだし」
「うん大丈夫」
本人にそう言われちゃうとな。弥生は無理して明るい顔を作ってた。それがまたふっと暗くなる。
「大丈夫だけど…、休みに入ったら遊びに来ない?二人だけで…相談したいことがあるんだ」
それ位なら保つかな?
「いいよ。じゃあ練り香作ってみたから持ってくね」
邪霊除けに試しに作ってみたんだ。
「何?あたしは混ぜてもらえない話してない?」
後ろから克美にぐっと首を絞められる。小さいと絞められ易いのが悩みだ。
「あなたの見えない世界にようこそ。そっちこそこの頃桜子と二人でお出掛けしてない?」
桜子は別のクラスにいる中学からの仲良しだ。
「本のイベントに一緒に行ってたんだ。楽しかった」
二人は本の好みが合う同士だ。私も借りて読んだりするけど、サイン会とかのイベントに参加する程じゃない。
「ほれほれ、たまにはそういうこともあるんだから妬くんじゃない」
「弥生は本当に顔色が悪いね。悪い霊に悩まされてるだけ?別の悩みない?」
「ない。手強い奴にちょっと手古摺ってるだけ。心配かけてごめん」
「うん、そういうことなら王様を頼るといいよ」
「結局はそうなるんかい」
「私に霊は視えないからね」
だからって頭っから否定はしない。そういう世界への憧れを持ってるからだ。
その日は最終授業が明日のガイダンスに変わった。
歩くのは「奥多摩むかし道」で、上級生達から文句が出そうな楽なコースなんだ。去年までは登山だったからね。なんで今年は楽かっていうと、女性教諭の妊娠が重なっちゃったんだって、おめでたのお裾分けを頂いた感じだ。
仲良しグループでお喋りしながら歩いてりゃその内終わってるってコースだから、歩き切った後の奥多摩湖周辺で遅いお昼をゆっくり摂って、近くの資料館を見学して終わり。の、はずだった。弥生が何度も人生を終わらせようとしなかったらね。
張りきったお祖母ちゃんは本当にお重のお弁当を作ってくれた。これはお昼が楽しみだ、って出掛けたんだけど、弥生の様子はやっぱり思わしくない。
面倒見のいい私はちゃんと浄霊セットを持って来てたんだけど、弥生はその時も私の助けを拒否したんだ。
乗っ取られかけてる。弥生って本能的に無理しないタイプでね、問題がストレス化する前には周囲に訴えて解消しちゃう安心な子なんだよ。自分で祓う訓練を始めてからも、手強い相手はすぐに降参して私を頼ってた。
それなのに今回だけは拒否し続けてる。
克美と目が合った。付き合いが長いだけに克美もおかしいって思ったんだ。
「ちょっと弥生。大丈夫なのか?辛いなら祓ってもらった方がいいんじゃ…」
「大丈夫って…」
言い切れなくて意味深に終わったこのタイミングに、って言葉を継ごうとしたけど、「じゃあバスに乗るぞ」って先生の号令に殺がれちゃった。
タイミングって大事だよ。バスの中でも説得しようとしたけど、私達の班に加わった女の子がお喋りで、そんな暇くれなかったんだ。
仲良しグループだったけど基本四人で一班の編成だから、あんまり喋ったことのない早坂さんが四人目になった。クラスでも早くも浮いてる子なんだよね。弥生の隣に座ろうと思ったのに、ちゃっかり隣に座らされちゃった。
抜け目のない目をして根掘り葉掘り訊いてくるから、自分のは適当に流して訊き返してると、家族関係に不満が鬱積してるらしくて、一度調子に乗っちゃうとダムが決壊したみたいに日頃の不満が溢れ出しちゃった。
「親って解かってないんだから、私にはきついのに妹にはさ。バカな子ほど可愛いって奴ですか?ブスで頭悪いのに可愛がっちゃって。妹も頭悪いのにそういう人に取り入るっていうの?そういうのは上手い訳。私悪者にされてばっかりで」
云々。
妹に始まって兄、父って順に不満の洪水を私は浴びることになった。母がないのは母に辿り着くまでにバスがJR奥多摩駅の駐車場に着いたからだ。
弥生が心配だったから、歩く時はしっかと弥生の腕を掴ん捕まえた。自然早坂さんは克美と歩く感じになるけど、舌があったまったって感じなのかまくし立ててた。克美が返事をしようとしても必要ないんだろう、間をおかずに答えを自分から話して思いっ切り脇道に逸れて戻る気配もない。むかし道の入り口に辿り着く前にしてすでにそうだったのには感嘆に値すると思うよ。
「ええ、ようやくここが入り口ぃ?だいぶ歩いたと思ったのに」
大して歩いてないよ、は心の言葉。
草に埋もれかけの廃線路は趣があって、なんだか心揺さぶられる光景だった。元はダムの建設資材を運搬する為に敷設されたんだけど、工事が終わって観光用にしようとした計画が頓挫したんだって。かつて列車が走ってた廃線を歩くってなんだか楽しい。
「なんで放っとくの!さっさと壊して歩き易くしちゃえばいいのに」
っていうのは無視無視。
顔色が悪かった弥生は、歩いて汗を流したのが良かったのか段々元の明るい笑顔を取り戻し始めてたから安心した。反対に早坂さんは不満たらたらで、ゆっくり歩いて他のグループに追い越していってもらってるのに、それでも早いってブーブーだった。なので彼女が追い付くのを待って歩くを繰返すんだけど、
「やっと追いついたと思ったら休憩終わらせるの止めて。いじめ?」
「君の脚に合わせるのに休憩せざるを得ないんでしょうが。ゴールにはどうしたって辿り着かなきゃなんないんだから、トロトロしてて辛いのは自分だよ」
あ、克美言っちゃった。
「あんたって陰キャできつい言葉使うと思ってたけど、相手に対する労りってものが欠けてんだね」
「労わる程の何をしたのか教えて。もしかして肉体年齢八十代とか?それなら早坂婆ちゃんとして労わるのもやぶさかではないねぇ。何処から来たのか覚えてる?住所は言えますか?」
あーあー、厭味ったらっしいんだから。
「腹立つ!ねえ王様、この人に何か言ってやってよ」
何かって何をですか?
「早坂さん普段もう少し速く歩いてるよね」
「こんな歩き難い道じゃないでしょ」
「ペースを合わせてあげたいとは思うんだけどさ、もう二クラスに抜かれちゃってるんだよ」
身体が当たりそうな狭い道だから会話も聞かれてる。男子も女子もじろじろ見て通り過ぎてく。
早坂さんの顔が赤くなったところにさらに追い打ちをかけちゃうんだな。
「お年寄りになると膝が悪くなるんだよね。早坂さんももしかして膝が悪いとか?」
「克美、そんな風に言わない」
「そうだよ。膝なんて悪くない。老人扱いしないでよ」
「じゃあ君が追いつくの待たなくていい?待つのも老人扱いだよね」
火花が散った。火傷しないようになるだけ間を開ける。
すると静かに岩にもたれて待ってくれてると思ってた弥生が奇妙な声を上げたんだ。周囲の目が今度は弥生に集まる。
「弥生!」
彼女は耳神様っていう、穴の開いた石がたくさん積まれてる塚に触ってた。耳垂れや耳痛がある時に穴の開いた小石を供えると治るって謂れがあるんだ。医療が十分じゃない時代のものだけど、不用意にそういうものに触っちゃいけないんだ。
「弥生、何があったの?」
「弥生」
早坂さんとの不毛な争いを捨てて克美も弥生の側に来た。
「…今の…聞こえ…た?」
真っ青な今にも倒れそうな顔で訊く。
「音なら色んなのを耳が拾ってるけど、何を聞いた?」
こういう返し方が克美なんだよな。確かに多摩川沿いの道だから川の音も、通り過ぎる同級生達のお喋りの声も歩く音も、風に木が騒ぐ音だってそりゃ聴こえるけどさ。
「音じゃなくて…」
言い掛けて止めると弥生の背筋が伸びて、そしてにっこり笑う。
「聞き間違いだったみたい。そんなの誰もいう訳ないもんね。行こ。私達クラスのみんなから凄く離れちゃってる」
「弥生あのね…」
ところが聞いてもくれずに間髪入れずに歩き出したんだ。
「待って弥生、速いよ」
克美が慌てて追い掛けて、一歩遅れた私は早坂さんにガシッと腕を掴まれてしまう。
「置いてかないでよ。久保さんどうしちゃったの?」
「分かんないけど急がなきゃ。様子がおかしい」
「君達どうしたんだ?」
問うてきたのは若い男性の数学の先生だった。
「君らのクラスはもっと前を歩いてるはずだろ?気分が悪いのか」
「あ、なんでもないんです。景色がいいからって長谷川さんが時々止まっちゃうもんだから」
早坂さんは私の所為にすると、ぐいぐい強い力で引っ張って先生と距離をとった。
「ちょっと!なんで私の所為にするのよ」
「二人を追わないと、あの子達すっごく足が速いんだから」
誰の所為だと思っとるんだって腹も立ったけど、兎に角今はそんなことに関わってらんない、弥生が気に懸かったんで早坂さんの腕を振り払って急いだ。
十メートル程の距離に追いついたと思ったら、川沿いの崖の木の伐採された場所で一回目の自殺未遂が起こった。
低い柵を乗り越えて下に飛ぼうとしたんだ。克美が全力で止めてくれたからよかったものの、本人はぽにょんとしてて、不思議そうに克美を見詰めてた。
「どしたの?克美」
「何やってんだ」って外野の叫びも聞こえない風だ。
「それはこっちが訊きたいんだが?柵乗り越えるから吃驚した」
知らない男子生徒も克美を助けてくれたし、飛び降りるにはちょっと難しい場所ではあったから防げたんだけど、その時はまだ奇行だとしか思わなかった。
惣岳の不動尊や馬頭様の前を足早に通り過ぎる。小さな身体で早坂さんを引きずるように歩かなきゃなんないから大変だったんだから。
次はしだくら吊り橋だ。
吊り橋を超えてもその先に道はないんだ。ただ橋からの風景を見たくて吊り橋に踏み入る同級生は多かったから、弥生が橋に向かっても不審はなかった。老朽化の為に橋を渡る際は二人までとして下さい、って看板があったから弥生と克美は女生徒二人と入れ違えに足を踏み入れた。自殺防止ネットなんて張られてないもんだから飛び降りも簡単なんだけど、この時も克美が止めてくれて察した私もダッシュした。こんな時に二人までなんて守ってられっか。憑いてるモノがちらついた時より私の背筋は凍ったんだ。
「王様!」
引き止めようとする早坂さんを悪いけど手荒く払うと、結果的に突き飛ばすことになった。
「何やってんのよ⁉」
飛び降りようと暴れる弥生を二人して力づくでこちら側に引き戻して、折り紙で作った剣で弥生の背中を刺した。剣はクシャッと潰れて憑いてた奴がポンッと身体から抜けた。
「キャアッ」
暴れてた弥生の身体からも力が抜ける。
「聞こえる弥生!」
「…聞こえる」
「自分が何してたか分かる?」
「分かる」
弱々しい声が涙声に変わった。本格的に泣いたりしなかったけど、怖くて不安で涙が出ちゃったんだ。
「王様、大西さん久保さん。早く戻ってよ」
ムカつくって早坂さんを睨んじゃった。
「順番待ってる人いるから」
「そういう問題じゃないでしょ」
音楽の女性教師が、人数制限でこっちに来れないけど心配してる。
「大丈夫なの?あなた達」
「大丈夫です。彼女は下を覗き込み過ぎただけです。二人で助けましたから」
答えたのは克美だ。
「早くこっちに帰って来なさい」
二人で弥生の両側にピタッとくっ付いて戻ると、先生にあれこれ聞かれてから危ない真似はしないように厳重注意された。
「ごめんなさい」
細い声で謝る弥生に、
「狂言でしょ。巻き込まれるの迷惑なんだけど」
なんて、言ってくれるじゃん早坂芽衣!
「その手の言動は相手を追い込むことになるんだ。またやったら先生には早坂さんが酷いこと言った所為だって言ってやる」
ナイスだ克美。
「克美…」
「酷いこと言うんだね。私達三人の気持ち代弁したつもりなのに」
「自分の気持ちだけにして。私の気持ちなんて君に解かりっこないんだから」
「王様、何とか言ってやってよ」
「今度遅れたら待たないから。私達はさっさとクラスに追いつくね」
「王様ったら。この子は狂言でやったんだよ、解かんないかな」
「弥生を知りもしないで簡単に言わないで」
こういう人間ってやっぱお母さんだけじゃないんだなぁ。
「なんで解かんないの?解かりました!どうせ私はあぶれ者ですよ!王様はクラスの他の子と違って私のこと解かってくれると思ったのに」
勝手に期待して勝手に失望されるとか迷惑なんですけど。
「話があるなら聞くけど。友達に酷いこと言うのは許せないから」
早坂は不承不承承知した。しなくたってもうどうでもいいよ。
さっきので弥生に憑いた下っ端は追い出したけど、黒幕を何とかしないと解決しないんだから早坂どころじゃないんだよ。
次の道所橋でも渡らないのに目の色変えて向かおうとしたから、克美と二人でさり気ない風を装って、けど精一杯の力で止めたんだ。
「死ねって…」
「何って?」
「死ねって誰かが耳元で…囁くんだ…。みんなには聞こえないよね。ほら…今も…」
「いつから⁉」
「耳神様に触れてから…」
耳神様に耳を良くされちゃったんだ。黒幕の狙い通り囁きが聞こえるように。
「やだ気持ち悪い。久保さん病気なんじゃない?」
てめぇ、その言葉絶対忘れねぇかんな。
けど今は無視だ。
「ここじゃ何にも出来ないから落ち着ける場所に急ぐよ」
「じゃあゴールの奥多摩湖んとこだね」
そこまでは狭い道しかないし、おちおち休んでなんていらんない。克美と目が合った。うむ、友情に篤い私達だ。
身長差はあるけど弥生を抱えるようにして、なるだけ速足でゴールに突き進んだ。ひーひー言いながらも早坂はついて来てた。やりゃ出来んじゃん。自分のクラスも追い抜いてくと副担任が急いで寄って来る。
「そんなに急いでどうしたんだ?」
「久保さんが体調が悪いんで、先に着いて休もうって」
「逆じゃないか?ゆっくり行った方が…」
「いいんです先生。私も速く行って休みたい感じだから」
青い顔した弥生が言うもんだから先生も何も言わなかった。