第十二話: 雪原で採集する男
本来、樹氷とは、極低温下でシャーベット状になった濃霧が地上の樹木などにまとわりつき、そのまま凍りつくことで作り上げられる気象現象を指す。
日本においては冬の観光地として名高い蔵王の樹氷林が見事なことで知られる。
しかし、この山の樹氷――遠間からの印象でそう呼んでしまっていたソレは、近付いてみれば、どうも随分と実態の異なるものであったらしい。
いずれも樹高はほぼ一定していて僕の背丈を超える程度、手を伸ばせば幹の頂点に届きそうな、およそ二・五メートルといったところか。
葉はまったく付いておらず、もちろん言うまでもなく花や蕾も見当たらない。
樹皮は瑞々しい色を保っているので枯れ木でないようだ……ここまではいいだろう。
おかしな点はただ一つ。
樹木が霜をまとったとか氷雪を被ったとか、そんな生易しい表現ではなく、どこをどう見ても完全な氷漬け! 【氷樹】としか呼びようがない状態で雪上へ突き出されているのだ。
根は積雪の底にある地面に張られているのだろうが、一部は雪の中にまで伸ばされていた。
『まさか根っこから枝の先まで分厚い氷に覆われた不思議植物とはねぇ』
雪原のあちこちに生えていたのも、おそらくはすべて同種の樹木だったのだろう。
初日に彷徨っていたときは気に留める余裕もなかった……いや、冷静になって考えてみたら、森林限界を遙かに超えているであろう、こんな高地に生えているだけで相当おかしい樹なのだ。何故、気にしなかったのかというレベルの話だ。
ともあれ、気になるのは、これが材木として利用可能かどうかだ。
そう、僕らの生活拠点はそれなりに調ってきたものの、木材の無さが悩みの種となっている。
いくら自在に形を変えられるとは言え、重すぎ硬すぎの石器だけではどうにも融通が利かない。
この樹氷……もとい氷樹の調査は、元より今回の主目的の一つだった。
『こんなんでも樹には違いないだろうしな』
手始めに、スコップでざっくりと周りを探るも、出てくるのは雪ばかりである。
詳しい調査は先ほど目を付けた氷樹林の方ですればいいか。さっさと向かうとしよう。
歩くこと暫し、疎らに十四五本ほどの氷樹が立ち並ぶ林のような一角へと辿り着く。
と、こちらの気配に驚いたのか、一本の樹の陰から小さな生き物が飛び出した。
速い! 姿をまともに捉える暇さえ与えず、それは雪の中へ飛び込み、一瞬で消えてしまう。
終始、音も立てず、たまたま視界の端に入っていなければ、まるで気付けなかったはずだ。
体長は二十……三十センチくらいはあったろうか。雪と同じ白色。先入観に囚われているのを承知で印象を言うなら、ネズミ、ウサギ、テン辺りが近いかと思う。
『何にせよ、ようやく生きている動物を確認できたのは大きいな。弓矢……は難しいとしても、仕掛け罠でもあれば捕まえられるかもしれない。帰ったら美須磨と相談してみよう』
懸念だった食糧問題にも、これで少しは希望が見えてきた。
ヘタすると怪物相手に一戦交える羽目になりそうだ……なんて内心ビクビクしていたところ。
どんな生き物であれ、命懸けで巨大グマを狩るよりはずっとマシなはずである、よしよし。
気を取り直し、辺りの調査に移る。
残念ながら、さっきの生き物がいた痕跡は何も見つけることができなかった。
雪上には足跡も残されておらず、例によって周囲を少しばかりスコップで掘り起こしてみても、巣穴や通路らしき空洞に当たることすらない。
結局、倒木や落ちた枝の一つも出てこなかったので徒労感が甚だしい。
『まぁ、仕方あるまい。些か手間になるが、こうなったら立ち木の枝を切るしか』
……と考えつつ、顔を上げたそのときだ。林の奥のそれらが僕の目に飛び込んできたのは。
まるで他の氷樹を傅かせるようにして並び立つ見事な枝振りの二本に、大きな実が生っている。
もちろん、ただの果実などではありえない。
太い枝からぶら下がる丸々とした実は、言うならば氷漬けのマンゴーかココヤシか。
厚氷で覆われていることを差し引いても青っぽい色……にも拘わらず、重みとサイズは今にも地に落ちそうで、おそらくは熟した状態なのだろうと見当が付く。
『実まで氷漬けなのか!? ホント、どうなってるのやら……てか、考えるのは後だ』
期待していなかった奇貨を前に、じわじわ高まってくる昂奮を抑えつつ、収穫に移る。
胸元の鞘からサバイバルナイフを抜き放ち、氷樹の枝に付いたまん丸い果実の軸を切る。
片手にずっしり来る重さ、全部で三つ生っているのを残さず持ち帰らせてもらうこととする。
背中の簡易バックパックを雪上に下ろし、それら三つを並べて包んだ。
そのまま、ついでに周囲の樹の方へ向かい、太さを問わず適当に枝を選んで払っていく。
水の精霊術によって表面の分厚い氷を解かした後、剥き出しの枝に斧のようなスコップ側面をガツガツと叩きつけ……一本、また一本と、持ち帰れそうなくらい落とす。
氷の中に収められていた氷樹の本体は、僕の知っている木材で言うとコルクに似ていた。
想像と期待は大きく裏切られたが、これはこれでなかなか使い勝手が良さそうだ。
落とした枝も残らず拾い集め、果実を収めたバックパックの上にまとめて括りつけてやれば、それを負う僕は二宮金次郎の像を彷彿とさせるシルエット……本も読めない身の上だけども。
――ごろっ。
そうこうしているうち、ポケットの中で石球が崩れた。
拠点出発から二時間経過の合図である。
果実と樹枝だけで結構な大荷物になってしまったが、しっかり背負い直してみると重量の方は思ったほどではなく、これなら空荷とさほど変わらず行動できるだろう。
まだ各精霊は機嫌よく働いてくれており、ぐずりそうな感覚も伝わってはこない。
とは言え、何が起こるか分からない状況で活動限界ギリギリを攻める必要もあるまい。
時間的にも予定通り。いくつか収穫はあったし、初めての探索はここまでとしよう。
林を出たところで降りしきる雪と立ちこめる靄に捲かれ、束の間、帰る方向を見失いかけるも、よくよく目を凝らせば雪煙の合間に見紛いようもない巨壁の影を確認できた。
後は、来たときとは逆、右手に岩壁を臨みながら進むだけで拠点の洞穴に着くはずである。
安心感から自然と軽くなる足取りに、『いやいや、帰るまでが遠足だって言うだろう』と気を引き締め直し、しばらくすると歩を進めるペースがまた速まっていることに気付く。
『なぁに、ここまで来たら拠点までは走ってものの数分足らずなんだ。変に緊張しているよりも、少しくらい弛んでいた方が逆に――』
――ザシャッ! ……どさっ。
風の音を切り裂く、突然の異音にビクッと身を大きく跳ねさせてしまう。
視界の端、音が聞こえた方へと慌てて振り向けば、雪原の二三十メートルほどは向こうか? 大きな岩の上に載っていた石塊か何かが転がり落ちた音だったようだ。
『いかんいかん、今のは我ながらびびりすぎじゃなかったか? 冷静になってみると恥ずかしい。あー、美須磨が一緒のときじゃなくてよかったよ』
一瞬、何か大きな獣でも襲い掛かってきたのかと思い、大袈裟に身構えてしまったのである。
どうにも居たたまれない気持ちを胸に、更に一層、僕は歩を早めるのだった。
――……るるるぅ……ぃぃー……。
聞きようによっては笛の音のような、どこか奇妙な風の音を聞きながら。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「おかえりなさい。お怪我はありませんか?」
地の精霊に頼み込んで作ってもらった不格好な石段を登り、洞穴のある岩棚まで辿り着くと、まるで自動ドアのように目の前の岩壁が開け放たれた。
驚きながらくぐり抜けた僕を出迎えたその声は、言うまでもなく美須磨のものである。
「ただいま。まさか、ずっと待っていてくれたのかい……って、上に出てきて大丈夫なのか!? 苦しくはないか? ひょっとして何かあったんじゃ――」
精霊術【環境維持】は火と風の精霊術であり、美須磨はあまり得意ではないはずだ。
彼女一人で生活拠点の地下玄室を離れては危険だと思うのだが、何故ここに? もしかすると避難せざるを得ない事故でもあったのでは? 見たところ、特に変わった様子はない、か?
「慌てすぎです、先生。こちらには何も異常はありません」
「……そ、そうか、あまり驚かさないでくれ。でも、それならどうして?」
「たまたま火と風の精霊にお願いを聞いていただけたものですから、その習練も兼ねて、此処で先生のお帰りを待っていたところだったんですけれど……」
「ほお、流石だな!」
「いえ、結果としては、まだとても実用に足るものではなさそうです。一時間弱で早くも効果が切れてしまいそうですし、この岩屋の中にいてさえ寒さと息苦しさが感じられる程度では怖くて表には出られません。……それよりも先生、たくさんの収穫があったようですね」
「ああ、詳しいことは下で話すよ」
この場でいろいろと自慢したくなる子どもじみた衝動を努めて抑え、岩屋の奥へ向かう。
「くすっ、楽しみにしています。何より、無事に帰ってきてくださって本当に安心しました」





