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異世界お祖父ちゃん

 夏賀良平と茜は私の母方の祖父母なんだ。どちらの親も大反対の、運命の恋、結婚をしたんだけど、幸せは数年で終っちゃった。お祖母ちゃんはその後の何度かの結婚の最後の相手の片桐姓を名乗ってる。実家が嫌いだから最後の旦那さんと死別してからも変えなかったんだ。

 お祖父ちゃんは拝み屋の家系で拝み屋を副業にしてた、ってお祖母ちゃんは教えてくれた。陰陽師って言ってやれよ、とは思うけど、霊感も無ければ陰陽道も全く知らない興味がないお祖母ちゃんにしてみれば同じ物なんだよね。

 それは二人の長女であるお母さんが五歳の頃の話で、お祖父ちゃんは断りたくて断れないしがらみがあったらしく嫌々出掛けたんだって。子供達と一緒に見送ると、後ろ髪引かれるように振り返ったお祖父ちゃんの顔が、今でもはっきりと記憶に残ってるって。

 予定より遅く帰って来たお祖父ちゃんはヨレヨレで、何を話し掛けても心ここに非ずで、そんなお祖父ちゃんを連れて帰って来てくれた人達に尋ねても言葉を濁して答えてくれなかった。

 一日中ぼんやりして時折恐怖で身体を固くする、仕事も休んでお祖母ちゃんが心配して見守る三日目の夜、恐怖は爆発したんだ。隣で寝てたお祖母ちゃんが一瞬で起きてしまう程の恐怖に満ちた叫び声を上げると、糸が切れたように倒れて無反応になった。

 お祖父ちゃんの実家に電話すると、男が三人来てそのままお祖父ちゃんを連れてった。何にも言わずにね。

 だからお祖母ちゃんは一緒に副業に行った一族の人とかに尋ね回って、とうとう義実家にも乗り込んだんだけど、冷たい言葉をかけられて手切れ金を渡されただけだった。

 でもそれで諦めたりするようなお祖母ちゃんじゃないんだな。だって運命の人、一生に一度の恋だったんだから。手切れ金を使い、何とかお金を工面してお祖父ちゃんの行方を追ったんだ。そして何度目かに義実家にねじ込むと、お姑さん、要するに曾祖母ちゃんは折れて、他言無用ってことでお祖父ちゃんの居場所を教えてくれたんだって。その代わりに夏賀家と縁を切ること、つまり離婚が条件だった。もうお祖父ちゃんは元には戻れないから。

「それがこの病院なの」

 信州の山間に隠れるように建った精神病院だった。

 風光明媚ってこういうことよね、って立地で確かに精神病の患者さんには最高のロケーションだと思う。病院自体か結界の中にあるから、道に迷ったハイカーが迷い込んじゃうこともない。私達は来訪を許されてるお祖母ちゃんに同行してるから来れてるんだ。

 お母さんと秋葉さんを育てる為に他の男性と何回も結婚しながら、でもずっと一途にお祖父ちゃんを想って、定期的に会いに来てたんだ。

「いきなりこんなたくさんで押しかけたらあの人、驚いちゃうかもね」

 品が良くかつ色っぽいのに、何故か少女のようにお祖母ちゃんは笑った。お祖父ちゃんに会えるのが嬉しいんだ。返事どころか何一つ小さな反応さえ示さないらしいのに。

 お祖母ちゃんは高校生の孫がいるなんて思えない若々しくて美しい人で、お料理も上手い自慢のお祖母ちゃんなんだ。人を惹きつける魅力が跳び抜けてて、人を綺麗にするのが好きだからって美容系の事業を起業して、成功した実業家でもある。

 お祖母ちゃんみたいな魅力的な人にこんなに惚れさせるなんて、どんな人なんだろうってずっと想像してた。

 そう思うのは私だけじゃなくて、弟の悠斗やお父さんだけでもなく、師匠や怡君(イージュン)も同行してた。

 怡君はお祖父ちゃんの弟が外に作った、お母さんの従妹。本名は久米詩織なんだけど、幼い頃に自分を捨てた母親がつけた名前を嫌って、(ツァイ)怡君(イージュン)を通名にしてる。日本で一、二を争う陰陽師でもあって、有り余る才能で高額スッキリ一括払いの顧客を掴み、リッチな生活をしてるんだって。やっぱ高いお金をポンと支払ってくれる人って、人に恨みを買いまくる人生送ってるんだな。

 叔母の秋葉さんは以前にもお祖父ちゃんに会ったことあるし、行きたがる人が多いからって宿で(さく)ちゃんの子守してる。朔ちゃんは怡君がアフリカ土産って豪語した昨年生まれた長男。お分かりかとは思いますがシングルマザーです。可愛い系の美人なんだけどやることが豪胆なんだ。

「良平パパは新しい建物にいるね」

 怡君が何気なく告げた。どうして判る?病院は半分新しかったのに。

「半分づつ建替えてるんだと思うわ。古い建物だし。以前は古い方に居たのよ。部屋を新しい方に替えてもらえたのね」

 半分はとても古くて昭和感?が凄くする。

 怡君がこともなげに恐ろしい発言をする。

「ここって夏賀の息のかかった病院なのね。その事は初耳だけど、ここには初めて来たんじゃない以前にも来たことがあるんだ。廃人になった拝み屋専用の病院だから」

「そうなの?ここで生きてるのに死んだことにされてるんだもの。そうなんでしょうね。保険はどうなってるの?って尋ねてもご心配に及びません、で逃げられるの。けどお医者様や看護師さん達って感じの好い人ばかりなのよ」

「儲かってるもん。ここを教えられるなんて茜ママはよっぽど粘ったんだ?」

 苦笑に感嘆が混じってる。

「ふふ、そりゃ愛しい人の為だもの」

 そしてこっちは何の衒いもなく惚気ちゃうんだなぁ。お祖父ちゃんどんないい男なの?

「ここってジュン姉?」

 継父の弟の師匠は細身だけど弱さを感じさせない、無駄を一切削ぎ落としたみたいな雰囲気がギンギンな人、ヨガのインストラクターを隠れ蓑に、なんで隠れ蓑にしてんのか疑問なんだけど、取敢えず隠れ蓑にして陰陽師してんだ。因みにバイで現在はフリーだからお父さんを狙ってるっぽい。こういうのってわざわざいわなくていいんだけどさ、でも後になると隠してた、とかって捉え方する奴いんだよね。だから予め公表しておく。

 怡君より師匠は二つ下だって言ってたと思う。

「聞かない方がいいわよ。公安に協力させられたくなかったらね。そして他言は一切無用。お子様達には予め言ってあるし、あんた達の口の堅さは信用してる。けど大事なことだからもう一度言っとくね。絶対他言無用だからね。いつかはご厄介になるかもしんないし、その時の為にも、ね」

 ご厄介になりたくない。

「公安関係…ってことか?」

「零班関係よ」

 お父さんが訊くと怡君が簡潔に答えてくれた。

 零班は怪力乱神を語れない警察が、公安に極秘に設置した機関で構成員はほぼほぼ一流陰陽師だ。って説明すれば大方解かるよね。彼らが動く時は心霊現象が全く関係のない人々を巻込んだりする可能性があったり、そうなってる時だ。

 例えば禁足地に考えなしの若者が入って冒涜行為を行ったとする。当事者達が酷い目に遭うのは当然だけど、怒った神様がそれだけじゃ修まらないとその地域の人々に禍がいく。零班が動くのはそういう時だから、本当に優秀な人が要るんだよね。あとは新興宗教の半端に霊能力だの神通力を持った教祖の尻拭いとかね。

 怡君は零班じゃなくて民間の協力者。優秀なのもあるけど異母兄の雅貴さんが零班にいるから仕事を受けてるんだ。

 公安なんて家族にも任務は極秘なのに、何故零班を私が知ってるかというと、一昨年の年末から去年の始めに掛けて悠斗がご厄介になったからだ。それは話せば長いからまた別の機会にさせて。

 そういうことがあって零班の存在を知っちゃって、その上私や悠斗は神通力に溢れてて優秀な陰陽師になりそうだから、将来スカウトするつもりでもあるらしいんだな。

 やだやだこのまま周りから雁字搦めなんて絶対嫌。

「公安の方達も大変なのね。ストレスも多いだろうし、外に洩らされたら大変な秘密を抱え込んでたりもするんでしょうね」

 お祖母ちゃんは病院に放り込まれた人達を素直に同情してる。

「俺はここで待ってる」

 上の方から悠斗が発言してみんな驚いた。一つ違いの悠斗は細っこいけど縦にヒョロヒョロと長くて、身長一九〇㎝あるんだ。なんでそんなに無駄に成長したんだ、姉の私が一五〇のチビなのに。何故姉ちゃんに少しでも分けようと思わなかった?

「どうして?ここまで来たのに」

 傷付いたようなお祖母ちゃんに悠斗は視線を建物に向けた。

 な~んとなく言わんとしてることは分かる。

「俺が行ったら、気付かれたらいけないモノに気付かれちまう」

「そう…なの?」

 霊能力がないけど夫が陰陽師だったからお祖母ちゃんは解からないままに頷いてくれた。ありがとうお祖母ちゃん。私達が人に視えないモノが視えて、お母さんに相談したけど構って欲しいんでしょ、ってあしらわれた時に、お祖母ちゃんはお祖父ちゃん方が拝み屋の血筋だって教えてくれたんだ。自分に視えないからって私達の訴えを否定しなかった。

「他人には視えないモノが視えてるって分かったら、それ以上口にしちゃダメよ。信じて欲しい気持ちは判るけど、あなた達にプラスには絶対にならないから」って助言は正しかった。

 お祖母ちゃんが他の人達は?って目で振り返るから「私は行く」って速攻で表明する。

「悠斗は人一倍そういうのに敏感だからね。はい、茜ママ私達は大丈夫」

「ごめんね祖母ちゃん。でも俺建物の外にはいるから、近くにいるからさ」

「分かったわ。じゃ、皆さん行きましょうか」

 促されるとお父さんは無言で悠斗の背を叩いて、みんなと一緒にお祖母ちゃんに従った。


 真新しくて清潔な建物は洋館っぽい造りになってた。ゆったり落ち着けるようにソファーとか椅子もアンティーク調のが配置されて、無機質な感じはない。入院するなら私もここで、って思う程だけど辛かったのは腐臭だった。酷い生臭さもある。私も怡君も師匠も顔を顰めて閉口した。

「凄いでしょ?ここパンピーはいないのよ」

 私だけじゃなくお祖母ちゃんも驚いて怡君を振り返った。

「いーじゅん」

 力ない声が届いて辺りを見回したけど姿は見えなかった。

「気にしないの、知り合いがここでお世話になってるだけ。建物が新しくなってるのに臭いが酷いんだから」

 匂いで顔を顰めてるのか苦笑してるのか判んない笑顔だった。

「匂い?何も匂わないが…」

 うん、お父さんには判んないよね。パンピー(一般人)には嗅がなくてすむ臭いだもん。羨ましいよ。

 そして一際酷い臭いがお祖父ちゃんの部屋なんだった。

「個室を貰ったのね、以前は大部屋だったのよ」

 お祖父ちゃんはパジャマじゃなく、バンドカラーの長袖とチノパンにちゃんと着替えさせてもらって、座り心地の良さそうなゆったりした一人掛けソファーに座ってた。涼し気な目元の端正な顔立ちで、お母さんの従兄弟の雅貴さんに似てる。こっちの方がハンサムだけど。でも私達が入ってったのに視線は窓の外に置かれままで微動だにしない。

「やっぱりその服は良平さんにぴったりね」

 そんなことは気にせずお祖母ちゃんは、別れ別れになってた恋人に会えたみたいに嬉しそうにお祖父ちゃんの傍らに座った。お父さんもそれに倣って私を手招きするんだけど、私はちょっと動けなかった。怡君と師匠もだ。

「そっか、こいつが憑りついてたのは良平パパだったか…」

 怡君が独り言ちる。

 私の目に映ったのはとてもとても醜いモノだった。普通だったら鬼と表現されるだろうけど、私はこいつが鬼じゃないことを知ってる。そいつはお祖父ちゃんの身体から生えてて、すんごい臭い息をお祖母ちゃんに吐きながら探ってた。

「視えるってどういう感じなのかしら。秋葉も初めて連れて来た時、しばらく入り口から動けなかったのよ」

「最近僕は子供達の目に世界がどう映ってるのかがとても気になるんです。酷い物に慣れてる口振だから、親だったら見せたくない物を見て来たんだろうなって。でもそれは僕にはどうしようもないんです」

 ああ、お父さんそんなに気にしなくていいのに、私や悠斗はその手の繊細さは持ってないんだから。でもちょっと、やだ、今度はお父さんに臭い息を吐きかけてるぅ。お父さんが臭くなる!

 怡君と師匠が動いてそいつも二人に興味を持った。上体?でいいのかな?をにゅっと伸ばして二人を嗅ぐ為に鼻を近付ける。

 と思ったらそいつは窓の外に気を取られたようでお祖父ちゃんと同じ格好になる。悠斗がいるって気付いたんだ。鼻からフシューッて我慢出来ない滅茶臭い息を噴き出す。

 興奮してる?

 ああ、やっぱ悠斗の存在はすぐに気取られちゃうんだ。

 と今度は私を見た。

 嫌だ!背筋が凍り付いて手足の感覚が麻痺する。体の奥に感じる恐怖だけが存在してた。フシューッて吐きかけられた息に私は必死に耐えた。

 何者にも無関心だったお祖父ちゃんが視線を漂わせて私を捉えるのが、半透明の醜いモノを透かし見えた。

「良平さんどうしたの?」

 本当にお祖母ちゃんは驚いてた。嬉しそうだ。

 ゆっくりお祖父ちゃんの頭が動いて「茜?」と尋ねた。

「そうよ、私よ良平さん!」

 喜びにお祖父ちゃんの手を取ると強い静電気に弾かれたように短い悲鳴が上がる。

「茜ママダメ!恒平、ママを守って!」

 師匠は急いでお祖母ちゃんを抱えて壁まで後退ると、それまで居た場所を姿を変えた奴の巨大な口が襲ってた。飛び散る涎が臭くて臭くて眩暈まで感じられたんだ。

「急急如律令、六根清浄⁉」

 怡君が九字を切るとそいつの一部が消えたけど一瞬で元に戻っちゃった。

「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ 

 そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」

 私が急いでひふみ祝詞を唱えたら、奴はごつごつしたトカゲみたいな皮膚に覆われた身体を伸ばして巻き付いてきやがった。

 臭い!苦しい!息が詰まる!

 腕ごと巻かれたから、掌印を結ぶことも出来なくて、息すると、否、しなくても鼻の粘膜に強烈な臭いが貼り付く。マジで何にも唱えられないし窒息しそうだった。

「姉ちゃん⁉」

「穂那実⁉」

 悠斗と師匠の声が聞こえた。察した悠斗は窓から侵入して来てた。鉄格子ないの?この部屋。それはいいから早く助けて、でないと異界に飛んじゃう。こんな奴連れてたら何処に飛んじゃうか分かんないよ。

 師匠が銃刀法違反に問われない、デザインナイフに似せた呪具を突き立てると、奴は私の頭がどうにかなりそうな、人の喉から迸る叫びとは異質な叫びを上げた。

 この時に私の意識は飛んじゃったんで、ここからは後でみんなに聞いた話。


 病院には自称陰陽師だの呪術師だの総合して拝み屋って呼ぶけど、そういう人達ばっかりだから、すぐにお祖父ちゃんの部屋の異変は知れて大勢が押し寄せようとした。だから怡君は床にお手製の法陣図を置いたんだ。

 それは和紙に描かれてる。中央に北斗七星、その周囲に四神、干支を配した法陣で、置いた途端にこの部屋が別空間になった。私が変なとこに飛ばない予防線でもあった。

 バッグから香り玉を掴み出すと怡君は奴に投げて掌印を結ぶ。破裂した香り玉に奴は捕まったけど、こんなの時間稼ぎでしかないから大急ぎで態勢を立て直す。

 お父さんは心底驚いて娘の危機とか全部忘れて呆けてた。だって自分には霊感がなくて、幽霊だの物の怪だの絶対見ることが出来ないと思ってたら、いきなりすんごいモノ視ちゃったんだもん。そりゃそうなるよね。お祖母ちゃんは相変わらず何にも視えなかったそうだけど。

 解放された私を師匠は半ば投げるようにお父さんに渡すと、お祖父ちゃんは気絶してた。

「こうなると思ってたんだよな」

 とのほほんと悠斗が言う。

「だったら最初に予告しとけ!」

「だってみんな平気そうに行くから、流石だなって、何とかするんだって」

 悠斗と師匠の会話に怡君が加わる。

「なんか感じたら絶対大人達に相談しなさい。朔を独りぼっちにするつもり?」

「え、そんなのなんないよ。俺の弟にして、でげっつう可愛がんじゃん、お祖母ちゃんも秋葉さんもいるし」

「このガキ、私がいなくなったって構わないっつったわね。忘れないんだから」

 やばさに気付いた悠斗はしどろもどろで言い訳しようとしたけど、怡君は相手にしなかった。

「こいつ良平パパに戻れなくなってるわね」

「完全に抜け出てもないけどな」

 当然だと思うけど部屋の隅に移動させられながら、お祖母ちゃんは矢継ぎ早に質問を発した。

「何どうしたの?良平さんは大丈夫なの?何が起きてるの?この部屋何か変じゃない?」

「ごめん茜ママ、答えてる時間はないの。説明は後でゆっくりするから、今は黙っていう通りにして」

「良平さんは…」

「絶対大丈夫!必ず守るから」

「必ずね!」

 それで完全に奴と分離させる為に荒療治することにして、手早く打合せする。悠斗はお祖母ちゃんとお父さんと私を守ることになったんで、共工っていう人面蛇身の怪物を出した。

「また豪いもん手下にしてんじゃねぇか」

「手下じゃないよ。お友達から始めてんだ」

「言ってろ、あのえぐいもんおじさんから離すぞ、いいか」

「はい」

 師匠は陰陽道の師匠だからこういう時は素直に従うんだ。

 バッグから今度は怡君は陶器の玉を取出した。浮き玉って名前で売られてる、中空で水に浮かぶ綺麗な玉だよ。

「用意はいいわよ」

 師匠はデザインナイフを二本手に取って、お祖父ちゃんの背中をそっと探ってた。デザインナイフを使ったことがある人なら分かるだろうけど、先っぽのナイフは取替られるようになってて、要はそのナイフが呪具なんだ。そして替えもある。エコだろ。

 香り玉の効力は薄れて、奴は醜い顔をお祖父ちゃんや両側から寄り添う怡君と師匠に向けてた。長くて大きな口の剥き出しの牙をがちがち鳴らして、香り玉の効力が完全に消えるのを待ってる。その瞬間が勝負だってみんな分かってた。

 それは奴の堪らなく臭い息や涎の臭いがきつくなるんで測られた。香り玉で一時的に消えてたんだ。

 口が裂けて奴が嗤ったように見えた。

 その瞬間師匠はデザインナイフをお祖父ちゃんの背中に突き立てた。一本は次髎(じりょう)に一本は(ふう)()に。どっちも背中のツボ。

 そしたら飛び掛かろうとしてた奴は、お祖父ちゃんから抜けた半身をカメレオンみたいに巻込んで抱えて、私を気絶させた叫びをまた上げた。抜けさせられるなんて思ってもみなかったんだ。すかさず怡君が浮き玉を奴の近くの床に叩き付けた。割れた浮き玉は元に戻る前に奴を封じ込んだ。

 際どい闘いだった、って語った時の怡君は珍しく恐ろしそうに身を竦めてた。

 奴は何とか封じ込められないように全力で抵抗したから、怡君は汗みどろになりながら掌印を結んで祝詞を唱えたんだ。

 解かる。客観的に闘いは短時間だったけど、時間掛けられる相手じゃない。一気に勝負つけなきゃいけない相手だったんだ。

 奴は何とか身体の一部を外に出して閉じられないように必死になったけど、最後の一片はそれを切断して嵌った。切断された一片は床に落ちる前に黒い塵になって消えた。

 怡君はベッドの上でヘタッたから、師匠は慌てて浮き玉が落ちる前にスライディングキャッチしたんだ、と話しながらドヤ顔だった。同時に部屋が戻った。

 外では狂気じみた喧騒が起こって、ある程度まともな意識を保ってる人達が頑張って治めてくれた。


 その間私だって単に気絶してただけじゃない。私の意識は竹林の異界にあったんだ。魂だけ行っちゃったんだな。

 容易く異界に渡っちゃうのは私の能力の一つ。

 誰が異界に築いたか分かんないけど、私には行き易い異界なんだよね。そういってもいくつも異界があるって訳じゃないんだよ。規模が掴めない広い異界の中に作られた場所の一つってこと。

 竹林の異界は大きくなくて開けたとこに四阿が一つあって、近くに何処から水を引いてるのか湧き水蹲踞(つくばい)があるんだ。ただそれだけの場所でね、一番に連れて来たのは怡君だった。豪胆なんだ彼女。

 誰か連れて行けるかって話になった時、私の腕前も疑問なのに怡君は「じゃあまず私連れきなさいよ」って、自分から志願したんだよ。初めてはそりゃあ緊張した。

 私が住んでるのは秩父で、ご眷属様には時々お世話になってたんだけど、その時は頭下げまくって何かあったら助けて下さいって必死でお願いもしたさ。

 前にもお世話になってたしね。

 で、上手くいってとっても嬉しかった。だって危険な時に無意識に相手を異界に飛ばしちゃうことがあるし、助けに行けるにこしたことはないよね。だから陰陽道のイロハを習うのと並行して、自分の力を暴走させないように鍛錬もしたんだ。

 魂だけ飛ばしたのは初めてだけど、病室のことが気になったから戻ろうと思ったんだ。そしたら竹林に辿り着こうとして必死になってる存在に気付いた。

 竹林は端までほんの二、三分でね、端から端まで丁寧に作られてるんだ。こういうの作るのって材料がある訳じゃないから一から自分の想像力で作るんだけど、それだけ観察力と記憶力が優れてる証拠なんだよ。何処にいるのか鳥の羽音や虫の鳴き声も聞こえてくるから。入念に作られてるのは確か。

 歩いてるんだか漂ってんだか、私自身も覚束ない気分で竹林を抜けてくと、そこからは透明な灰色の空間が広がってて、薄っすらと路らしき物が竹林に続いてた。なんで路なんかあるのか分かんないけど、そしてそこにはなんとビスクドールが歩いてたんだ。

 近付いて来るのはそれだった。

 よく見るビスクドールよりも大きくてルイ十三世の頃の、それとも三銃士の頃のといえばいいかな、後でちゃんと調べたんだよ。襟の広いゆったりした服も煌びやかな、ブーツの折り返しをレースで縁取った男の子の服を着てこっちに向かって歩いて来る。

 けどしばらく見守ってても全然距離が縮まらない。

「こんにちわ」

 本当は異界にいるモノに呼び掛けたりしちゃいけないんだ。それはきつく誡められてることなのに、私はビスクドールに手を振っちゃった。

 しまったと思ったのは、私が端っこに立ってても声を掛けない限り向こうからは視えないってことに気付いた時だった。こういうとこは招かれないダメなんだ。

 そしてその通りで綺麗で可愛いビスクドールの少年は途端に手をぶんぶん振って、『こんにちわ、こんにちは』って不思議に響く声で挨拶を返しながら、ずんずんこっちに近付いて来たんだ。縮まらなかった距離が縮まってビスクドールはとうとう竹林に足を踏み入れちゃった。

『可愛いお嬢さんこんにちわ。ああ!声を掛けてくれてありがとう。ああ、良かった!茜の声は幻じゃないんだよね。幻じゃないと言ってくれないか。頼むよ…。君は誰?この竹林にいるってことは夏賀家の誰かかい?いや、そうじゃないな。君は茜にそっくりだ。もしかして君が僕を呼んでくれたのかい?』

 口は全く動かないままに興奮して喋る喋る。

「え?え?え?……もしかしてもしかすると、っていうかそれしかないっていうか、……もしかして」

 こんな事ってある?私の賢い頭がその結論しか示さなくて、でもこんな事って!って混乱しちゃったんだ。だってビスクドールの口は動かないのに声はして、人間みたいな身振り手振りがあんだから。

『もしかして?』

「夏賀良平…さん?」

『はい!それで君は?ここには僕の身内じゃないと入れないはずなんだ』

 やっぱり!

 なんていうか驚いたけど予想通りっていうか、こんなことある?って軽く混乱したまま答えた。

「千夏の娘です。穂那実といいます。初めまして…お祖父ちゃん」

『孫!じゃあ茜は?』

 真っ白い肌に薄くピンクを塗られた頬のビスクドールは、私の顔を覗くように尋ねるんだもん。余程気にしてるんだよね。

「お祖母ちゃんは、っていうかお祖母ちゃんと私達はお祖父ちゃんのお見舞いに来てて」

『生きてるんだな!茜は生きて…っ』

 ビスクドールは、え…っとお祖父ちゃんは言葉を詰まらせて泣いてるみたいだった。

『この二百三十四年、諦めなくて良かった…良かった、良かったぁ』

「二百…って、ええ、なんでそんなに?」

 時間軸が違う場所に居たってこと?まあそうに決まってるよね。だってビスクドールだし、服装が服装だし。

『じゃあこっちでは何年経ってる?僕が…居なくなって…』

 ちょっと言い難そうだった。お母さんが今年で四十一歳でお祖父ちゃんが副業に出掛けたのが五歳だから…。

「二十五年経ってます。お祖母ちゃんは美容系の事業を成功させて、多分綺麗なまんまだと思う。二人で歩いててもお母さんにしか見らんないし、お母さんと並んでも姉妹だし―それと、こういったら喜ぶかな?弟に悠斗がいるんだけど、一昨年お母さん再婚したから去年の始めに伊織が産まれて、今年も八月に今度は妹が生まれる予定なんだよ」

『大喜びだよ穂那実ちゃん。君が天使に見える。美容系か、茜らしいな、人を綺麗にするのが好きだったから。娘達を着飾らせて楽しんでたのをよく思い出してたよ』

 よく見るとビスクドールの関節は球体になってて、手首や指も動かせるようになってる。私はビスクドールなんて持ってないから知らないけど、これって凄いことなんじゃ。

『……いや参った!この竹林は僕が作ったのに、気配はあれども姿は見えず。何度試してもどうしても辿り着けなかったんだ。それが茜の声が聞こえた気がして、慌てて試したんだ。気配は強くなってたけどやはり見えなくて、そしたら…穂那実ちゃんが「こんにちわ」って』

「ここを作った?お祖父ちゃんが?」

『そうだよ』

 ってところで視界が暗転した。


「姉ちゃん起きろ」

 お父さんの胸に抱かれたた私の頬を、悠斗は痛い目に叩いて起こしてくれた。途端に耳に届いたのはお祖母ちゃんの悲痛な叫びだった。

「良平さん良平さん!嘘吐き、絶対大丈夫だって言ってたじゃない。背中に血が、怪我してるじゃない。良平さん、目を覚ましてお願い!さっきみたいに茜って呼んで!」

「茜さん、大丈夫だから。血は出てるけど傷は浅いんだ」

「どうして良平さんを傷付けたの?恒平、どうして?」

「良平さんに巣食ってた鬼を退治する為ですよ、茜さん」

 横から口添えしたお父さんをお祖母ちゃんは不思議そうに振り返った。

「鬼?」

「そういう形容が分かり易いですかね。そうです。良平おじさんには化け物が憑けられてた」

「茜」

 弱々しい声がお祖母ちゃんの下から発されて、みんなベッドから退いた。

「嬉しいんだが、そろそろどいてくれないか、背中を治療して欲しい」

 飛びのいたお祖母ちゃんは信じられない、って風に顔に手を当てて身を起こすお祖父ちゃんを凝視してた。

「良平さんだ、ずっと会いたかった。声を聴きたかった。私の旦那様だ」

 お祖母ちゃんの瞳に嬉し涙が溢れてる。

 お祖父ちゃんを捜し当ててからの二十数年間、何を話し掛けてもお祖父ちゃんは反応しなかった。他の男性と結婚しながらもずっとお祖父ちゃんを愛して、定期的に病院に通ってたお祖母ちゃんがやっと報われた瞬間だった。

「僕もだ。ほとんど諦めてたんだぜ、二百三十四年、僕は異世界を彷徨ってたんだ。ただただ君に会いたい一心で」

 定番だけど二人は熱く見詰め合って、そして抱き合った。

「ああ、悲しい位腕の筋力がない。もっときつく君を抱きしめたいのに」

「きっと十歩も歩けないわね。でも大丈夫、私が付いてるから、もう一度二人で始めましょう」

 気を利かせてお熱い二人を置いて静かに病室を出る。ってしたかったけど、まだ戸口の辺りには拝み屋達が残ってるし、そうもしてらんなくて、

「お熱いとこ氷水ぶっかけるようで申し訳ないけど、続きは二人っきりになってからでお願い出来る?」

 怡君が注意を促した。

「あらごめんなさい。ありがとう怡君、恒平、訳が分からないけど良平さんを取り戻せたのはあなた達のお陰よ」

「そうだな。恒平君かな?ああは言ったが怪我なんて大したことはないんだ。茜の気を引こうとしただけだから、気にしないでくれ」

 師匠はお祖父ちゃんの服を捲って怪我の具合を見てた。

「すいません。どうしても必要だったもので…」

「ここで退治することになるとは思わなかったわ。話を聞いて簡単な物は用意してたけど、ホントいきなり…」

 手の中にある師匠から受け取った浮き玉を怡君は見詰めてた。

「我ながらよくも封じ込めれたもんだわ」

「それ、どうするんだ?」

 背筋に寒さを感じてる風な師匠が訊いた。

「割るわ、ここでない何処かで、近い内に」

「置いとかないのか?」

「私じゃこいつを使役出来ない。こいつだって狼狽えてた、だから何とかなったのよ。他に人間に渡すのも危険だし。でもそれよりはまず良平パパの身柄をどうするかね」

「元に戻ったのなら退院すればいいだけだろ?」

 お父さんが不思議そうに言うと、怡君と師匠は目を合わせた。次いでお祖母ちゃんとも。

「言い難いんだけど、良平パパは死亡届が出されてるの。失踪して七年後に」

「ここに居るのを知りながら⁉」

「その説明も後回しにさせてもらっていい?取敢えず私は院長と話してくるから」

「ジュン姉ついてくよ」

「怡君ついて行こうか?」

 師匠とお父さんは同時だった。

「ありがと、でも大丈夫、院長とは知らない仲じゃないから」

 ってさっさと行っちゃった。

「彼女は?千夏でも秋葉でもないと思うんだが。いーじゅん?」

 見送ってお祖父ちゃんが訊いたんで、師匠は苦笑して説明する。

「良平おじさんの弟の泰弘さんが浮気して出来た子供です。怡君は自分で付けた通名で、生粋の日本人ですよ。因みに俺は従兄弟の浩一の次男です」

「浩一の!浩一は元気にしてるか?」

 複雑そうな表情で弟の浮気はスルーしたねお祖父ちゃん。

「そりゃもう達者にしてますよ。殺したって死なんでしょう」

「だろうなぁ」

「お祖父ちゃん」

 笑ってるお祖父ちゃんに呼び掛けたら、もっと破顔して「穂那実ちゃん」って呼んでくれた。

「そうだけど、どうして知ってるの?まだ紹介してないわ」

 お祖母ちゃんが訊く。

「穂那実ちゃんのお陰なんだ。でないと鬼と分離出来ても僕はあの空間を彷徨っていたかもしれない。恐らくそうなったろう」

「私だって気絶してただけじゃなかったんだよ。あ、お祖父ちゃん、お父さんの長谷川修吾と弟の悠斗だよ。一応補足しとくと、お母さんとお父さんはずっと前に離婚してて、お母さんには新しい旦那さんと子供がいます」

「竹林でもそう言ってたな」

 お母さんの話が出るとお祖母ちゃんはそっと顔を逸らしてた。

 二人を紹介してから異界で遭ったことをみんなに説明する。

「創造主でも中から招かれないとダメなんだ」

「色々要因はあるだろうな。僕が存在してた空間と竹林が存在した空間は、同じ場所に存在しているように見えて全く別の空間だったから。何とか路を架けるまでは出来たんだが、僕の独力では辿り着けなかった」

 悠斗の言葉にお祖父ちゃんは言い添えてくれた。

「お祖父ちゃんの居た空間って?」

「並行宇宙って解かるかな?こちらからは観測出来ないけれど、向こうはこちらのことを第二十三異界と呼んでいたよ。信じてもらえるかどうか、あちらは魔法が一般的な世界でね」

「え?ってことは、あれじゃない?」

 悠斗はキラキラした目で私を振り返る。うん、あれだね。

「だったらお祖父ちゃんは異世界おじいちゃんなんじゃね?お祖父ちゃん向こうの魔法こっちで使える?」

「あらそうなの?良平さんは魔法使いになって戻ったの?」

「何故そう話が早いんだ?何故疑問もなく受け入れる?僕はずっとどう話せばいいか悩んでたんだぞ」

「向こうの人は長寿なの?お祖父ちゃん二百三十四年も彷徨ってたって」

「確かに向こうでは多少魔法は使えたが、こちらでは無理だ。向こうは魔力で寿命が決まるんだが、僕にはそれはあたらない。寿命が長いのは穂那実が見た通り、僕は魔法の人形師が造ったビスクドールに入ってたからだ。肉体はここにあるんだから、飛ばされたのは魂だけ。その魂が出来上がったばかりの人形に入っちまったって訳だ」

「魔法の人形師…ファンタジーだ」

 お祖父ちゃんは苦笑してた。戻ってこんなに簡単に信じてもらえるなんて思ってもみなかったみたい。おいおい説明してあげるねお祖父ちゃん。

「その所為で注文主とは彼女大分揉めてたんだよ。何せ魂を容れられる人形を作れるのは世界中に彼女ともう一人いるかいないか、だったから。製作日数もかかるし息子の死に間に合わないかもしれないってね」

「まあ」

「そうなんだ。病魔に侵された一人息子の為に注文したんだからな。それは違法でもあって大っぴらに出来ることでもないし、僕の魂を追放して改めて息子の器にと迫ってた」

「お祖父ちゃん大ピンチ」

「それが一番簡単だったのに彼女はそうしなかった。彼女は新しく作ってる間に息子さんが死ぬようなことがあれば別の人形に一旦移して、そして人形が出来たらもう一度魂を移すから、と交渉をしてくれたんだ」

「好い人だね」

「そう、幸い新しい人形が出来るまで息子さんは生き長らえられて目出度し目出度しさ」

「それからどうしたの?」

「しばらくは彼女の手伝いをして、向こうの世界が解かった頃に…百年経ってたかな?彼女と話合って彼女の友達の魔法使いの下に身を寄せた」

「それから?」

 先を促す悠斗に師匠から待ったがかかった。

「待て待て悠斗、そういう話は後でゆっくりとだ。こんなとこで話すことじゃない」

 不服そうな表情になったけど悠斗は引き下がった。

「そうだな。どっちかっていうと僕が教えてもらうのが先だよな。孫と婿殿が達者にしてるのは嬉しいが、千夏と秋葉は?」

 お祖母ちゃんの表情が暗くなる。

「秋葉はね、宿で朔ちゃん、怡君の赤ちゃんの子守をしてるわ。前に来た時にしんどい思いしたみたいで、さっき言ってた鬼なの?が辛かったみたい」

「そうか」

「千夏は赤ん坊の世話もあるし次の子供もお腹にいるから来てないの」

 違うけど、混み合ってるからこの場でこうこうって話せないよね。

「ああ、本当に伊織はいるんだな。穂那実を疑ってた訳じゃないが、嬉しいことだらけで信じるのが恐かったんだ」

「因みにお相手は兄の俊平です」

 これにはお祖父ちゃんは目を剥いた。

「俊平?は僕の記憶ではまだ生まれてないな」

「奥さんが妊娠してるのは聞いてたわよ。浩一さんはあなたのことが本当に好きだったから、予言通りに子供達の名前にあなたの平の字を入れたじゃない」

「どうしてそこまで俺が好きなんだか…」

「父には散々おじさんのこと聞かされたな。才能があって賢くてそれを鼻に掛けない涼やかな男前だって」

「褒め過ぎだ」

 本気で渋い顔してた。

 どや顔で怡君が戻って来るまでこんな感じで私達はお喋りしてた。意外と戻りが早かったから不首尾だったか、って不吉な考えが過ったけど「私の実力よ」って。

「退院した人がいない訳じゃないけど、良平パパはもう死亡届の出てる人だから、すぐに退院は難しい。夏賀家とも連絡を取らないと。なんていうから、良平パパ、恩に着てよ。切り札の一つ二つ使っちゃったんだからね」

「ありがとう怡君。じゃあ僕は君達と一緒に?」

「勿論。どう考えても良平パパをここへは残して帰れない。夜に何がパパに危害を及ぼすか…良平パパも辛いだろうけど身体が本調子になるまでの辛抱なんだからね」

「パパと呼んでくれるのかい?泰弘には悪いが嬉しいな」

「いいのよあんな親父。茜ママには私も朔もお世話になりっぱなしなんだから」

「そんなに急ぐ必要があるのかい?」

 お父さんの問いに怡君は険しい表情をした。

「この件は両奈(ふたな)が絡んでる」

 両奈っていうのはお祖父ちゃんの夏賀家を傘下にした、陰陽師の一大家門だって考えてくれたらいい。何百年も前から関が原から東は、白猪を称する頭領の管轄なんだ。

 ついでにいうと西は銀鹿、九州は青馬、北海道は赤熊、本名は不明になってる。意外にも本拠地は四国で頭領は金狸を称する。配下にも本名の他に陰陽師稼業で使う名前を付けたから、二つ名から両奈が呼び名になったって訳。師匠は(のり)(すけ)って名前を貰ってる。

「白猪には碌な子が生まれてないし孫もそう。だから実力のある配下は必要だけど、実力の有り過ぎる人間はいらないのよ」

「隠してたつもりだった。表の稼業で生きる気を見せたら放っておいてくれるかもしれないと…」

「白猪は放っておくつもりだったでしょうけど、性悪猫は…ね」

 含む言い方だった。怡君は浮気で出来た子だから夏賀家の認知は受けてなくて、だから白猪も猫も呼び捨てだ。

 猫様、猫御前って両奈では呼ばれてる白猪の娘なんだけど、年齢的にはお祖母ちゃんと同年代なんだって。その配下の(たえ)()ってのがまた性悪なんだけどお祖父ちゃんが好きだったらしいんだよね。だけど美人なお祖母ちゃんと結婚したもんだから、それもあってお祖父ちゃんを廃人にしたんじゃないか、って噂は夏賀家ではほぼ事実となって語られてるらしい。

 やだねぇ人の幸せ受け入れられないって。

「ここは夏賀や家門に関係ない協力関係で運営されてはいるけど、そりゃどうしたって知られてるでしょ。零班も使ってるんだし、猫が知ってるかは知らないけど」

 やや間をおいて続ける。

「兎に角良平パパ、私が守るから今夜は旅館で美味しい物食べて、そこでゆっくり茜ママとつもる話をして頂戴。お湯も良さそうだったし」

 早くここを出た方がいいっていうのは私も感じてる。戸口に群がる人に混じって、正気で鋭い視線を感じるんだ。

「っていつの間に!」

 腰を抜かしそうになった。

 背が高くて頑丈そうな看護師さん(男)が無言で立ってたからだ。声掛けなよ。

「あらお久し振り、へぇここで働いてるんだ」

 怡君には知った顔らしい。

「院長が「連絡を受けました。書類は改めて届けられるそうです」と。何かお手伝いすることはありますか?」

 視線を辿ると、お祖母ちゃんが風呂敷を広げてお祖父ちゃんの着物類をまとめてた。

 車椅子だけ頼むとすぐに持って来てくれて、お父さんと師匠でお祖父ちゃんを車椅子に座らせると、みんなで病院を後にしたんだ。

「支払いは?」

 と訊いた悠斗にお祖母ちゃんが答えた。

「支払いなんて必要ないわ。夏賀の姑が払ってるのだと思う」

「良平さんさよなら」

 小さな玄関ホールで見送ってくれた人は、なんとなくお祖父ちゃんに似てた。

「せっちゃんさよなら。元気でね」

 お祖父ちゃんは手を振った。のちに従姉妹だと教えてもらった。


『坂本療養病院』

 その看板をレンタカーの車窓から私は何気なく眺めた。


 朔を抱いて迎えてくれた秋葉さんも、車椅子で現れたお祖父ちゃんには吃驚してた。二十五年振りの実父に記憶を探るような目をする。

「LINE電話もらった時は信じられへんかったけど、本当やったんやね。お父…さん」

 大学からずっと大阪暮らしだったから大阪弁が染みついちゃってる。

「秋葉…。予想以上に綺麗に成長したな」

 こうして見ると秋葉さんの目元はお祖父ちゃん似なんだ。涼やかでミステリアスで女王のような美女として、怪談界でもてはやされてる秋葉さんは本当に美人だ。さらっさらの長い黒髪も長身も彼女の持つ雰囲気を際立たせてる。

 その様子をお祖母ちゃんは眩しそうに見詰めてた。車の中でも散々泣いたのにまた涙が盛上がってる。その背にそっと手を添えるとお祖母ちゃんは涙を貯めたままの目で笑った。

 すると朔が母に手を差し伸べて大声で泣き出しちゃった。肌が黒くて唇の厚い子に、お祖父ちゃんは驚きと物珍しさの好奇の視線を送った。

「この子が…」

「朔ですよ良平パパ。始まりの朔。父親がアフリカ人なんです。驚きましたよね」

 朔を抱き取ると「お乳を上げてきます」とベッドルームに消えた。

 男性には別室が取られてて師匠は「ごゆっくり」、とお父さんと別室に向かったんだけど、悠斗だけは残った。

「悠斗?」

「俺の祖父ちゃんなんだ残ってもいいよね」

 視線でお祖母ちゃんや秋葉さんに懇願したら、二人は笑顔で承知してくれた。

「孫が側に居てくれたら嬉しいに決まってるじゃない。長谷川さんだって遠慮しなくていいのに」

「いえ、俺は折角だから一っ風呂浴びてきます」

 って笑顔で行っちゃった。

 お祖母ちゃんが取ってくれたのは信州でも有名な温泉宿で、市内にあるんだけど最上階の眺望のいい部屋だ。所謂スイートルームで最高八人まで泊まれるんだって。桟のない広い窓からは市内が一望出来るんだけど、高所恐怖症は絶対無理な部屋だわ。

 眺望を楽しむ為のソファーセットにお祖父ちゃんを中心にみんなで座った。お祖父ちゃんの両隣にはお祖母ちゃんと悠斗が、対面のカウチには私と秋葉さんって形。でも気の利く孫であるところの私は、すぐにお茶の用意に席を立った。そしてみんなに訊く。

「お茶より珈琲がいいかな?ルームサービスで珈琲頼む?」

 生きた屍だったお祖父ちゃんの胃には珈琲は辛いってことでお茶、他はみんな珈琲だった。

「お父さん。早速やけど訊いていい?何があったの?」

「訊かれるだろうとは思ってたよ。だがすまない。肝心なところは記憶にないんだ」

「記憶にない⁉」

「丹沢の槍岳にある無人の民家に連れていかれて、祀られなくなって禍ツ神になり始めてた、一家が代々祀っていた神様の鎮撫を皆でしたんだ。猫御前から来た件なのにあっけなく終わって、撤収作業の最中に誰かが井戸を発見したんだ。危険なモノがいるのはハッキリしてた。年下の奴が蓋を開けようとして、止めようとしたら誰かに背中を押されて落ちたんだ。何の準備もないまま得体の知れないモノと対峙した。記憶はそこまでしかない。次の記憶はビスクドールの中だ」

「じゃあ酷いことは覚えてないのね。良かった」

 ってお祖父ちゃんの肩にお祖母ちゃんは顔を埋めた。

「何か僕は君や子供達にしたのか?それならすまん謝る」

「そうやないねんお父さん。私は小さかったから記憶ないねんけど、連れて帰られたお父さんは廃人になっちゃっててん」

「それであの病院に?よく場所を教えてもらえたな。白猪様やその周辺には内密に他の陰陽家と提携して造られた病院なんだ。だから実際にあの病院のお世話になるまでは身内にも秘密だったはずなんだ」

 そんなに秘密だったんだ。じゃあ私達大勢で押しかけて不味かったんじゃ…。

「お祖父ちゃんは知ってたんだ?」

「土地購入の手助けをしたからな。裏稼業で廃人になった同業者が劣悪な環境でほったらかしにされてる。しかし稼業が稼業なだけに一般の病院ヘは入院させられない、ってことで閨閥だの家門だのグループだのの枠を超えて、親父の呼び掛けで造られたんだ」

「今は零班も使ってるんだ」

「そうなる予想はあったさ。異世界で流離ってる最中も、誘いに応じて零班に入ってたらよかったって何度思ったか」

「雅貴さんも両奈を嫌って零班に入ったんだよな」

「雅貴?」

「泰弘さんの長男よ」

「そうか、零班は国家的な組織だし、土台が酷くなった状態の跡始末だから辛いしな。何処の陰陽家も一門を脱して零班に入ったら手を出さんのさ」

 陰陽師って格好良く物語になってるけど、本当はこういうめんどくさい裏があるんですよ皆さん。

 喋り疲れたっぽいお祖父ちゃんに優しくお祖母ちゃんが囁く。

「お喋りしてて疲れない?私の膝を使う?」

「どんなお祖母ちゃんになってたとしても再び会えるだけで幸せだと思ってた。だが君はあの頃とちっとも変わらない。記憶にあるままだ。君に愛されて僕はつくづく幸福な男だ」

 あ、ラブラブだ。

「ごゆっくり」

 そう今度こそ本当にごゆっくりだ。秋葉さんが静かに立ち上がったんで、興味津々に祖父母を見詰めてる悠斗の襟首を強く引っ張ってやった。野暮だっつーの。


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