第十四話: 怖じける男と襲撃者の爪痕
序幕「怯えながら歩む男 ~ 疲れた男と迎える女」からの続きとなっております。
前話から作中時間が少し飛んでいますのでご注意ください。
何かがいる。
どうしたわけか身動き一つ取れず、手足は疎か、視線を動かすことすらできぬまま雪原に佇む僕の全周より、その何かは悪意に満ちた気配だけを突きつけてくる。
『何をぼーっとしているんだ! 早く逃げろ!』と叫ぶ心。しかし身体は無視を決め込み……。
やがて、気付く……ソレがゆっくりと、少しずつ、近付いてきていることに。
もう、既に、すぐ後ろに立っていたことに――。
「うわぁあああああ!!」
ガバァっ!と毛布をはね除けて目が覚める。
「……ハァ……ハァ……ここは? ああ……よかった、夢か……」
軽く手足を動かしてみて現実を実感するも、まだ心臓はバクバクと大きな鼓動を刻み続ける。
冷たい汗で濡れた身体を水と風の精霊術でさっぱりさせてもなお一向に気分は晴れない。
先日の出来事――そう、それは数日前のこと。周辺探索からの帰途、虎視眈々とこちらの隙を窺っていたらしき正体不明の敵に襲われて生命からがら逃げ帰った経験は、僕の心に深い爪痕を刻みつけていたようだ。
生活拠点となっている玄室の右手に並ぶ三つの扉、その真ん中に位置するのが僕の自室である。
どこか澱んだ部屋の空気を厭い、扉を開ければ、神聖な祭殿を思わせる光景が広がった。
この中央玄室は、現在、円形舞台の上にテーブルと椅子が設えられ、談話室になっている。
利用者は二人しかいないので閑散としているものの、【氷果】の果皮と種子を利用したお茶が楽しめるティーセットなども常備されており、なかなかに寛げる空間だったりする。
精霊術により握り拳大の水球を作り、虚空に浮かべたまま温め、石器の湯飲みへと注ぐ。
淹れたお茶をこくっと一口、飲めば「……ふぅ」と溜息も一つ、少しだけ心が落ち着いてきた。
『我ながら情けない話だが、あの襲撃以来、まだ次の探索には出られていない』
最初に一人で雪原へ出て以来、既に数度の探索を経ていた。
その中で外敵と呼べる存在に遭遇したのはあれが初めてとなる。
とは言え、思い返してみれば、以前より些細な違和感はずっと付きまとっていた気もする。
呑気に流してしまっていた感覚、それらも奴――雪原の追跡者の気配だったに違いない。
『単純に運が好かっただけだとは考えにくい。まったくの無警戒で隙だらけだった僕ごときでも侮ることなく、未知の敵として様子見に徹していたとでもいうのだろうか……? 一体、どんな奴かは不明だが、おそろしく慎重で狡猾な敵と見ておくべきだな』
それほどの相手が、とうとう攻撃を仕掛けてきた。
つまり……確実にこちらを仕留める算段が付き、獲物として見定められたということであろう。
「おいおい、これって状況は詰んでるんじゃないか? 命懸けの戦いなんて未経験、スコップとナイフくらいしか武器はない。頼みの綱の精霊術だって、咄嗟にどこまで使えるか……ああ……」
ぶんぶんと首を振って悲観的な考えを頭の隅へと追いやる。
いつまでも嘆いていたって状況は変わらない。気を取り直して打開策を練らなければ。
……美須磨には心配を掛けたくないし、今日も上の岩屋へ行って一人で鍛錬に励むとしよう。
朝の挨拶と今日の予定を伝えるため、彼女の姿を捜す。
まずは個室。玄室の右手、三つの扉の一番奥が美須磨の部屋となっている。
ちなみに、どの扉にも鍵など付いていない。ノックは必須だ。
コンコンコンとノックを三回……返事はない。
ならば、作業場か? 玄室左側、手前の扉をドンドンドンと強めにノックする。
すぐに「はい、どうぞ!」と返事が聞こえてきた。
この作業場へ入るときには些かの注意が必要だ。
居住スペースで行うことが憚られるような特殊作業全般に利用するための多目的な部屋であり、場合によっては派手な精霊術を使用していたり、刃物を振り回していたり、とんでもない悪臭が漂っていたりしかねないのである。
念のため、警戒しつつ、ゆっくり扉を開けていく。
「おはようございます、先生」と挨拶を受け、「おはよう。何を作っていたんだい?」と返す。
床に座り込んだ美須磨の周りには大小様々な部品が置かれ、何やら作業中であることが窺えた。
「動物を捕らえるための罠をいくつか考えてみました。先生のお話からすると、やはり雪の中を掘り進む生き物がいるように思われます。埋めておける箱罠などがあれば有効かと」
「へぇ、こんな透明の板も作れるようになったのか。ガラスかな?」
「水晶ガラスです。それほど透明ではありませんから石英ガラスと呼ぶべきでしょうか」
「その気になったら、もうどんな道具でも作れそうだ」
「くすっ、鉄か銅……とまではいかなくとも、純粋な金属鉱石がもっと欲しいですね」
「すまない。僕が化学教師だったら冴えた代案の一つも出せたろうに、知識が足りていない」
少しばかり鉱物加工が可能になろうと、住環境や探索効率は劇的に改善されたりしない。
技術者ではないのだから、いくら材料だけ揃えても、道具を作成するには構造から試行錯誤を繰り返していく必要がある。時間が掛かるのは当然というものである。
それでも日毎に結果を出し、状況をマシにしてきている辺り、流石は美須磨だ。
『腐っても大人として、役立たずの足手まといにはなりたくない』と僕は決意を新たにする。
「僕はまたちょっと岩屋に行ってくる。外へは出ないから、何かあったら呼びに来て」
「はい、いってらっしゃいませ」
用途が分からない細かな部品を組み立て始める美須磨を残し、作業室を後にした。
もうすっかり慣れた足取りで洞窟通路を辿り、洞穴入り口のある岩屋へと着く。
さて、わざわざここへ来たのには、美須磨に心配させたくないという以外にも理由がある。
先日以来、ストーカー対策として、危険な攻撃的精霊術の開発に着手しているのだ。
まず、この場合、呼びかけるべき精霊は火、一択であろう。
僕と相性の好い精霊は火と風になるのだが、一方の風については雪山の活動に不可欠な精霊術【環境維持】で手が放せず、あまり他のことをしてもらう余裕はない。
その点、火の精霊には余裕があり、活動的というか友好的というか……そんな気質も感じられ、頼めばいつでも聞き入れてくれそうな印象を受ける。
敵に襲われ、おそらく慌てふためいている状況で咄嗟に請願できるとしたら火だけだと思う。
目標は、美須磨のように一言の呼び掛けで強力な精霊術を使えるようになることだな。
「火の精霊に我は請う、燃えろ!」
請願に応じて、目の前、胸の高さの空中にバレーボールほどの大きさの火の玉が発生する。
これだけでも、日本の街中で遭遇する野良犬やヤンキーなどであれば怯ませられるだろうし、触れれば大火傷は間違いない。
……が、残念ながら、この雪山では大した武器にはならないはずだ。
何せ、戦場は深い雪に覆われ、仮想敵も常態として雪に塗れているに違いないのだから。
雪……すなわち凍った雨水……ほとんど水場で水を被った相手と戦うのに等しい。
半端な火など一瞬で消されてしまうことだろう。
ついでに言うと、気圧の低さと酸素の薄さにより火が燃えにくいこともマイナス要素となる。
試しに、岩屋の入り口を塞いでいる石壁を開放し、外に積もった雪に火の玉をぶつけてみれば、一塊の雪を解かして水に変える程度の火力しかないことが判明した。
もう一つ、試しに。
「火の精霊に我は請う、触れたものを激しく燃やせ!」
請願は伸びるも、先ほどより多くの雪塊が僅か数秒で解けて沸騰するほどの火炎波だ。
『こっちの方が効きそうだな。ただ、相応に遅いし、あまり遠くまで届かない。動き回っている相手を狙えるかどうか……』
火という状態だけに拘らず、熱そのものや高温蒸気、瞬間的な爆炎、道具を赤熱させたり……思いつく側から試してみれば、多少なりと成果は付いてくる。
しかし、気配もなく潜み、忍び寄ってくる敵に対しては、やはりどれも心許ないところだ。
『いや、ダメだ。できることはあるのだろうが、想像力がまるで追いつかない』
この精霊術という能力は、万能のように見えて、意外と扱いが難しい。
水・火・風・地・光・闇――現時点で確認できている六つの要素で実現できることに限られ、僕の固い頭ではなかなか上手く効果を引き出せないのである。
精霊術については、今日もひとまず保留としよう。
ちなみに、一言の呼び掛けによる発動はまったくできる気がしなかった。





