古より
後から考えれば入学式ではあれだけ明るかった弥生が、翌日からは精彩を欠いてたことに気付いてもよかったんだ。けど彼女が何かに怯えたり、肩に何か乗せてて暗い顔してるのは憑かれ易い体質からしてよくあることだったし、私は私で新しい学校、新しい人間関係に気を取られてもいた。
同じ中学だった子達が私を王様って呼ぶから、残念なことにそれは高校でも伝染しちゃって王様呼びが確定してしまった。それでかどうかクラスの雑事任されたり、相談されたり、王様なら大丈夫的な雰囲気もあるみたいで、早々に幾つか相談事を持ち込まれてしまった。なんでこうなる?
特別進学クラスだから頭の良い子ばかりなんだけど、それだけにかな、多少棘の出てる子が多い訳さ。大学受験の際にはライバルになるのはなるんだけど、今からって早くない?
コミュニケーション能力と頭脳ってイコールしないんだよね。頭脳と品性も同じく。
君達頭は良いんだからも少し想像力を逞しくして相手の気持ちとか、どんな風に評価されるとか考えんもんかね。トラブル解決します、なんて看板は出してないのよこちとら。
そんな時にとある事件が起こった。
子供の頃から寝つきが良くて、眠りも深いから「地震が起こっても起きない」「小雪が上に乗っても起きない」って言われてた。起きるとしたら夢の中でご眷属様に呼ばれた時だけ。小さな頃から家事を任されてたから、寝起きすっきり早起きさんで問題があるはずもなし。ベッドも東向きの出窓の側に置いて、周辺環境的に覗かれたりしないからカーテンも開いたまんまにしてある。
だから一旦寝たのに何かを感じて途中覚醒するなんてすっごく珍しいんだ。
窓の対面が戸だから、最初に目に入ったのは仄かな月明かりに浮かぶ、ぼうっとした背の高い人影だった。十中八九悠斗でしか有得ないのに、人影に感じる人外のモノの雰囲気に恐怖を感じて声も出せなくて、どっと汗が噴き出した。
目だけ動かして小雪を探すといない。「ヒィン」ってか細い声は聞こえるからベッドの下に隠れたんだな。
まずい…。
こういう時の悠斗って拙いんだなぁ。ほら、八弥斗もいるけど尻尾を股に隠して、腰低くして主人を窺うように従ってる。
不覚にも固まっちゃった私に悠斗がずかずか近付いて来た。
やば…。
覚悟を決めるより悠斗の手が肩を掴む方が早かった。
「目ぇ醒めてんだろ姉ちゃん。目が動いてんの判んぞ、さっさと起きろよ」
と姉は弟に軽く身体を起こされてしまった。
枕元のスマホが鳴る。LINE電話だ。
それで呪縛が解けたように動けるようになってスマホに飛びついたんだ。
秋葉さんだ。
「もしもし」
『ごめんね夜中に。悠斗からLINE来てや。「何を自分の物にした」って。悠斗どないしてる?』
「で、何を自分の物にしたの?」
冷静に声を発しようとしたけど上擦っちゃうのはどうしようもない。
『……なんで分かんの?ええもんやで?』
「そこ何処だ?」
秋葉さんだって分かってスマホをかっさわれる。
『あら、悠斗君。どないしたん?曰くのあるもんトッシーの代わりに受取りに来ただけやで』
「真夜中に?」
『ちょい怖いこと起こって、予定外のもん頂いたのは確かやけど…』
「住所教えて、そんでそこに居ろよ。今から迎えに行くから」
『今から⁉』
「今から⁉」
関西と関東でイントネーションは違ったけど、秋葉さんとハモる。
『止めや。夜中やし平日やん。どないしたんよ急に?こんなんこういう商売してたら珍しないやん。一人やかて慣れてるから大丈夫やて』
「解かってないだろ?自分が何の所有者になったか」
『……』
え?何その沈黙?スマホ越しだけど気拙さが伝わって来てるんですけど?秋葉さん?
『明日、そっちに行くから』
「来ないつもりだろ」
すかさず追い詰める。
『……』
これは拙い、とスマホを取り返す。
「秋葉さんどうしたの?何を手に入れたの?」
いつだってこういうことには一歩引いて冷静に対処する人なのに。呑まれちゃダメだ、って最初に私達に教えてくれたの秋葉さんじゃない。
『これは…、もう私のもんやし。誰にも渡さへんねん』
うわ、こりゃ大物に釣り上げられちゃってる。
またスマホを攫われた。
「要らねぇよ、そんなもん。秋葉さんが心配だから、そっちの住所教えて」
震える息の音。教えようか教えまいか迷ってるのが伝わって、結局無言でLINEは切られた。
「クソッ。こうなりゃトッシーだ」
スマホを取りに部屋に向かうのに尻尾を盛大に振って八弥斗も着いてく。
こうしちゃいられない、私も服を着替えた。悠斗が行くなら放っておけない。
トッシー・中田は現在売れてる真っ最中の呪物蒐集家だ。
秋葉さんは大学からずっと大阪暮らしなんだけど、ファンタジー作家になるって夢を持ってるんだよね。でも全然採用されないんで、兎に角出版社に自分の存在を知ってもらう為に、食べてく為にも自分の経験を脚色した怪奇小説で応募したんだ。するとそっちはすぐに結果が出ちゃって、菅沼氷紗女っていうペンネームで怪奇作家としての地位を築き上げた。
売れない頃にしてたのは怪談師のサポート業で、呪物蒐集家になる前からトッシー・中田を関西方面担当でサポートしてたんだ。
そこそこ売れてもまだ文筆業一本で食べてけない(金持ちの癖に)しネタの仕入れもあってサポート業は続けてるんだ。秋葉さんがミステリアスな超美人で怪談会すりゃ人も呼べるから、勧められて怪談会にも出演するようになった。
トッシーは積極的にメディアに露出してくけど、秋葉さんは精々怪談会出演に留めてるから、忙しいトッシーの代わりに秋葉さんが紹介された呪物を確かめに行ったりもしてる。
秋葉さんの姉である私達の母千夏は全く霊感とか神通力とかいうそっち方面の才能はないけど、秋葉さんは結構霊能力があって、昔から我流で簡単なお祓いとかしてた。自分や周辺の人に限ってね。慎重な人だから自分で手に負えないモノには決して近付かなかった。近付く場合でも怡君とかその道の助けになる人を必ず同行させてた。
なのに今回はたった一人で行ったんだ。霊能力はなくても同業の怪談作家とか誰か必ず同行者を作るって言ってたのに。
悠斗の声が近付いて来る。
「だから、秋葉さんが行ったとこの住所教えて欲しいって。……そう、なんか起っちゃったんですよ。………日光市の〇〇〇で、いてっ。あ、すいませんちょっと躓いただけです。それで…」
部屋でメモ取ればいいのに、何故こっちに歩いて来るのか。廊下の灯も点けないもんだから階段に躓いちゃったんだ。二階はL字になってて、短い辺の私と隣の部屋は悠斗の部屋より床が高いから三段の階段が二つあって、片っぽは壁に阻まれて螺旋階段っぽくなってる。
日光市って日光連山を丸っと抱えて広い。関東地方の市町村では一番面積が広いし全国でも三位なんだ。悠斗が口にした地名には覚えがあった。平家の隠れ里だったとこだ。
通話を終わらせると「覚えた?」って。なんですと?
「は?簡単な住所じゃん。自分で覚えなよ」
「覚えてるって。姉ちゃんも覚えててくれた方がいいじゃん」
「トッシー起きてたんだ」
「イベントの打上だって。あの人ぼうっとしてるように見えて記憶力いいな」
「そうだね。けど足はどうする?終電も終わってるよ」
こういう時に居候の師匠はアメリカに行ってて留守なんだ。
「大地さんに連絡してみる」
「あの人大阪だって」
「一か八。仕事でこっちの方ウロチョロしてる時もあるし」
スマホを検索しだす。
お父さんは起きて来ない。私と同じで眠りが深いのもあるけど、最近新しい事業の立上げで睡眠不足なんだ。それで運転手としては最初から除外してた。
「話し付けといて、私お父さんに話して来るから」
階段を降りると目の前にお父さんの部屋がある。
予想通りお父さんは中々起きてくれない。
「ん……ん、なんだ?…父さん眠いんだ」
「起こしてごめんね。秋葉さんがなんだか危ない状態だから、悠斗と二人で行ってくる。悠斗が大地さんに連絡してるから、お父さんは寝てていいよ、と思う」
「行く?何処?」
「日光市、秋葉さん迎えに行って来るだけだから心配しないで」
むくり、と眠そうだけど起き上がった。
「大地、誰?」
「ほら、関西弁の金髪のガタイのいい人」
幼児の頃に関西のとある私鉄の駅に置き去りにされた子供は、成長して金髪灰色の瞳の陰陽師になった。
「佐藤大地だよ。青梅にいた。すっ飛んで来てくれるって」
スマホを振り振り悠斗が現れる。
「どうして?」
お父さんが訊く。
「秋葉さんの危機だから。大地さん年上趣味なんだよな」
それはどうだろう?美人だったら誰でも気があると思うけど。
「父さんも行く」
覚醒しようと顔を叩くけど、そうは簡単に眠気は去ってくれなくてのそりのそりと動き出す。
「いいんだよ。秋葉さん迎えに行くだけだからお父さんは寝ててよ。仕事で碌に眠れてないでしょ?明日ってもう今日だけど仕事だよ」
「行く。お前達だって学校があるだろうが。未成年だけで行かせられるか」
行くなとか、ダメだとか言わないのが霊能力者を我が子にした慣れた父なんだよね。
「大地さんが一緒だから大丈夫だってば」
お父さんは信じられん、ってジトッとした目を悠斗に向けた。
大地さんって陽キャだから軽く見られちゃうんだよね。責任感もちゃんとある立派な成人ですよ、お父さん。がっちりした見てくれ程度には頼れる存在なんだから。
「車で寝てりゃいいじゃん。大地さんはバイクで来るっつってたからうちの車使うし」
引っ越してくる前に乗換えたミニバンだ。家族で出掛ける時は小雪や八弥斗も連れてくことが多いし、乗降りし易いし重宝してる。
バイクはどんな手を使った?って程に速く我が家の庭に乗り入れた。
「おこんばんわ、おはよう。どっちでもお久です~」
ぱあっと明るい太陽のように何故かその場が明るくなる。大地さんはそんな人だ。
「お久しぶりです。急に、しかも真夜中に呼び出してすみません」
元気だなぁ、ちょっと眩しい気もするけどね。まだまだ夜明けは先ですよ大地さん。
「なんのなんの、秋葉さんの為やったらいつ何時でも飛んで来るて」
「ホント飛んで来たって速さだよな」
「おうよ!このことはちゃんと秋葉さんに言うたってや。俺からやったら押しつけがましいなってまうから。出来たら怡君にも」
「了解。早速だけどこれ、車の鍵です」
「よっしゃ!秋葉さんの元にレッツラゴー」
華やかなお顔の割に古くてダサい表現を使うじゃないですか。
家政婦の黒谷さん宛ての書置きをテーブルに置いて、どうしても眠気が取れないお父さんの背中を押した。寝ててくれたらいいのに、それでもどうしても一緒に行くって聞かないんだ。
昼は汗ばむ程だったけど、真夜中となるとまだ寒い。厚めの上着を巻く。
庭の一隅に榊の木が植わってる。その下にいつもご眷属様である八綱がいる。その時もいてくれたんで妙にホッとした。私達が出掛ける理由を知ってか知らずかただ見守ってる。
運転手の大地さんの隣に悠斗が座る。私とお父さんは後部座席だ。小雪と八弥斗も当然のように乗り込んで来る。わんこ飯の予備はいつだって車に載せてある。
「お父さん、着くまで寝ててくれたらいいからね」
言うまでもなくお父さんの意識は眠りに沈んだ。
「姉ちゃん珈琲淹れてたろ?」
「もう飲むの?」
「大地さんに飲んでもらおうと思って」
うちはこういう時でも使い捨てのコップは使わない。使い捨てはどうしても柔いから、高温にも耐える百均のコップを洗って、何度も使うのがやっぱ一番だよね、に落ち着いてる。
闇の中を車は発進した。小雪が座席に上がりたがったんで、靴を脱いで脚と腕を巻き付けた。あったかいモフモフだ。
この時間だと信号も赤や黄色の点滅ばかりで車はすいすい進む。高速だって車が疎らだ。
「よし、高速入った飛ばすで」
「お願いします」
「お願いしますじゃないよ悠斗。スピード違反取られたら余計時間が掛かるんだから、程々で走って大地さん」
「さすが穂那実ちゃんは現実的やね。任しときや、長谷川さんに罰金払わせたりせぇへんから」
「青梅で何してたんですか?」
「企業秘密」
「人のこと訊く前に悠斗、あんたどうして秋葉さんのこと分かったの?」
日光までだって距離があるし、平家の隠れ里なんて山深い見付けられ難い場所にあるんだ。あんたはどんな高性能レーダーなのさ。
「ん~、なんとなく……寝てたから精神的には解放された状態だったとは思う、けど」
「え?幽体離脱して秋葉さんのしてたこと見てたとか?お姉ちゃんにしたら絶対許さねぇかんな」
「幽体離脱なん、したことねぇわ。何処か遠いとこで秋葉さんが、何か拙い物を所有物にした瞬間?そういうのが判っただけだ。判ると頭の何処かで赤ランプが点灯したままになってる感じで」
「これまでもそういうんあったん?」
「漠然と師匠が危ない物相手にしてる、とか感覚的にはあったけど、今回みたいにはっきりと感じたのは初めてで。だから何か拙い、秋葉さんが危ないって」
「俺達は感覚が鋭い方がええねんけど、悠斗のは鋭い言うより自然と一体型言うか、空気と一体型言うか、そうして何処まで広がるか分からん感じやな」
「……感じてた。俺は陰陽師にはなれない」
「厳密には明治維新以降陰陽師の免状は発行されてないから、陰陽師名乗ってる人達は自称でしかないんだよ」
「せやな。俺も紹介される時は陰陽師て言われるけど、所詮拝み屋でしかないねん」
「あ、そういう意味じゃ。ごめんなさい」
「ええねんで。そんなんみんな分かってることやからな。知らん奴は調べる能力も疑問も持たへん阿呆やて分かんねんし。まあ免状はのうても、陰陽道はきちんと伝わるとこには伝わっとって、二人が教わっとるんはちゃんとした、安倍晴明が興した陰陽道やで」
「分かってます。―なんとなくね、俺には予感があるんです。俺はもう二度と日本を出ることもなければ、秩父を長く離れることもないって」
「そんなの…悠斗、悠斗が高校に入ったらヨーロッパ周ろうってお父さんとも話してたじゃない」
「そうだけど、段々解かって来たっていうか、アフリカでは俺の為にお山に骨を折らせたから」
「恩返しとか言うんじゃないわよ。そんなの許されない」
「現代的じゃないから?」
「そういう表現もあるかもね。あんたの人生はあんたの物なんだから」
「それは現代人の奢りって奴だよ姉ちゃん。神様にはちゃんとお返ししないと」
「他のお返しを考えてもらいなさいよ」
「神様に?神様は交渉相手じゃない。否と言ってはいけない存在なんだ」
これ誰?誰が弟の口を借りて言わせてんのよ?
反論するより先に大地さんが口を挟む。
「渡辺のおっちゃん覚えてるか?」
「忘れる訳ない」
アフリカでやっぱお世話になった零班の人だ。
「人は神様にお願いばかりするが、願いが叶った時に礼儀としてお返しすることを忘れてる、ってさ。だから無茶な頼みを利いてもらった時には、神様から望まれることは拒否出来ない、て」
「日本に帰って来てすぐにお詣りしてお礼したよ」
「その程度で賄えるもんやないやろ」
「だけど…」
「聖書の神かて供物の好みで兄貴のカインを退けて悲劇が起きたんやで。少なくとも菜食主義者の神様にはなられへんわ」
汗水垂らしてカインが実らせた畑の収穫物を喜ばずに、アベルの捧げた肥えた羊だけを喜んだんだ。
「穂那実ちゃん、俺かてちゃらんぽらんに見えて力借りたらお礼はちゃんとすんやで?まあ高い注文されへんように予め返礼品はこっちで指定するんやけどな。知らんか?宝くじ当てて下さいて頼むんやったら、最低一割はお返ししますて約束せんな頑張ってくれへんねんで。大きな幸運呼ぶんは神様かて骨折れんねん」
「だからって大地さん」
暗い車内で悠斗は、大きく身体を動かして私を見た。その瞳は私が全然知らない人の物だった。全体的に透明を帯びた存在に感じられる。
「奪われると思うのは間違いだよ姉ちゃん。俺が神様の望むままになることは家族にも恩恵をもたらすことになるし、第一人柱やなんかになって会えなくなるって話じゃない」
「悠斗」
心配そうに小雪が私を見上げてるのに気付くとベロベロ舐め回される。
「神主さんになるの?」
「そういうんじゃない、と思う。でも多分俺は心配いらないよ。なんせもう神様ついてんだし」
「心配するよ。私が姉じゃなくても妹でもなんでも家族なんだから、神様がついてようとどうだろうと、この世にいる限り心配すんだよ」
間違いと諭されても奪われたって気持ちは変えられない。どうか私の手の届かないとこまで連れてかないで下さい神様。
「麗しい姉弟愛やねぇ。お兄ちゃん泣いてまうやん」
「歳取ると涙もろくなんだってね」
「年寄り扱いすな。まだ二十代やねんぞ」
海外の人って老けて見えるっていうけど大地さんまだ二十四歳なんだよね。年齢聞いた時は本気で驚いちゃった。だけど考えてみれば、駅に置き去りにされた子なんだよ。白い肌で金髪の少年には養子の話もなくて、妙な力も持ってるし苦労したんだって。保護してくれた駅員さんの苗字を貰って佐藤、逞しく生きるように大地の名前が与えられたって、教えてくれたのも渡辺さんだ。
何処かで悠斗の運命が変えられなかったか、何処で私達は悠斗を神様に捧げてしまったろうか、無駄だと分かっていてもついつい考えてしまう。
一番は降って湧いたような莫大な遺産の相続を、嬉々として受けてしまったことだ。
お父さんと離婚してシングルマザーになってから、お母さんは一つの仕事を長く続けられなくて転々としてたから、うちはいつも貧乏だった。バカなお母さんはお父さんが払いたいと望んだ養育費も拒絶して、お父さんからなるだけ離れて秩父に辿り着いた。今考えたって受けないって選択肢はない。
莫大な遺産を残してくれたのはお祖母ちゃんの二度目の結婚相手である、島根の資産家だ。お祖母ちゃんと別れてからお兄さんが亡くなって本家を継いだのだけど、結局再婚しなかったから子供いなかったんで、一時でも娘となった母と秋葉さんに財産を残してくれたんだ。
そしてそれは祀りが絶えようとしていた家から、禍ツ神を引き受ける対価となってしまった。
禍ツ神はどうにかアフリカのとある場所に封じることが出来たけど、その時に力を貸してもらったことで悠斗は神のモノとなった……。
回避する道が見つからない。
お母さんは行きたければ私立でも何処でも好きな高校に行かせてやる、なんて言いつつ介護の仕事を辞めたがってた。後がどうなるのであれその時の私達親子には、遺産が大した額でなくとも拒否する考えはなかったんだ。
何故他の誰でもなく悠斗だったのか。答えは分かってる。私があの子を受入れる子に育ててしまったんだ。疑念なんて抱かず反発もせず、悠斗は鷹揚になんでも受入れちゃう好い子だった。禍ツ神が自分の内にあると分かった時だって、そうなんだ、そうなっちゃったんだったら仕方ない、って感じで驚く程現実を受入れてた。
一年も経てば禍ツ神が悠斗を壊してしまうのが判った。そうでなければ今でも禍ツ神を身の内に飼ってなんとも思わなかったかもしれない。
お姉ちゃんはお前に何をしてやれるだろう?
私に出来ることなら何てもしてあげる。姉弟であることは生涯変わらないんだからね。なんでもするよお姉ちゃん。
考えてる間に寝てしまったんでまた悠斗に起こされた。
「もうすぐ着くから起きてよ姉ちゃん」
小雪を抱きかかえたままで寝てたから手足が固まっちゃってる。小雪には降りてもらって手足をほぐした。
県道の両側にホテルやお店が並んでる。びっしりじゃなくてゆったりと敷地が取られてるから、植木で隠れてて洩れた灯で気付いたりした。そこを過ぎると道も細くなって建物もまばらになる。道があるように見えないのにカーナビは右に曲がれと指示する。
「うお、マジ?」
木が邪魔してたけどアスファルトが敷かれた道がちゃんとあって、短い上り坂の先の開けた場所に現代的な住宅がヘッドライトに浮かび上がる。
「ここ?」
ドアが開くと一気に冷気が吹き込んだ。小雪が飛び降りてコートの前を締めながら私も続いた。空に白みが含まれてる。
お父さんはよく寝てたから無理に起こさない。
「もう、来んでええのに」
庭のテーブルセットで寒そうに膝を抱えた秋葉さんが口を尖らせる。その背後の土蔵に強い残穢を感じた。本体は秋葉さんが持ってるんだ。
「あの土蔵にあったんだ?経緯を教えてよ」
「ここで?」
「ここで」
寒いんだけど悠斗が引かなかったんで、私は珈琲の入った魔法瓶の残りをみんなに分けた。温かさが嬉しい。小雪と八弥斗はお水でごめん。
呪物蒐集家であるトッシーがIさんから話をもらったのが一月前だという。
友達のUさん宅で怪奇現象が続いている。原因だと思われる物を引き取って欲しいとの話だった。
それは入り婿だった曽お祖父さんが戦地から持ち帰ったお守りだった。幼児のミイラのミニチュアにしか見えなかったから、家族にはお守りだとはとても思えなかったのだけれど。
戦地とはタイで、曾お祖父さんは北京からバンコクまで踏破した、日本一歩いた軍隊と言われた第三十七師団の一兵卒だったんだ。英領マレーにさらに移動中に終戦を迎えたのだけど、そこで病気に罹った曽お祖父さんを、親身に世話してくれた現地のタイ人がくれた物だと曾お祖父さんは語ったそうだ。それが病気を治してくれたのだと。
Uさんの両親やUさん自身も気味悪い見た目から半信半疑で、曾お祖父さんから促されても絶対に触れたりしなかった。形からすればそれも仕方がないだろう。
曽お祖父さんは生前お菓子をお供えするのを欠かさなかったのだけど、亡くなって部屋をリフォームする際に土蔵に仕舞い込んでそれ切りになってしまったんだ。
それが祀られなくなって怪奇現象を起こしているのでは、と見当がついても恐ろしくて家人は誰も触れる気になれず、兎に角土蔵でお線香を焚いてお菓子を供えたんだ。するとましになった。
祀り直せばいい話なのだけど、一家的にはそんな物にこれから先も付合わねばならないなんて気味悪くて到底我慢出来なくて、それで怪談好きの友達Iさんに相談したという訳なんだな。
八十年も前に貰ったおそらくクマントーンの話はトッシーを大ハッスルさせ、日程を合わせて秋葉さんとU家を訪問する手筈になっていた。だけど有名なトッシーのトリプルブッキングで秋葉さん一人訪れることになっちゃったんだって。日程をずらして訪問することも提案したんだけど、早く手放したいU家に急かされたんだ。
Uさん一家は、Uさん自身と母と祖母の女三代で迎えてくれたが様子が変だった。不審に思って理由を尋ねると「分かりますか?」とお祖母さんが流石霊能者さんと感心してくれたそうだ。怪奇作家ですよお祖母さん。
「それが…、あんなにあった怪現象が今朝からピタッとなくなっちゃって…」
Iさんを通じて連絡を取り、トッシーから連絡がきた頃から現象は一段と酷くなった。一番恐ろしかったのは家が揺れたことだ。
地震が来たと外に転がり出た家人を、丁度畑仕事を終えたお祖父さんが不審がった。
「何してんだ?」
「だって、今大きな地震があったんべー?」
「何言ってんだ?そんなものあったら車で帰って来れる訳ねーべ」
大した距離が離れてる訳じゃないんだけど、野菜も道具も乗っけるし畑には車で通ってたんだ。
そんなお祖父さんもすぐに被害にあった。一日数回、変則的に家は、いや、部屋は揺れたからだ。
判ったのは物凄い揺れがあったのに、台所の食器や他の部屋の物は一切動いてなかったからだ。そして狙われるのは祖母夫婦が多かった。彼らのいる部屋が揺らされて一緒にいて他の家人が被害に遭う。ただ、そう思って祖父母が意図的に畑に出ていたとしても、家人のいる部屋は揺れた。そして夜間の揺れは家人を睡眠不足にしていた。
これは増々早く手放さないといけない気持ちを強くして、トッシーの訪問を首を長くして待っていたから、延期なんて論外だったんだ。
「揺れんでも、戸棚にしまってある食器だって宙を飛んでって一揃い買い替えさせられたんですよ。食器も割れた破片も飛んで当たって痛かったです。そんなこともあったのに、本当に今朝からなんにも起こんなくて、狐に抓まれた気分ですよ」
Uさん一家が危惧したのは、何も現象が起こらなくて詐欺のレッテルを貼られて、挙句に曾祖父のお守りを持って帰ってもらえなくなることだった。
一通り話を聞いてから秋葉さんは尋ねた。
「ご家族の方は少年の姿を見たことはありませんか?小学校に上がる前位だと思うんですけど、その位の年嵩の」
U家に着いてからチラチラを盗み見してくる存在があった。それは時折シャイなはにかんだ様子を見せる、縦縞の赤茶の民族衣装を着た少年だった。
「いえ、一度も」
家族に確認してUさんが答えてくれた。この家族には全く誰にも霊感はないのだ。
「あの…」
気懸りそうな一家を安心させようと秋葉さんは微笑んだ。
大阪弁は仕舞い込んで標準語を心掛ける。
「土蔵に案内してもらえませんか?どんな様子か見てみたいんです」
土蔵にはUさんとお母さんが同行してくれた。
屋根が高くて梁が剥き出しになっている。二間程の広さだった。古い土蔵なんかには、大抵はいらない物が大量に放り込まれているものなのに、U家の土蔵はこれまで数多くの土蔵や蔵を見て来た秋葉さんにしても一番整頓されていた。無用の物など一見しては見当たらない。本当に必要な物だけが整理整頓されて農具なども手入れされて収納されていた。だからなんとなく伽藍洞な感じもあった。
「凄いですね。置くに困って放り込まれてるような感じの物は全くない」
「うちは代々整理整頓命、みたいなとこがあるんです。特に祖父母は夫婦揃って無駄な物を置いとくのが嫌いで…。孫の私の物だって、目に付くと棄てたがるんですよ」
生前の曾祖母も
「あれが嫁に来てから土蔵が片付くのは良いけんど、なんでもかんでも気が付くと捨てられ(なげられ)ちゃって、好い着物だから置いといてって頼んでも、それなら質屋に売りましょう、なんていうんだよ」
と愚痴っていたという。
普通なら記念に取っておきたい子供の卒業証書も、制服の類もいつの間にか捨てられていたりした。
「もう病的でしょ?残したい物は部屋が狭くなっても土蔵には置けません。古い物で必要な物、法要とかの親戚が集まる時に使う食器とか、そういう類の物はまとめて隅に置かれてるんです。あそこ」
本当に一番奥の隅っこだった。
「よく残ってましたね、長持なんて」
土蔵の隅の角に二竿の大きさの違う年代物の長持があり、隣に透明のプラスチックの収納箱がいくつか重ねられている。長持の上には真ん中の段が観音扉になった帳場小箪笥と思われる箪笥が乗ってた。その上に段ボールの小さな箱がまた乗っていて、手前にお菓子とお花が供えられ香炉も置かれている。お菓子は忠房最中で、この地に落ち伸びた平家の落人の頭領の名に由来した最中だ。聞くところによると洋菓子より和菓子の方が好きだそうなのだ。
「長持と小箪笥もお祖母ちゃんは売ろうとしたんですけど、曽お祖母ちゃんが好い物だからお祖母ちゃんの代で売ったり捨てたりすることは許さないって。売ったら化けて出るって言われちゃったそうなんですよ」
これは秋葉さんの持論なのだが、キレイ好きと言われる人には大まかに二種類ある。整頓されていないのを嫌い、部屋が汚れているのを嫌う人だ。
もう一種類は物があるのを嫌う人。そういう人は物が視界に入りさえしなければ、埃なんかが溜っていても気にしたりしない。
面倒なのは後者で、大抵収納法には気を使わないからどこに仕舞い込んだか分からなくなったりするし、収納出来ないと必要な物でもどうにかして捨てたがる。
あくまでも秋葉さんの経験則なんだよ。
それは置いておいて、秋葉さんは付いて来て不安そうに見てる少年に笑い掛けたが、少年の様子、発するオーラが気懸りになった。どこか良くないモノを含んでいるのが判ったからだ。しかしまだそれは少年を乗っ取ってはいない。
「箱を開けて中を見てもいいですか?」
「どうぞ」
段ボール箱にはおそらく曾お祖父さんの物だろう私物も入っていて、クマントーンは五猿の文鎮の隣にいた。
寂しくはなかったかな?
五猿には「持たざる・言わざる・聞かざる・見ざる・思わざる」がそれぞれの背中に刻まれている。「よこしまな考え(思わざる)や偏見(見ざる)をせず、悪質な言葉に迷わされることもなく(聞かざる)、嘘もつかず(言わざる)、執着しない(持たざる)ように生きなさい」という程の意味だ。
「私と一緒に行こう?」
と振り返る。Uさん達は秋葉さんの行動に驚いたが、親子で寄り添ったまま口出ししなかった。
しばらく見守っていると、少年は戸惑い反発して睨んだり、心惹かれる様子を見せたりもした。
「ここよりちゃんと祀ってもらえるよ。そうだ、名前を付けてあげようか?」
弾かれたように少年の顔が上がった。
「そうだな…、部屋を揺らしたりして、力持ちみたいだからミノイは?」
口元の綻びがチラチラしたが、素直には認めるつもりはないらしい。だが名前を付けられたのは嫌じゃないんだ。
「じゃあミノイ。君はミノイね」
何の悪さも起こらない。先ずはこれで良し。
誰に話し掛けてるんだろうとさらに母娘で身体をくっつけ合うUさんにお願いする。
「あの…、連れて帰る前に夜の様子も見たいので一晩いさせて欲しいんですけど…。部屋とか食事とかはいりません。土蔵に居させてもらえればそれで」
「そんな、食事位、それにもう用意してるんですよ」
「ええ、申し訳ないですけどいいんですか?」
「勿論、食べて下さらないと嫌ですよ」
慣れたもので秋葉さんもそれを期待してた。ただお祖母さんだけが「さっさと持って帰ってくれないのかい」と文句を言ったのだけど、「お祖母ちゃん、有名な作家さんなのよ」と窘められてて、有名ではないから恐縮したんだって。
U家の人達は本当に霊だとかのオカルトに興味のない人達だった。紹介者のIさんも来て、Uさんのお父さんお祖父さん、近場に住むお兄さん一家も揃っての夕飯の席での口振でもそれがよくわかった。
「ねぇ、Uんちは全然霊の存在とかに興味ないでしょう?私なんか興味ありありだから気味悪がられたりするんですよ」
怪奇現象があるのにまだ信じないUさん一家をIさんは嘆いた。
「見えないモノの存在なんて信じられないよ」
「え~」
「それが普通なんです。怪談が流行ってるって言っても信じない人、興味のない人の方が圧倒的に多いんですから。でも気味悪がられると傷付いちゃうよね。アイドルが好きなのと本質的に変わらないんだから」
「対象物が違うと理解されながったりするんですよね。トッシーさんは私的にアイドルなんですけど、家族にも不思議がられちゃう」
痩せて冴えない頭髪も後退が著しい男がアイドルだなんて、そりゃ理解不能も当たり前だろうけど、実際に対面すると妙に人を惹きつけちゃう人だったりするんだよね。美醜に関係なく人を惹きつけてしまう人っているんだって、秋葉さんも言ってた。
「ところで段ボールの下にあった、あれは帳場小箪笥ですか?」
「あら、流石作家先生ですね。よくお判りになられました」
お祖母さんが感心すると、嬉しそうにお祖父さんが説明してくれた。
「いつからあって誰が購入した物かはわからんと、儂の祖父さんが言うとりました。欅で造られとるんですが、上下の抽斗は動くんですが真ん中の観音扉はどうあっても開かんのです。抽斗の鍵は失われましたが、鍵穴があるんで抽斗は鍵がかかるべが、観音扉の方は鍵なんて元かんねえのに開かんのです。中で何かがつっかえてるか挟まっとるかしとんだんべが、兎に角どうやっても開かん。価値のある物だから下手にぼっこす…壊すのも偲ばれますべー?祖母さんなんかはごっこと売っちゃうといい、なんて、昔母のいるとこで言いよりまして、それが母の逆鱗に触れて、ぼっこしても売っても捨ててもいかんと、祟るとまで言われて参りました」
「一生の不覚でした。でも抽斗にも何も入れるなとも言われたし、じゃあ置いておく意味がねえじゃねえですか?中にお宝が残されてるなんて言い伝えもねえんだし」
「では売っては頂けませんよね」
「先生はあの小箪笥がお気に召しましたか?」
そういう申し出は一度ならずあったんだろう、U家の人達は誰も驚かなかった。
「ええ、珍しいしとても興味が惹かれます」
「お姑さんの遺言が無かったらよかったんですけどねぇ」
「遺言が無かったらもうこの家に無いよ」
「それもそうだ」
その場が笑いに包まれた。
山菜料理や川魚を堪能させてもらって、年功序列というのではないが年寄りから順にお休みを告げてリビングから家人が減っていく。
「Iちゃんは今夜は泊まるんだよね」
Uさんは明日も仕事だ。そろそろ眠たいのかそう話を振ってきた。
「え?泊まるのか?」
お兄さんは初耳だったようだ。
「菅沼先生と一緒に私も土蔵で過ごすから気にしないでいいよ。何か起こってくれないかってワクワクする」
「怪現象なら一緒に経験したじゃん」
「先生と一緒に経験したいんじゃん」
「だったら私もこの家の代表で付き合うよ。明日は仕事休みだし」
と兄嫁さんが言い出すと、お兄さんもじゃあ俺も、と言う。
「あんた明日仕事じゃない?」
「休めるから大丈夫だ」
郷土の資料館に努めていて、平日は観光客が少ない分暇なのだという。
四人で土蔵に向かう前に秋葉さんはコップ一杯の日本酒を貰った。
茣蓙の上に毛布を敷いて四人はそこで待った。
「本当に今日は何も起こらないんだね」
と兄嫁さん。
「昨日までは色々あったのにな。この家で恙なく夕飯が終わるなんてどれ位振りだ?」
「そんなに色々あったんですか?」
「祖父ちゃん祖母ちゃんが強情でさ、俺んちに来たらどうだ、って言っても「我が家はここだ!」って、怖い祖父母だぜ」
「お義父さん達だって負けん気が強いっていうか、私なんて霊現象があってからなるべく来ないようにしてたのに」
「負けませんねぇ」
苦笑してしまう。
「曾祖父ちゃんみたいにお菓子とかお供えしたらしばらくは平穏だったからな」
「そうはいってもクマントーンだっけ?あれ触れなかったじゃない。段ボールに仕舞ったの私だよ。触りたくないって言われて、私もですけど?ってどれだけ返したかったか。結局お祀りしても土蔵でだし、お守りは段ボールに仕舞ったまんまだし」
「強気だけど問題の根本には触れないんだ」
Iさんが言った。
「そう、あの段ボール比較的小さいでしょ?曽お祖父ちゃんが大切にしてた身の回りの品だけが入ってんの。で、三回忌過ぎたら何処かに奉納して来いって、それは長男の仕事だって押付けられたんです」
「あれ聞いた時には俺もどういう意味だよってなった!そんな信仰心がある家じゃねぇだろ、うち?結局は曽祖父ちゃんが大切にしてたお守りを早く穏便に手放したかっただけなんだ」
「だよね」
「でもまだ土蔵にありますね」
「そりゃ余程熱心な氏子なら…ねぇ?」
と兄嫁は夫に賛同を求めた。
「そうそう、今時遺品を奉納なんて聞かねぇし、近辺の神社には断られて何処に持ってきゃいいんだ、祖母ちゃんにはさっさと奉納しろって催促されるしって困ってたら霊現象が始まったんだ」
「成程。素直にクマントーンだけ事情を話して引き取ってもらうって考えはなかったんですか?」
「それを考え出した頃なんだ。祖父ちゃんも父親の物をまだそんな気分にもなんねぇのに、全部処分されるのも嫌そうだったしな」
「奥さんに頭の上がんない人だから」
「祖母ちゃんはちょっと異常だよな。他人の物と自分の物の区別もつかなくて、俺ンだって不用意に置いとくと、訊きもしねぇで捨てちまうんだもの」
自分の家は家族と共有である、という感覚が希薄なのだ。成程、単に物があるのが嫌なだけのキレイ好きなんだ。
そうやって喋ってたら十二時近くになった。普段誰にも言えずに胸の内に仕舞い込んでいた物が、捌け口を与えられて溢れ出した感じでもあった。
「何も起こらないね」
「経験的には霊が活発になるのは日付が変わって一時を過ぎてからですね」
「じゃあまだまだね。一段と寒くなってきたし、あったかい珈琲淹れて来るわ」
兄嫁が立ち上がった。
「頼む」
「ありがとうございます」
買い物かご仕様のバスケットに、兄嫁は熱い珈琲とコップやらの一式を詰めて運んでくれて、秋葉さんは普段はブラックなんだけど、あったかい牛乳の香りに負けてカフェオレにしたんだ。
みんなの口からはぁ~ってあったかい息が白く煙って出た。
「今日は本当になんもしてこねぇな。なんもないと引き取って貰えませんか?」
「いえ、クマントーンは喜んで引取らせて貰います。ですけどもう一つ気になる物があるんです」
ようやくそれを告げるタイミングが到来したんだ。
「もう一つ?他にもうちに何かあるんですか?」
「あの開かない帳場小箪笥ですよ」
それを口にした途端ミノイの姿が秋葉さんの視界に現れた。昼と違って目元の険がきつくなってる。彼らの時間なんだ。
「クマントーンって亡くなった子供の一部が使われてるんです」
「げっ」
「だからあんな形だったんだ」
兄夫婦は知らなかったのだ。
「幼くして亡くなった子供が功徳を積む為のものなので、基本的に悪さ何てしないんです。クマントーンを知らない家族に、同じ様に納屋や蔵なんかに放り込まれっぱなしにされても、何もしないのがほとんどなんです。頻繁に家人に悪さする程の力もないでしょうし」
「じゃあうちのはなんで?」
「力を与えたモノがここにいるんですよ」
「もしかして…それがあの箪笥の中に?」
「何故か開きませんよね」
「曽祖母ちゃんには俺が謝っとくんであれも引き取って下さい。曾孫の俺なら頭下げりゃ赦してくれると思うんで」
心底気味悪そうだ。
「でも今まで何もしなかったのに?」
「おそらく、これは本当に推測でしかないんですけど、クマントーンとの相性が良かったのではないでしょうか。長く眠っていたそれはクマントーンに触発されて眠りから醒め、互いの力が相乗効果を生んだ。プラスなんて生易しい物じゃなく、倍々で」
「そういうことってあるんですか?」
「爆発的な効果を生むことは、はい、あります」
「じゃあ」とIさんが口を開いた。
「クマントーンだけ引き取ってもらっても、目覚めたもう一つが怪現象を起こし続ける可能性もある…?」
「ありますね。というかそうなると思いますよ。小箪笥の中身が問題なので、そちらも、…いえ、そちらは私が引き取らせて頂いてもいいですか?」
その時何故そんな風に訂正してしまったのか自分でも解からなかったそうだ。
「どうぞどうぞ、遠慮なくどうぞ」
まるでダチョウ俱楽部そのもので噴き出しそうになったって。
微笑ましさに心がほっこりとなった秋葉さんを瞬時に凍らせたのは、草刈鎌がすぐ側の床に突っ立ったからだ。
ワンテンポ遅れて理解した人達から短い悲鳴が洩れる。
「なんっ、いきなり何?なんで?」
「すいません」
とその場の注意を集める。
「これから私、帳簿小箪笥のニートちゃんを引出すんで変な事口走りますけど、スルーして下さいね」
「あ、はい、どうぞ。気兼ねも遠慮もなく!」
返事をくれたのはUさんのお兄さんだ。
「視えますか?そこで睨んでる少年が。お昼にミノイって名前を付けさせてもらったんですけど」
「え?なんです?うちの子でも起きてきましたか?」
とお兄さんは言ったけど奥さんの方はミノイが視えてた。
「視えます。前より目つきが悪い気がしますけど」
「今日よく来る気になりましたね」
「美貌の作家先生が来るって、それに吃驚する位、何にも起こってないって聞いたから…」
と夫に隠れてミノイを注視してる。
「ミノイ、これから行くとこにはお友達が一杯おるよ。覚えてる?昔近所の子達と遊んだでしょ?またそんな風に遊べるんやで」
本心で霊と話す時って大阪弁に戻るんだって。
ミノイの表情や雰囲気が軟化する。
『奪うな』
「え?」
何処からともなく第五の声が届いた。と同時にイカ型の片手鍬が秋葉さんを掠めて飛んでった。農具は入り口近くに収納されてるから後ろから飛んで来たことになる。
「嫌あッ」
悲鳴を上げたのは秋葉さんじゃない。
「危ないから私から離れて下さい。土蔵を出てくれてもいいです」
「そんな」Iさんの声だった。
「離れて見てます。危なかったら逃げます」
好奇心が強いなぁ。
「分かりました」
どんな存在であれ、自分の祭祀を頼みたいU家の人間には、命の危険になるようなことはしないだろうとの予感があった。
『奪うな』
もう一度声が届く。ミノイを奪われたくないのだろう。
まだ一時にはなってない。ミノイもいる祭壇というには有合わせな祭壇に、ずいっと近付く。来た時捧げたお神酒は半分近くに減っている。
「話が早うて助かるわ。私の捧げたお神酒呑んでくれはったんやねぇ。美味しかった?ミノイちゃんはどの途私と一緒にここを出るねん。どうです?私と一緒に来ませんか?大切にしますよ」
『トッシーは嫌』
刃が長めの刈込鋏が飛んで、X字で漆喰塗の土壁にめり込んだから、秋葉さん以外が悲鳴を上げた。
「おお、よくご存じで。ミノイちゃんはトッシーんとこに行きますねん。あっちはお仲間たくさんいはるから楽しい思うわ。あなた(・・・)は…私と一緒に行きましょう」
然るべき人に託す気だったのに、どうして自分が所有するようなことを言ってしまったのか、自分でも不思議だったがこんな時に訂正なんてしてられない。
ミノイが帳場小箪笥に触れる。
「遊んで欲しかったんだよね。お祖父ちゃん亡くなって暗いとこに入れられて寂しかったんだ」
振り返ったミノイが頷いて姿が消えた。
「消えた」と兄嫁が呟いた。
そして観音扉が開いたんだ。
「埴輪…」
埴輪には興味もあったし資料としても調べたから、それが巫女形埴輪であることは判った。胸に抱いている反りのある棒というか板はおそらく梓弓だろうとも見当がついた。
欲しい。
強烈な想いが秋葉さんを貫いた。
私の物だ。
「はにわぁ?」
「埴輪だぁ」
「どうしてうちに?」
そんな声が背後からする。
「埴輪です。本物なら古墳時代の物ですから価値はありますよ」
近付こうとした人達を遮るように鉈が飛んで土間に刺さったものだから、凍ったように皆の動きが止まる。
「嘘だ…。鉈は鞘に入れられてるはず…」
鉈にも種類があって、次は竹切の刃が軽く湾曲した鉈だった。
秋葉さんも恐る恐る巫女形埴輪を手にする。
もう放さない。
嫌々それではいかん、何とか一度はU家の家人に埴輪を渡さねば、と頑張ったが悉く埴輪に拒絶され、とうとう兄嫁の足に芽切鋏が突き刺さってどちらも断念せざるを得なかった。
「キャアアーーッ」
足を押さえて蹲る妻を助けて芽切鋏を抜くと、靴を脱がせて応急処置する。
埴輪に触りたがっていたIさんもこれには引いた。
「大丈夫ですか?」
埴輪を置いて手伝おうとしたらお兄さんは意外な言葉を投げてよこしたんだ、
「それはもうあんたが持って帰ってくれ!」
「はい?」
「中に何があったかなんてうちの家族は誰も知らねぇ。俺も嫁もいわねぇから絶対引取ってくれよ⁉」
「でも怪我を…」
「怪我はクマントーンの所為だっていやあいいんだ。Iも分かったな?」
お兄さんの剣幕にIさんはこくこくと頷いた。
それで秋葉さんは悪辣にも止めを刺したんだ。
「それが最善ではありますね。ただの埴輪ならこんな風にはならないですから。おそらく誰かを呪うような儀式に使われていたんでしょう」
みんなひぃぃって状態だったって。
「帳場小箪笥はただの入れ物だっただけで、何も憑いてないので安心して下さい。普通に使えます」
使わないと思うけどね。