第九話: 二人で観る景色
その日、異世界にやって来て以来、ず~っと頭上を覆い続けていた黒雲が、初めて散った。
うっすらとではあるが青い色に染まる大空が、僕らの目の前に広がっている。
風の強さも程良いくらい、ここが日本であっても普通に『いい天気』と呼べるだろう。
近頃の僕たちは、採集に出掛けられそうか否かを見極めるため、目が覚めたら最初に岩屋まで上がり、その日の空模様と大凡の時間帯を確認しておくのを日課としているのだが、これまでの数週間、陽光を目にすることすら稀だったことも相まって、気持ちまで晴れ渡ってくるかのよう。
だから、美須磨がこんなことを言い出したのも、さして意外とは思わなかった。
「良いお天気ですし、今日はあまり目的を定めずに散策してみませんか?」
二人で採集へ出られるようになり、物資を大量に持ち帰ることができる雪舟も導入、加えて、このところはほぼ連日、採集に励んでいたため、蓄えにはかなりの余裕が出来ていた。
「ああ、良いんじゃないか。これまでやれずにいたこともあるだろうし」
と言うわけで、今日は二人のんびり行楽気分で出掛けることとする。
一旦玄室に戻り、準備を整えた僕たちは洞穴の下へと降り立った。
「……まぁ、外にいられるのは三時間程度だから、あんまりのんびりはできないんだけどな」
「ふふ、いつもの採集場所であっても、このお天気でしたらきっと新鮮な景色ですよ」
「それもそうか。せっかくだし、普段できないことをと思ってしまったが」
「あ、それでしたら、上はいかがでしょう?」
「上?」
「はい、高いところへ参りましょう」
そう言って視線を上げていく彼女に合わせ、振り返って仰ぎ見れば。
「なるほど、高い場所……か」
もう僕の中ではすっかり只の壁としか認識しなくなっていた、いつもの絶壁が目に入った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
美須磨の精霊術により、岩壁の壁面から奥へ一メートルほど、逆コの字型にくり抜かれた細い通路を伝い、僕たちは拠点の洞穴よりおよそ一〇〇メートルほど上の高さまで登ってきていた。
学生時代の友人に連れていかれた黒部峡谷の水平歩道や、近隣に住む村人たちだけの手で敷設されたというニュースで話題となった中国の貴州省にある壁挂道路を思い出しながら、先行して通路を造っていく美須磨の後を追う。
ちらりと岩壁の外――下方へ目を向ければ、ほぼ九十度の垂直に切り立った断崖。
それなりに風は強く吹いているため、開放された右手側に身体が流されそうになる度、背筋に冷たいものが走るが、ご丁寧に手すりまでが成形されており、落下する心配はまったく無い。
岩壁を登ると聞いたとき、真っ先に不安を覚えた高山病による影響も気にせずとも良さそうだ。
まぁ、一〇〇メートルくらいなら、それほど大気圧は変わらないということもあるだろうし、【環境維持(個人用)】の守りが十分に信頼できるという証左でもあるだろう。
そんなわけで、僕らは当初の予定通り、焦らず無理せず、されど意外とハイペースでここまで登ってきたのだった。
「ふぅ、結構登ってきたかな。つ、月子くん、そろそろ少し休まないか」
「それでは、此処をテラスと致しましょう」
言いながら、庇付きの小さな半円状テラスを設えていく美須磨。
石造りの丸い椅子とテーブルも用意され、ちょっとした展望台の様相である。
二人、荷物を下ろし、椅子へ腰掛けると、精霊術でお湯を沸かしてお茶を淹れ、一服。
何が起こるか分からない洞外なので、警戒と緊張は切らせず、のんびり落ち着くという気持ちにまではならないが、今日は主たる目的のないお遊び登山――言わばピクニックのようなもの。
この時点で、既にやりたかったことは達成されたと言ってしまって構わない。
「それにしても、思っていたよりも楽に登ってこられましたね」
「ああ、空気の心配さえなければ、いつかは登頂できるんじゃないかって思えるくらいだ」
「ただ……思っていた通り、登ってもあまり意味は無さそうです」
「ははは、頂に近付いている気なんてまるでしないし、上空から周辺の地理を確認できるかなと期待してたけど、それも雲と靄でさっぱり。確かに、無理をしてまで登る必要性は皆無だなぁ。とは言え……」
僕はテラスの外へと目を向ける。
「景色の良さだけは想像以上だったよ」
真っ白な雪に反射するギラギラとした光もまた、普段から僕らを悩ませ、精霊術による対策が欠かせない要素の一つだが、今だけはやけに眩い陽射しも、それに照らされる風景も、好ましく感じられてならない。
見渡す限りにおいて、やはり現在地である岩壁を有するこの嶺こそが最高峰のようであった。
いつもとは比較にならないほど明るく晴れた空に加え、いつもの岩屋より高い場所からの展望、今までは見えなかった相当遠くの峰まで確認することができるものの、雲の高さなどと比べれば今いるテラスの標高に達するものすらなさそうだ。
前述の通り、下界の様子はろくに見て取れないが、周囲の山々の中でも一際険しそうな連峰や、逆に広々とした平野へと続いていそうな尾根がなんとなく確認でき、想像を逞しくしてしまう。
しばらく二人でそんな話をしつつ、ティータイムのゆったりとした時間を楽しむ。
「大して登ってはいないのに妙に達成感があるなぁ。現実離れした景色のお蔭か」
さながら……いや、まさしく雲の上に浮かぶ天界の景色といったところだ。
美須磨もうっすらと頬を紅潮させて遠くを眺めている。
「この世界で暮らす人々は、斯様な絶景を目にしたことがあるのでしょうか」
「魔法があるとは言っても、中世ヨーロッパくらいの文明だと登山は一般的じゃないだろうね。ここまでの標高となると、空を飛ぶ生き物でもなかなか見られない風景なんじゃないかな」
「私たちだけの景色なのでしたら、素敵ですね」
――素敵、か。
僕はどちらかと言えば、ほんの少しの寂しさを感じてしまう。
世界から切り離されたような気になったのだろうか? こんな絶景を一人占めしていることに後ろめたさでも感じるのだろうか? 自分自身でも理由はよく分からないのだが、なんとなし、目線は遠くに向けたまま、テーブル上に置かれていた手の位置を僅かばかり動かしてみる。
すると、小指の先に柔らかな物がそっと触れた。
いや、見ずとも分かる。それは美須磨の嫋やかな指だ。
指が触れ合ったくらいのことで、別段、二人とも妙な反応をしたりすることはない。
しかし、これだけで僕の内心にあった微かな寂しさは雲散霧消した。
本当にどういう感情なんだろうな、コレは。
「松悟さん、こんなにも広い世界で、これから私たちは生きてゆくのですね」
「ああ、異世界で言うのも変な話だけど、世界は本当に広いな」
結局、僕たちは時間いっぱいまでテラスでだらだらと過ごしてしまい、ただ景色を見に行っただけで今日の洞外活動を終えることとなった。
ま、不思議と無駄な時間を過ごした気はしていないので、偶にはこんなのも悪くないだろう。





