第三話: 落ちる男と飛ぶ少女
精霊術の効果に関して、僕らは早い段階で全幅の信頼を置くしかないという認識に至っている。
まぁ、当然だろう。
【環境維持】がなくては生活拠点の玄室から出ることさえままならない。
もしも何らかの理由により精霊術が使えなくなれば、そこが玄室の中であっても早晩、物資が尽きて生活は立ちゆかなくなるだろうし、外だったら即死しかねないレベルで瞬時に詰む。
『そもそも、普段は門を閉ざしているので、地の精霊術で岩壁を除去することができなければ、玄室への出入りすら叶わないわけだしな』
精霊術に疑念を懐いたが最期、もはや何をすることもできやしない。
だから、それが不安定な能力であることは百も承知で、割りきって、信じて、頼るのである。
……と言っても、正直、今から挑戦しようとしている行為には、どれだけ精霊を信頼しようと軽々には踏ん切りがつかないほど恐怖心の方が勝ってしまう。
「大丈夫です。足から、足からですよ、松悟さん」
「あ、ああ……分かってはいるのだが」
既に、つま先が迫り出され虚空に浮いた状態となっている、その行く先をうっかり覗き込み、知らずゴクリと喉が鳴った。
「大丈夫です。雪上ですから万が一があっても生命を落とす可能性は高くありません」
「あ、ああ……ちょうど勇気の在庫を切らしていなければ、どうということもなかったんだが」
そう、お察しの通り、足下で切り下ろされた高さ十メートル……までは行かないか? ざっと八メートルほどの崖下まで、僕はこれから飛び降りようというのだ。
言うまでもなく、単に下まで行きたいというだけなら他にやりようはある。
今後のことを考え、とある精霊術の検証をしなくてはなるまいと、このような状況に……。
「おっ、おおっと! 押さないでくれよ、みす……月子くん」
「誰も押してはいませんけれど?」
高所にいると、段々、自分がまっすぐ立っているのかどうかさえ分からなくなってくるな。
「くっ、こうして逡巡していたら怖じ気づく一方だ。いい加減、覚悟を決めよう」
「はい、その意気です」
「行ってくる! 風の精霊に我は請う、優しく受け止めてくれよっ!? 絶対、絶対だぞ!」
思いっきり地を蹴って宙へ身を投げ出しつつ、風の精霊へ必死に頼む。
本来であれば重力に従い、すぐに落下速度を上げていくはずの僕の身体は、しかし、柔らかな感触をした空気の塊と吹き上がる突風による抵抗を受けて大幅に減速させられる。
そして、透明なパラシュートでも着けているかのようにゆっくり降下し、ふわりと着地した。
『ふぃ~、超常現象には慣れたつもりの身でも、流石に肝が冷えるなぁ』
落下速度だけに留まらず、風圧と空気抵抗により対象の運動エネルギーを大幅に削ってくれる風の精霊術【大気の壁】……この先、山岳という環境において大いに役立つはずである。
と思い、幾度も繰り返してきた実用テストの総仕上げはひとまず無事に成功したようだ。
今回のような失敗したら大怪我必至の高さは初めてだったため、多少、みっともないところを見せてしまったが、終わってみれば徐々に心も落ち着いてくる。
「松悟さーん、お怪我はありませんかー?」
「大丈夫だーっ! なんともない! 君はゆっくり――」
「それでは雪舟と一緒に参りますねー!」
「は?」
崖上から届けられた美須磨の言葉に耳を疑う。
その意味を僕の頭がようやく理解した瞬間、上空に大きな影が飛び出してきた。
「ちょっ!? 風の精霊に我は請う、全力で受け止めろぉ!!」
美須磨の手で製作され、早くも採集物の運搬には欠かせないものとなっている僕らの雪舟は、大物を積み込むことまで想定した縦幅二メートル強の大型サイズだ。
フレームだけは金属製ながら、大部分は【氷樹】の木材であり、見た目ほどの重量はない……とは言え、そんなもの、決して軽いわけもなく。
十メートル近い落下の衝撃を下部のスキー板だけで吸収しろとは、いくらなんでも無理がある。
それは、たとえ【大気の壁】だろうと受け止めきれるものではなさそうに思えるが……。
僕の請願に従い、ごおぉっ!と雪を捲き散らしながら激しい突風が吹き上がる。
同時に、見えざる大気のマットにも受け止められ、落ちてくる雪舟の速度が目に見えて落ちる……も、危惧した通り、なおも地面に激突すれば只では済まぬ勢いは殺しきれていない。
こうなったら深く積もった雪で受け止めるしか――。
「水の精霊に我は請う、ぬかるみ、緩やかに受け止めろ!」
が、そのとき、頭上にある雪舟の左右からにょきっとカニに似た三対六本の脚が生える。
言うまでもなく、もちろん、僕のしたことではない。
タカアシガニを思わせるフォルムとなった雪舟は、太く長いそれらの脚を下部へと突き出し、グッシャア!!という派手な粉砕音を鳴り響かせながら雪上への着地を果たす。
六本脚の先端が雪面に突き刺さるのに合わせ、多関節が順番に素早く内側へと曲げられてゆき、半ば近く砕け散りながらも雪舟本体へ加わる衝撃を全力で逃がしきろうと試みる。
舞い上がった雪と氷、砕けたカニ脚の破片、轟音と振動……それらがしばらくして落ち着くと、六本脚に支えられた雪舟本体は、空中でバウンドするように小さく一つ浮き沈みさせられた後、僕が精霊術により柔らかく変化させた雪の上へそっと下ろされた。
我に返ると、雪舟の上で美須磨がバツの悪そうな顔を覗かせていることに気付く。
「すみません、松悟さん……思っていたよりも大変なことになってしまいました」
「うん、どうなることかと思ったよ。君の思いきりのよさにはいつも驚かされる」
「今回ばかりは私もびっくりしました」
「うん、あぶなかったからね。ヘタしたら雪崩とか起きたかも知れないし」
「ご心配をお掛けしてしまい、申し訳ありません」
しおらしく謝ってくる彼女は、普段は見られない表情をしていて非常に可愛いらしいものの、流石にこれはきちんと言っておかないと。
「今度からは返事を確認してからにするように、いいね?」
「はい」
幸い、地の精霊術により形成されたらしき使い捨ての岩石製カニ脚をすべて切り離してみれば、雪舟本体はまったくの無傷だった。
結果だけ見ると、彼女の行動が考えなしだったとも間違っていたとも言い難い。
『……結局、僕が小心者というだけのことなんだろうか、むむぅ』
とまれ、前置きが長くなってしまったが、ぼちぼち本題に移るとしよう。
実は、こうして僕らがわざわざ崖まで下りてきた主目的は、精霊術を検証するためではない。
先ほど、この谷間に妙な物を発見し、直に間近で確認してみたいと思ったのである。





