第十六話: 奮い起って歩む男
数日ぶりの雪原は相変わらずのどんよりとした空模様で僕を迎えた。
精霊術【環境維持(個人用)】による空気壁をも吹き飛ばさんとばかり走り抜けてゆく疾風、その守りを以てしてもなお芯まで凍えよとばかり怨念じみた執拗さでまとわりつく極限冷気。
パラパラと細雪も降っており、戦いの場としては、ややアウェイか。
最悪、洞穴から外に出た途端に飛び掛かられてもおかしくないと覚悟していたのだが、窺える範囲において、まだストーカーの気配はなさそうだった。
正直に言えば、勿体ぶらず、さっさと出てきてほしい気持ちすらある。
今回の僕は、いつもの簡易バックパックを背負っておらず、短期決戦の構えだ。
分厚いクマ皮の強化手袋を着けた拳をグッグッと握りしめ、鋭いスコップを雪に突き立てる。
特製の雪靴を履く足取りも危なげなく、クマ爪の滑り止めでザクリと雪面を捕らえて一歩一歩、着実に足場を固めていくかのように踏み足も力強くある。
視界の端に一瞬だけ映る陰、風音の合間に混じる微かな呼気、不自然なタイミングで発生する枝落ちや転石……どれほど些細な違和感も見逃すまいと意識を集中する。
周囲は見通しが良く、小動物が潜めそうな物陰さえありはしない。
と、以前はこれだけで警戒を緩めてしまっていた僕だが、今回は違う。
「風の精霊に我は請う、旋風を成して周囲を探れ」
精霊術【探査の風】の請願に応じ、僕を中心として巻き起こった烈しい旋風は、勢いそのまま数十メートル先まで奔り、物が当たる度に反響するが如く真っ直ぐ突風を送り返してくる。
返ってくる風の間隔と周囲の景色とを照らし合わせ、同時に、吹き飛ばされていく積雪の下に潜んでいるものがないか、おかしな反応は起きていないかと注視する。
これは推測でしかないのだが、あの雪原の追跡者が目に見えなかった理由は、雪の中に潜るか、保護色か、あるいは折衷的に雪をまとってか、風景に溶け込む術に長けているのではあるまいか?
だとするなら、こうして風を送ってやることで何らかの異変が見られるかもしれない。
風の精霊を使うことには、【環境維持】の持続時間が削られてしまうリスクもあるとは言え、今回は短期決戦。あまりに多用するのでなければ気にする必要もあるまい。
程よい緊張感と共に研ぎ澄まされていく意識。程よく弛緩しつつ、あえて隙を装っていく動作。
そして、闘いの火蓋は切られる。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
なるべく周囲に物陰がない開けた方向を選びながら歩き続けること暫し。
疎らに降ってくる細かな雪が、足下に積もった雪に当たって鳴るさらさらという静やかな音、断続的に吹き抜けていく風が立てるひゅーっという鋭い音、そうした自然の調べと交じり合い、奇妙な笛めいた音が微かに伸びゆく。
――……うるるぅ……ひいぃぃぃー……。
「風の精霊に我は請う! 旋風を……」
それを耳にした瞬間、僕は反射的に先と同じ風の精霊術【探査の風】を放った。
巨大な箒で掃くが如く、辺り一帯の積雪が平らに均されていく。
同時に、雪の畝、小岩、【氷樹】……それらに反射したかのような風が次々と戻ってくる。
だが、その返す風をも抜き去り、猛然と迫りし質量を持った何物かの気配を直感が捉える。
速い! 大きい! にも拘わらず、やはりまったく姿はない!?
確かな存在を感じながら姿形は目に映らず、向かってくると思しき方向には変わらぬ雪景色が広がっていることしか見て取れない。
『どうなっているんだ!? 気付けるはずないだろう、こんなもの!』
後から考えてみれば、気配の正体は風を切るごく僅かな音だったか。それとも、目を凝らしてようやく感知しうる、宙を舞う小さな雪片が虚空へ吸い込まれる不自然さであったのか。
いや、このとき既に敵は目と鼻の先、それは叩きつけられてくる凄まじい圧と……殺意!
五感が捉えた情報を脳が処理し、思考となって両腕にスコップを構えさせるまでの一瞬。僕のほぼ最速を超えて懐深くまで飛び込んできたソレは、結ばれていた線を辿るかのように一直線で喉元へと襲い来た。
――ガギィ!
その致死の攻撃は硬質な音を響かせながら阻まれる。
突撃してきた重量までは受け止めきれず、大きく後ろに押し込まれはするものの、首は無傷だ。
『あっぶな! やっぱり首の防御は大事だったな。硬くしてもらっておいて正解だ』
種は美須磨が作ってくれた銀製の防具である。
銀という金属は、本来、さほど硬度が高いわけではなく、武具に向いているとは言い難い。
しかし、僅かながら、地の精霊術で大きく硬度を高めることに成功しており、現時点において僕らが手に入れている金属の中では最硬を誇る物質となっていた。
要は、防寒具の内側、人体最大の弱点である首と腹部を、この強化銀によるリング状の防具で隈無く覆っていたというわけだ。
しかも、ただ攻撃を防いだだけに留まらない。
水平に構えようとするスコップの上を越えてきた不可視の何かが、僕に触れたか触れないかも判じえない間髪容れず、ボォッ!という炸裂音と共に激しく燃え上がった。
攻撃の威力は、この炎によってもかなり減衰されていたに違いない。
『……敵の攻撃を受ける前に燃やせる予定だったんだが、まぁ、それはいいとしておこう』
これこそが、一定の範囲内まで近付いた物を自動的に燃やすよう、あらかじめ仕掛けておいた精霊術の罠【炎の棘】だ。
火力は非常に高く、たとえば雪玉くらいなら、投げつけられても一瞬で蒸発させてしまう。
そうした攻防が行われた刹那の時。
炎が燃え上がり、銀の防具が攻撃を受け止めた……という思考の速度をも追い抜き、僕の手は半自動的に胸元のサバイバルナイフを抜き放つ。
流れるように、目の前の何か――顔を火に焼かれたまま、「ギニィャァア!」と大きな悲鳴を上げて飛び退こうとしているストーカーの腹に下から突き立て……いいや、当たらない。
『チッ、速いな』
どうやら、奴の速度に追いつくには、たった数日の鍛錬では足りなかったようだ。
後ろ向きに高速離脱していくストーカーは、火明かりに間近で照らし出されたためだろうか、これまで執拗に隠し続けてきた恐るべき姿をようやく曝け出していた。
僕の身長を優に上回る、体長二メートルを超える白い獣……胴体よりもよっぽど長い尾を持ち、毛皮には灰色の斑模様が散らばっている。
その姿は、猫科の猛獣――ヒョウだった。
ただし、言うまでもなく、前世地球の野生動物にはありえない特徴も備えており、最大の物が、口元から下方へと鎌の刃のように鋭い弧を描いて伸びる二本の長大な犬歯である。
『あんなもんで首を刺されるところだったのか……』
一万年以上もの昔、太古の地球に生きていたという絶滅種・サーベルタイガーを想起させるも、今は敵の正体など詮索している暇はあるまい。
ひとまず、普通の動物らしいということが分かっただけで十分だ。
最も危惧していた奇襲による一撃は凌ぎきった。
僕は、この流れを維持したまま、姿を露わにしたストーカーを仕留めるべく畳みかける。
「水の精霊に我は請う、液化しろ!」
狙いは、まさに今、奴が飛び退いていこうとしている着地点だ。
短い請願に応じ、ストーカーの足下、直径一・二メートルに亘って積雪が水へと変換される。
「よし! 落ちろ!」
そこが第二の罠――戦いが始まる前、歩きながらスコップを深く突き刺しておいた場所だった。
たった今、水に変わった雪は、そう、落とし穴の蓋だったというわけだ。
下は深さ数メートルもの縦穴……いや、雪をすべて粘液化させてある精霊罠【水の陥穽】。
僕は水飛沫を跳ね上げて沈んでいくストーカーの姿を予想し、すかさず次の手を打つ。
「火の精霊に我は請う、煮えたぎ……って、おい! お前、それはないだろ!」
が、なんたることか! 奴は真下に空いた穴に落ちるどころか、液化した雪に足を浸しもせず、水面から僅かに浮いたまま、フィギュアスケートじみた後ろ向きの滑走で退いていってしまう。
『なるほど、足音も足跡も残さずに移動できる秘密はこれか』
まるでホバークラフト、あるいは風に乗って歩むかのような、地形を問わぬ浮遊移動だ。
なんてでたらめな生き物なのか。
――ぐるるぅ、るるぅ……ぎにぃぃー……。
十メートルほど間合いを開いたストーカーは、顔を焼く【炎の棘】の火を、激しく頭を振って消し止めると、怒りに満ちた唸り声を上げた。
ヒョウと言えば大きな猫というイメージがあったものだが、遠間より睨め付けてくる面構えは、そこそこの猫好きを自負する僕としても、まったく可愛いとは思えないほどの憎たらしさだ。
よく見ると、奴の姿が徐々にまた雪景色へと溶け込みつつあった。
これもまたでたらめな、透明人間じみた迷彩術である。
『……はぁ、獰猛な大型の肉食獣ねぇ。たった一人でこんなのと戦う羽目になるとは、ちょっと前なら想像すらできなかったよ。しかも知能が高くて魔法使いと来たもんだ』
なのに、何故だろう。
不思議と、もう恐ろしいとは思わない。
ただ、さっさと仕事を終わらせて彼女の元へ帰る……それだけに頭の大半が占められていた。
「……まったく、これだけ苦労させるんだから、せめてクマより美味い肉であってくれよ」
僕は重心を落として両手でスコップを構えると、ストーカーへ先端を指し向け、叫ぶ。
「それじゃ、第二ラウンドを始めようじゃないか!」





