第十一話: 眠り姫に口付けを
どうすればいい……っ!?
心臓は……まだ動いている。だが、呼吸が非常に浅く、止まっているかのように感じられる。ひどく手が冷たい。今にも死んでしまいそうに思える。一体、美須磨の身に何が起きているんだ。ただ高山病が悪化したのかと思い込んでしまっていたが、ひょっとすると他の病気なのだろうか? いや、医者などではない僕如きがいくら考えようと、そんなことが分かるわけはない。
……今は何ができるのか、だ。
まず、息が止まりそうなのは、絶対にまずい!
【環境維持(部屋用)】は切れておらず、部屋の空気に関しては快適に保たれていると思う。
理由は分からないが、とにかく彼女自身の呼吸する力が弱まっているのだ。
「風の精霊に我は請う、彼女の呼吸を助けてやってくれ、頼む」
慎重に、慎重に、彼女がか細く吸う息に合わせ、より多くの空気を送り込み、吐く息に合わせ、より多くの空気を吸い出すイメージ。風の精霊術【微風の呼吸】といったところか。
ずっと【環境維持】を頼んでいる風の精霊はひどく聞き渋るが、泣き落とす勢いで一心に願う。
仕方ないな。今日だけだぞ……といった感覚が伝わってくる。かたじけない。
大きく深呼吸をするように美須磨の胸が上下し始めたことに、ひとまず安堵する。
しかし、それだけで容態がすぐさま上向くわけではない。
「水の精霊に我は請う、彼女の身を浄めてくれ」
この二日の看病で幾度も使ってきた水の精霊術【洗浄】は、大量の水で対象を包み込んだ後、汚れと共に周囲へ蒸発・発散するという効果があり、服を着たままでも身体を綺麗にすることができる。ただし、体内の水分を多めに奪ってしまう点にだけは注意が必要だ。
意識があるときは、普通に服を脱いでもらってから掛けていたのだが、今は仕方ない。
そうして汗を洗い流したら、毛布を被せていく。
身体の冷たさから火の精霊に頼りたくなるも、彼女自身の体力に任せておくべきだと頭を振る。もう何度も繰り返した葛藤。どちらが正しいのかは判断できない。できることはあるがやれないということに己の無知と無力を痛感する……が、へこんでいるヒマなどあるものか。
呼吸の合間に水、特製の病人食、地球産の医薬品をそれぞれ与えていく。
栄養不足は解消されていると思うのだが、とにかく水と食事は十分に摂ってもらう。
そんな風にあれこれ看病をする間も、ほんの僅かなりと意識が戻る様子はない。
頼りになる精霊も、実在することが分かっている神も、これ以上の力添えは期待できなそうだ。
ならば人事を尽くすしかないのだが……チッ、他に何かできることはないのか?
と、病床においてもそうそう蔭ることのない美須磨の美貌が、苦しげに少しだけ歪む。
その眉間に浮かんだ小さな皺を見ていられず、そっと手を伸ばし目元を撫でてみると、表情が心なしか和らいだように思えた。
同時に、呼吸を安定させた影響がようやく出てきたのだろうか、顔色もやや良くなったような気がする……いや、気のせいではないと思いたい。
「そうだ。頑張ってくれ、月子くん……」
僕は、祈るような気持ちでそう囁き、一旦、部屋を出た。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
正午になっても、美須磨の意識は戻らない。
朝の様子と比べれば、容態は大分安定してきたように見える。
このまま持ち直していってくれることを信じよう……と、自分自身へ言い聞かせていく。
再度、水と食事と薬を与え、身体を洗った後、そろそろ【環境維持(部屋用)】の効果時間が切れるため、掛け直しておこうかと考え……。
そこで、ふと部屋の入り口の脇に置いておいた、とある物の存在が気に留まった。
確たる理由があったわけではなく、何かの役に立てばと手当たり次第に持ち込んだ物の一つ。
ほとんど神頼みに近い心境で持ってきたのだが、改めて見てみれば、何かしら利益があってもおかしくなさそうなソレ――以前、手に入れたきり、使い道も思いつかず倉庫に放置されていた、仄かに温かい、緑色に光り輝く謎の宝玉であった。
「ははっ、我ながら思考がオカルトに染まったもんだ」
だが、か細い藁であろうが、イワシの頭であろうが、この世界であれば力になるかも知れない。
僕は宝玉を持ち上げると、眠り続ける美須磨の頭の側へ配しておく。
そして、【環境維持(部屋用)】と【微風の呼吸】を掛け直すと、また部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
相変わらず、ここには時間を刻む物が存在しない。体感では、もう夜半になった頃だろうか。
美須磨の容態は、一応の小康を保っている……が、ここに来て無視しがたい問題が一つ。
風の精霊が、とうとう僕の言葉に反応しなくなってしまった。
それも、いつものように機嫌を損ねたという様子ではない。こんなことは初めてだが、単純に疲れきってしまったのではないかと感じられる。
確かに、この三日間はずっと無理を聞いてもらっていたのだ。感謝こそすれ、不満に思うなど決してありはしない。
とは言え、状況としてはそれなりに……いや、かなり厳しくなった。
ひとまず【環境維持】は使えなくても大きな問題にはならないだろう。元々、玄室内では絶対必要というわけではなく、少しでも快復の助けになればと思っていただけのこと。
しかし、【微風の呼吸】を切らすことは、できれば避けたかった。
今にも呼吸が止まりそうだった朝と比べれば、緊急の危険性を感じるほどではないが、未だに決して安静とは言えない息遣いをしており、対処する必要があることは明らかだ。
こうなると分かっていれば、もっと早くから風の精霊の運用を見直していたものを……。
――やるしかないよな。どれだけ効果があるかは分からなくとも、それでも。
僕は、ベッドに仰向けで横たわる美須磨の頭部を、後ろへ逸らすようにして固定し、鼻を塞ぎ、弱々しい息の吸入に合わせて口を口で覆って、ゆっくりと息を吹き込んでいった。
そう、いわゆる、マウス・トゥ・マウス方式の人工呼吸法である。
口と口を合わせると言っても、そこに甘い雰囲気などはなく、恋人同士がするようなキスとはまったくの別物、れっきとした医療行為だ。
少しだけ泣き言を言わせてもらえるなら、体力的にも、精神的にも、とてつもなくしんどいし、これで呼吸の助けになっているのか? やり方は間違っていないか? そもそも、こんな状態で行うことに意味があるのか? 逆効果になってやしないか?などと余計な思考が湧き出てきそうになってくる。だが、そんなものが形を成して心を煩わせる余裕さえありはしない。
息を送り込み、呼気を確認し、再び息を送り……と、ひたすら無心でやり続けているうち――。
いつの間にか、僕も意識を失っていた。





