第七話: 少女の意地と男の意志
まるで予想だにしなかった美須磨の激昂に返す言葉を失ってしまう。
「……月子……くん?」
「あ、すみません……でも……」
一体どうしたって言うんだ。まるで彼女らしくない。
あんな、ヘドロの塊じみた怪物と危険を冒してまで闘う必要があるとはどうしても思えないが、彼女にそうする理由があるというのなら尊重すべきか。
何はともあれ、ここで長々と議論をしているヒマはなさそうだ。
「いや、分かった。君がそう言うなら撤退は無しの方向で対処しよう。それでいいんだね?」
「はい」
僕らがやり取りしている間、敵はただじっと見守ってくれていた……などというわけはなく、高さ三メートル、幅七メートルはあろうマイクロバス級の巨体から、直径八十センチほどもある黒団子をポコポコと生み出していた。
『む? まさか卵でも生んでいるのか……って、あれは!? 冗談じゃないぞ!』
既に十個も雪面に転がっている黒団子は、それぞれ本体と同様、ぷるぷると身を震わせており、中には細長いムチを振り回し始めている奴までいた。
つまり、あれら一つ一つが本体より分裂を果たしたミニ団子なのだ。
「早くやめさせないと。……君はでかいのを引きつけていてくれるかい? 僕は小さいのを」
美須磨が先ほど投擲した短刀は粘体内部に飲み込まれてしまったものの、ひとまず砕かれたり溶かされたりはしておらず、黒っぽく半透明なゼラチン質の奥に白点として今なお存在していた。
「……っ!!」
そこから伸びるワイヤーロープも美須磨の手元と繋がったままのようだ。
二度三度、ぐいぐいとワイヤーをたぐろうとする彼女の意に反し、一ミリたりとも戻ってくる様子はなく、当然、怪物の巨体が引き寄せられることもない。
ただ、いかにも腐食性を備えていそうな粘体に触れている獣の牙や鋼線がいつまでも無事とは考えにくいため、心配せずともそのうち外れるのではなかろうか。
「こっちは通用しそうな攻撃を探りながら、なるべく早く取り巻きを片付けていくよ。君の方は自由に動きにくそうだし、僕が合流するまで無理しないように」
「ええ、相手の出方次第ですけれど」
「……忘れないでくれ。どうしても倒さなくてはならない敵ではないんだ」
「参ります」
手短に打ち合わせを終え、僕らは行動を開始する。
怪物――そろそろ呼び名を決めておくか……よし、あいつは地中の団子だ。
ゆっくりと、バルバスの落とし子たちへ向かって歩き出し、僕は願う。
「火の精霊に我は請う、爆ぜろ」
請願に応じ、燃え上がった五つの火の玉が同時に前方へと撃ち出される。
それらは、小さめの黒団子が密集している地点で次々と着弾すると、広範囲に燃え広がった。
お馴染み【火球】の効果を全面的に強化させた火の精霊術【爆炎】の威力だ。
どうやら子も親と同様、あまり動きは速くないらしい。
着弾地点にいたほとんどが炸裂した炎に捲かれ、どろどろと形を崩し、のちうち回る。
そして、やはり狙い通り、奴らの粘体に火はかなり効果的なようである。
とは言え、流石にこれだけで仕留めきれるわけはなかった。
この場は既に奴らの攻撃圏内でもあり……。
爆撃を逃れた数匹と、火に焼かれたままの数匹が、押し寄せる高波のように盛り上がりつつ、細長いムチ――触手を真っ直ぐ連続で突きだしてきた。
『ムチと言うより槍だな。これだけいると、まるで槍衾だ』
面の如く連なり迫る無数の触手は回避困難、だが――。
「風の精霊に我は請う、跳ぶぞ」
――とん。雪面を足で軽く蹴ると、僕の身体は身の丈を超えた高みに跳ね上げられる。
足下から吹き上がる突風に乗って数メートルもの跳躍が可能な風の精霊術【高飛び】である。
ちなみに、下降時には大気のマットで受け止めてもらえる安心仕様となっている。
槍衾の届かない上空へ逃れた僕は、バルバスの落とし子らに向かい、再度【爆炎】を見舞う。
空中から狙いを付けての爆撃は、今度こそ群れ全体をまんべんなく炎上させる。
着地して前方を見渡せば、もはや無傷の落とし子は一匹もいないようだった。
しかし、二度の爆撃を以てしてもなお崩れ落ちる姿は見られない。
確かにダメージを与えてはいるのだ。
問題は、低酸素、低気圧、そして吹雪……燃え上がった火がすぐに鎮火してしまうのである。
『こんな小さな奴らでさえ、ただ燃やすだけではダメということか。少し考える必要があるな。おっと、美須磨の方はどうなっている?』
戦闘を再開し、美須磨はまず、ピンと張られているワイヤーを伝うように真っ直ぐ走った。
言うまでもなく、目標はその先にいるバルバスである。
行く手を遮る落とし子どもは、開幕早々に僕が放った爆撃で蹴散らされ、揃いも揃って意識を彼女の方から外していた。
ニンジャじみた身のこなしと忍び足に加え、ストーカーの毛皮をまとっているのだ。
素通り同然に群れの傍らを抜けていくのも、さぞや容易いことだろう。
『……あんな姿形をしたバルバスどもが、どうやって周囲を認識しているのかは、さておき』
――ティエリ、りー!
分裂したためだろう僅かにサイズを減らしたものの、未だにマイクロバスとさして変わらない巨体を誇る親バルバスの真っ正面に美須磨が走り込んでいく。
ワイヤーリールが固定された右手をやや前方へ向けているが、左手には何も持っていない。
その手が、降りしきる雪を掻き分けるかのように振られると同時、請願が為された。
「水の精霊に我は請う――」
先んじてバルバスが伸ばしてきていた三本の触手が、ピキィ!という透き通った音を上げる。
狙いには遠く届かぬ遙か手前で停止したかと思えば、根元へ遡って瞬く間に凍りついてゆき、ほどなく自重と風雪に耐えかねてか先端よりボキッと折れて崩れ散ってしまう。
たちまち固まっていく触手を自切する腹だろう、付け根部分を千切れそうなほど捩らせつつ、意外に素早い反応で身を引いてゆくバルバスだったが、目論見は達せず、伸ばした三本の触手と前面の体表を広範に亘って凍結させられることとなった。
――リ、り! ケっリ、リ!!
まさか、脳髄は疎か、内臓と思しき器官すら体内に見当たらない不思議生物に怒りなどという高等な感情があるはずなかろうに、奴はひどく憎々しげな調子で層一層、不気味な音を発する。
幾本もの新たな触手を伸ばし、デタラメに振り回して美須磨を威嚇すると共に、猛烈な勢いで表面積を膨張させてゆく。
絶え間なく震える身より、先ほど凍結させられた触手と体組織がバキバキと砕け落ちてゆくも、小山のような巨体からすればごく一部に過ぎない。
そうして、目前の敵対者を飲み込まんと、まさしく暴走車の勢いでのし掛かっていった。
いや、それはもはや津波か土砂崩れ……天災にも迫るほどの規模だ。
「月子くん!?」
「我は請う――」
その圧倒的なまでの面制圧攻撃を避けることは叶わず、かろうじて請願の序言だけを発した後、小さな美須磨の肢体はおぞましき粘液の海へと飲み込まれていってしまう。





