第十一話: いざ脱引きこもり ~実践~
巨大グマの死体を解体してから早数日。
その間、特に大きな出来事もなく、僕らは生活拠点の整備と物資の補充に時間を費やしてきた。
解体作業についても、なんとか無事に全行程を終えている。
実を言うと、毛皮は綺麗に剥ぎ取ることができなかったのだが、丈夫な骨、爪や牙、ついでに食べきれないほど大量の肉が手に入った。
不格好な端布のようになってしまった毛皮は、大半を防寒具として加工済み。手触りが好く、撥水性が高い、上質な毛皮なので残りもマットやタオル・毛布などとして余さず利用している。
肉については、三分の一程度をそのまま冷凍、残りは干し肉にしてみた。
以前に話した洞窟内の鉱脈より塩が見つかったためである。
調味料と言えば、美須磨がバッグの中に少しばかり所持しており、塩もありはする。
しかし、人が生きるに当たって塩分の摂取は絶対に欠かせない。
必要な量を現地調達できるとなれば心強い限りだ。
その岩塩を惜しまずたっぷりと使ってクマ肉を漬け込み、精霊術も併用して水分を抜き取った。
『え? 味? あー、クマ肉の味は……まぁ、干し肉だったら、どうにか食える……かなぁ? 未加工だと煮ても焼いても食えな……くもないが、好き好んで食べたくはない。何と言うか――』
臭いのだ! とてつもなく!
ジビエだとか、独特の強い癖だとか、そんなレベルに留まらないほど、普通に臭いのだ!
……やっぱり血抜きが上手くいかなかった? それとも、死後、時間が経ってたせいか?
美須磨は「贅沢は敵です」などと言いながら涼しい顔で食べており、僕も見倣いたいと思うが、ちょっと真似できそうにない。
鼻を摘み、息を止め、咀嚼もそこそこに呑み込んだら即座に岩塩を舐める。
そこまでしてなお数分は吐き気に身悶える羽目になるのだから、もはや劇物の類である。
とは言え、携帯食料などは疾うに底を突き、確かに選り好みできる状況ではない。
「それじゃ行ってくるよ」
全身の防寒具の上にクマの毛皮を重ね、レジャーシートと端布から作った簡易バックパックを風呂敷包みのように背負い、僕は美須磨へ声を掛ける。
「くれぐれもお気を付けて……あの、白埜先生」
「ん、なんだい?」
「やはり私も連れていってはいただけませんか?」
「どうあっても二人分の防寒具には足りないと結論はもう出たじゃないか。一緒に行くとしたら、一時間も活動できなくなってしまう」
「それでも、何があるか分からないのです。せめてしばらくは二人一組で行動すべきかと」
「君の心配は理解できるし、有り難くもあるが、ここはどうか任せてほしい」
「……絶対に無茶をなさらないでくださいね」
「ははは、僕はそんな柄じゃないよ」
相性的に火と風の精霊を苦手とする美須磨には、まだ【環境維持】が上手く使いこなせない。
何かあるとしたら、それこそ危険にさらすわけにはいかないだろう。
彼女一人、生活拠点の玄室に残し、岩屋へと続く長い洞窟を行く。
ずっと視線が背に突き刺さっているような感覚を努めて意識外に追い出しながら。
今日、これから、僕は洞穴の外――雪原の探索に挑むのだ。
先日、加工した巨大グマの毛皮を調べた結果、毛と毛の間に熱や空気を保辞する性質が判明し、ここでの屋外活動に必要な最大のピースが埋められることとなった。
実際にこれを身にまとった上で精霊術【環境維持(個人用)】を試してみれば、洞穴の外でも何ら危うげなく、数時間に亘る行動が可能だという確証が得られたのである。
ただし、先述の通り、使える毛皮は二人分に足りない。
実を言うと、【環境維持(個人用)】も一人だけに掛けた方が効果や持続時間は著しく増す。
こういった事情が先ほどのやり取りへと繋がっているわけだ。
『だが、仕方ないだろう。食糧があの臭すぎるクマ肉しかなく、量さえ無尽蔵ではないとなれば、その補充は急務。いつまでも拠点に引きこもりっぱなしというわけにもいかないのだし』
脳内に浮かぶ美須磨の貌に向かって言い訳しているうちに洞穴の入り口へと到着した。
「地の精霊に我は請う、すまないけど、下まで石段を作ってもらえないかな」
僕の声に応じ、しぶしぶといった雰囲気を漂わせながら、ほとんど天然の下り坂と変わらない大雑把な作りの石段?が出現する。
『くっ、美須磨には何も言わなくても立派な石段を作ってやるくせに……』
足下に注意しながらおそるおそる坂を下り、雪原へと降り立った。
なんとなし、背後にそびえる断崖絶壁を見上げ――。
『おっと、落下物に注意しなければ! あのクマの二の舞は御免だぞ』
初日に見舞われた小雪崩と巨大グマの頭の側に転がっていた岩を思い出し、ヒヤリとしながら岩壁を離れていく。安全確認ヨシ! そうして改めて前に向き直って遠くを見渡す。
取り立てて、気になるような物は見当たらない。
ひとまず、迷子にならないよう岩壁伝いに行けるだけ歩いていってみるとしよう。
特に理由もなく、無意識に左手方向へ進路を取り、僕はゆっくりと歩き始めた。
雪原に積もった雪は非常に厚く、どこを掘ろうと軽く数メートルは地面が見えてこない。
僅か数センチほどの表層を除き、疾うにアイスバーンとなってガチガチに凍りついているため、僕としては雪原と言うよりは氷原と呼ぶべき状態に思えてしまう。
気温が低すぎるせいで表面はツルツルというよりザラザラしており、スケートリンクのように立っていられないほどではないものの、柔らかい雪と凍った雪との間で滑りやすいことは確か、凹凸のしっかりした登山ブーツの靴底であっても慎重な足取りが――。
『……っと! ほら、転びそうになった。これは、やっぱり寒冷地用の履き物が要るよな』
――パタパタ。いきなり雪が降り始めた。下ばかり向いていたことを非難されているかのよう。
相変わらず風が強く、まとわりついてくる雪でますます歩きにくくなってきた。
つくづく思う。
とても人が暮らしていけそうな場所ではないなぁ、と。
神にチートを与えられ、どうにか今のところは生きている。
たまたま寝泊まりができそうな拠点が見つかり、外でも活動可能になった。
それでもなお、次から次へとクリアしなければならない課題がのし掛かってくる。
達成できなければ、待つのは死あるのみ、か……?
もしも自分一人であったら、今すぐにでも自棄になって下山を強行しているところだ。
が、美須磨がいる。
あの未来ある少女を安全確実に人のいる場所まで送り届けなければならない。
できるならばこの世界の文明圏まで。
どうすればいいのか、何が必要なのか、そんなことは未だに全く以て分からない。
できることをどれだけきつかろうが一つ一つクリアしていくしかないだろう。
『さしあたっては食糧なんだよな。あの子にいつまでもクマ肉を食わせていられるか!』
行けども行けども、左手に見える岩壁が途切れる様子はない。
右手の景色もろくに変わらず、あまり起伏のない平らな雪原がここまでずっと広がっていた。
時折、遠くに樹氷林や岩場などが見えるくらいで、山腹だというのになだらかで広大なこと、改めてよくよく考えてみれば、今いる山の大きさをようやく少しずつ実感できてくる。
元より遠くに見えると思っていた他の山々の嶺も、遠近感が狂っているだけで、思った以上に遠くにそびえている、想像を遙かに超えた極大スケールのものなのかもしれない。
側らに変わらず切り立つ垂直の岩壁が、山の頂なのかはともかく、きっとこれは途切れない、そして絶対に超えられない。そんな気さえしてきた。
――ごろっ。
と、コートのポケットに入れておいた石ころが、唐突に崩れる。
何かと言えば、出発時に作っておいた石の玉だ。
これは、およそ一時間前後で崩れるように出来ており、時間を知る術のない現状でタイマーや時計の代わりになればと考えたものである。
実は、そうしてほしいと願って作る物ではなく、僕が使う地の精霊術では自然とこれくらいの持続時間になるというだけの話なのだが……。
つまり、現時点を以て出発から約一時間が経過したことになる。
火と風の精霊術【環境維持(個人用)】の持続時間はざっと四五時間となっている。
帰途を考えれば、往路に掛けられる時間は最長でその半分まで――せいぜい二時間強だろう。
少なくとも石の玉が二回壊れる前には引き返すのが賢明だ。
ポケットの中で散らばっている砂礫を再び一つの丸い玉へと固めつつ思考する。
ここいらで移動するのは止めて、辺りの探索へ切り替えてみようか。
そんな風に思いながら目を向けた先に、ちょうど手頃な規模の樹氷林を見つけた。





