最終話: あなたにキスを
見えるものが何もない、真っ黒に塗りつぶされた視界。
あー、またこの夢か。滅入るなぁ……。
心身が弱っているとき、かなりの確率で見せられる悪夢は、いつも暗闇から始まる。
――バタン!
どこか狭い場所に押し込められ、身動きできない僕を置いて、誰かがドアから外へ出ていく。
閉じられたドアの向こうで微かな、しかし何故か鮮明に聞こえてくる話し声。
「なんだ、ガキ置いてくのか」
「あたりまえじゃないの。あんなの持ってお店入れるわけないでしょ」
「いいのかよ、なんかあんじゃねーの? 世話とか」
「いいのっ! 少しぐらい! もう赤ん坊じゃないんだから」
「どう見ても赤ん坊だったろ」
「っさいなー。そーゆーの、もぉ、うんざり! それ以上言うなら他の男呼ぶけど」
「はいはい、まぁ良いんだけどよぉ」
はぁ、こんな会話を記憶してるはずないんだよな。
彼女がどんな人間だったかすら僕は知らないし、脳が勝手に作りだしたそれっぽいドラマだ。
モデルが実在するのかもあやしい男の方が、なんかちょっと良い奴っぽいことに毎回和む。
できれば、もう少しだけ頑張って彼女を翻意させてくれたらなぁ。
彼らの声が聞こえなくなると、五感を刺激するのは自分自身の小さな鼓動のみとなった。
周囲に何もないので匂いや味はしないし、手や肌から感触が伝わってくることもない。
この時間がけっこう長くて、精神的にクる。
苦痛があったりするわけではないのだが、ひたすら何もできず、何をしようが終わらない。
最悪なのが、夢なので時間さえも存在しないことだ。体感で数日くらい堪え続ける羽目になる。
いやいや、意外と余裕があるように見えるだろうけど、これはこれで酷い拷問なんだよ?
ま、唯一の救いは目覚めたら忘れてるっぽいことだな。
……ああ、でも、考えてみればこの悪夢も久しぶりか。
いつ以来だろう? んー、ちょうど、あの子と出逢ってからは見てなかったことになるのか。
あれ? あの子って……誰だっけ。
――唐突に光が射し込む。
おや、いつもより随分と早いなぁ。ま、いいか。終わった終わったー。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
……んんっ? ぐむぅ、僕は……。
ああ、内容は思い出せないが、なにやら酷い夢を見ていたような気がする。
頭の中から足の先まで、身体の内側にヘビでものたうち回っているんじゃないかという疼痛と、手脚に重い枷でも嵌められているんじゃないという倦怠感、肉体的には既にいっぱいいっぱいで身を起こすのは疎か、身動ぎ一つするのさえ億劫だ。
その一方で、寝ている場合じゃなかったはず、まだやらなければならないことがあったはず、暗闇に戻りたくなければさっさと起きろ……と、頭の中の誰かが必死の勢いで覚醒を促してくる。
なかなか上がろうとしない目蓋と闘いつつ、ぼんやり霞がかった世界を探査していく。
そうしていると、徐々に頭が回り始めてきた。
「月子……行くな……おいて……いく……な」
月子? そうだ。彼女を……助けないと……。
口が勝手に紡いだ言葉に、思考が反応し、一気に湧き上がってくる強い焦り。
そのとき――。
「松悟さん、お目覚めですか?」
擦れがちな呻きでも、途切れ途切れの呼吸音でもない、ずっと聞きたかった透き通るような声。
ああ……彼女だ……。彼女の、声だ……。
半ば膝立ちに近い体勢で自分の腕を枕にしてうつ伏せていた僕は、のろのろと顔を横へ向け、ほとんど死力を振り絞るかのような思いで視線を上へと向けていく。
寝台で半身を起こし、無くしていた貌の色を取り戻し、苦しげに開かれていた唇にも穏やかな微笑みを湛え、いくらかやつれは感じられるものの真っ直ぐ視線を合わせてくる少女が、そこにいた。
「まさか……夢だなんて言わないだろうね……?」
「ふふ、しっかりと現実ですよ」
「……あぁ……良かった……」
「でも、まだもう少しお休みになっていてください。お疲れのはずでしょう」
「いや、君の方こそ、まだ病み上がりなのだから――」
「私は身の回りのことくらいはできそうですし、もちろん、すぐに休ませていただきます」
「そうかい? それなら……」
……お言葉に甘えて休ませてもらおうかな。
早くもうとうととし始めた僕のでかい図体を持ち上げながら石の寝台が形作られ、物を濡らすことのない水のマットが徐々に身体を包み込んでいく。
意識がハッキリしない中、勝手に調えられていく寝床。
だが、これが月子の精霊術であることは考えるまでもなく、何一つ心配せず身を任せていれば良いんだという安心感があった。
僕のコンディションは未だ最悪に近いが、もうそこにあるのは溜まりに溜まった疲労だけ。
奇妙な終末観や失望感、身の内を抉られるような疼痛は感じられない。
そうして、僕は安らいだ心地で意識を手放すのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
あれ? そう言えば、ここって月子の部屋じゃなかったか?
勧められるまま、何も考えずに眠ってしまったが……。
ふと、そんなことに気付いて見てみれば、元からあった彼女のシングルベッドの隣に造られた僕の寝床は、いつの間にやら互いに繋がり、一台のダブルベッドとなっていた。
その上で並んで眠る僕ら二人……。ん? この状況は一体?
いや、まだ月子は眠ってはおらず、横向きでじっと僕の顔を眺めているようだ。
何をしているんだろうか? 団子鼻のおっさん面なんて見ていて楽しいものじゃなかろうに。
しばらくそのままでいた月子は、やがて静かにそっと身を起こし、今度は仰向けに眠っている僕の顔を上から覗き込むような体勢となった。
「松悟さん……」
それは小さな囁き。
「私、また助けられてしまいましたよ? くすっ」
そんな揶揄うような言葉も、耳を澄ませていなければ聞き取れなかったであろう囁き声だ。
何故だろう? 彼女の口調や仕草は普段よりもやや幼げで、表情が豊かに変わる。
どこか幻想的、愛らしくも謎めいている、妖精じみた無邪気さ。
僕が眠っていると思い、気を抜いているのか。病み上がりでテンションが高くなっているのか。まぁ、どちらもありそうだ。もしかすると、これが彼女の素なのかも知れない。
くすくすと小さく笑いながら、眠り続ける僕の団子鼻をつついたりしている月子。
だが、急に真顔になって黙り込んだかと思えば、小首を傾げ、悪戯を思いついた風な表情で「これは、お礼をしなければいけませんよね」と呟いた。
そして、僕の顔に向かってゆっくり、まるでスローモーションのように貌を寄せてゆき……。
――ちゅ。
互いのくちび……顔が重なったまま暫し、彼女は己が身にどれほどの幸運が舞い降りたのかも知らず眠りこけている僕から、近付いてきたときよりも更にゆっくりと身を離してゆく。
「ふふ、これがお礼です。起きているときだと困らせてしまいそうですから」
――唐突に暗転。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――……はっ!
えーっと、僕は何を見ていた? 見せられていた?
僕自身はこの場にこうしているのに、寝ている僕に、あの子がきっ、きき、きすを……。
いや、待てよ。あ、ああ……はいはい、なるほど! これは夢か。
はははっ、我ながら、またえらく都合の良い夢を見たもんだ。
幽体離脱?だったか、そういうのじゃあるまいし、考えてみれば彼女の様子もおかしかった。
これも脳が勝手に作り出したドラマというわけだな。
そもそも、こんなことを考えている僕とは、一体何であるのやら。
気が付けば、周囲には誰の姿もありはしない。
まぁ、でも……最高に良い夢だったんじゃないか?
今回のは、目が覚めても忘れずにいられたら有り難いんだがね。
章としては短いのですが、ここで第三章を区切ることにします。
物語はまだまだ続きます。
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