第一話: とある学舎、恋に落ちた男
恋は素晴らしい。
人類が言語という能力を得て以来、どれだけ同様の言葉が発せられてきたのだろうか。
現実だけに留まらず創作の中でも月並みな、それでもなお流行り廃りの影響を受けることなく依然として使われ続けている不朽のフレーズ……。
もちろん、誰しもが無邪気に恋愛というものを賛美するわけではなかろう。
ときに人を狂わせ、風紀を乱すなどとして忌避する向きもあるはずだ。
対象を選ばない愛こそが純粋であり、恋は肉欲に過ぎないとする高尚な論説さえ耳にする。
しかし、それらでさえ恋が無視できないほど強い感情であることを否定しない。
ならば、やはり多くの人々にとって、とりわけ恋の只中にいる人々にとって、それはまさしく素晴らしいものと言ってしまってよいのかも知れない。
とは言え、僕はまさか自分がそれを実感することになるとは想像だにしていなかった。
ひょっとすると、物心もつかぬ幼少期になら淡い憧れを懐いたことくらいはあったやも?
だが、記憶にある限りでは、気になる女子への拙いアプローチや、似合わないオシャレで街に繰り出すというような思春期の男子にありがちな行動へ走ったりはせず、結果として、さしたる縁も得られなかった僕の胸にその感情が宿ることはなかった。
残念ながら、見知らぬ誰かから愛の告白を受けるようなイケてる人種でもないし……くっ。
そもそも僕は人間が苦手だ。
本質的に、いわゆるコミュ障というやつなのだろう。
人間嫌いや孤独好きを気取るわけではなく、表面上の人付き合い自体はさほど苦にならないが、一定のラインを越えて積極的に、頻繁に、深く誰かと係わりたいかと問われれば、角を立てずに断れる理由がないかと探し始めてしまうし、そうすべき必要もなく自分から踏み込めもしない。
いわんや、その相手が異性であれば尚更のこと。
性別を問わず友人知人は多くても、親友と呼べる相手はごく僅か、恋人ができたことはない。
きっと自分は一生このまま行くのだろうな……と、特に悲観するでもなく思っていた。
彼女に出逢うまでは。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「本日より皆さんと同じ学舎にてご一緒することとなりました、美須磨月子と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
手続きや転入試験に訪れた姿を目撃でもされたのか、数日も前から噂となり、今日に至っては朝から生徒・教師の別なく全校中の話題をさらっていた転校生の少女は、クラスメイトたち――呼吸することすら忘れたかのように丸く口を開け、まばたきもせず両の眼を見開いたまま一様に固まっているその一人一人をゆっくり見渡した後、短くそう挨拶した。
背に長くまっすぐ垂らされた繊細優美な黒髪。
細い三つ編みでハーフアップにまとめられているが、その後ろ髪の先端と額にかかった前髪はキッチリ水平に切り揃えられ、俗に言うお姫様カットとなっている。
化粧っけはまるで感じさせず、学生としては正しい姿なれど、今時の女子校生を基準にすれば、たとえ校内であっても地味と評されかねないファッションに思えてしまう。
手違いで用意が間に合わなかったのか、有名な私立進学校のブレザーをそのまま着用しており、一流デザイナーの手による本校の制服と比べれば、これも少々やぼったい印象を与えるはずだ。
尤も、それはあくまで通常であればの話。
朝礼の開始と共に、扉を静かに開いて教室へ入ってきた彼女を目にしたクラス一同は、そんな装飾の貧弱さを意識する間もなく、皆一斉に息を呑んだ。
『絶世の美貌』という言葉を視覚化させたらこうなったと言わんばかりの理想的造形。
黒目がちの大きな目は、やや吊り上がっているにも拘わらずキツさや威圧感など受けない。
小さい割りに意外と高い鼻は、それでも顔全体のバランスを崩さず、むしろ整えているようだ。
極めつけ、自然な微笑みを形作る、薄い薔薇色の唇に心が惹きつけられる。
いや、顔だけではなかった。
背は低からず高からず、すらりと細いスレンダーな体付き。……が、まぁ、なんだ。けっこうメリハリはある様子。しかし、洗練された立ち居振る舞いと相まってエロスなどよりも先にただひたすら『綺麗』という印象だけが残される。
柔らかそうな、淡い黄白色の艶やかな肌には、指の先まで黒子ひとつ染みひとつ無い。
そして発せられる、空気を震わさず直接頭の中に響いてくるかの如き玲瓏たるクリアボイス。
そろそろ衝撃から立ち直り、質問や歓声の一つでも上がるのではないかという間が置かれても、僕を含めたクラス全員、まだ呆然と彼女に見惚れており、誰ひとり新たな反応を起こさずにいた。
「あー、それじゃ、みんな親切にしてあげるように。美須磨、そこの空いている席に着いてくれ」
「はい、先生」
『止まった時間の中、たった一人だけ自由に動くことを許された妖精の女王か何かかな?』
昔の詩人でも詠わなそうなことを大袈裟とすら思わず、何となし思い浮かべてしまう。
が、まさしくそんな感じ、彼女は周りの雰囲気を訝しむ様子も見せずマイペースに指定された席へと向かい、机の上に鞄を置くと、片手でスカートを整えながら静かに腰を下ろす。
音も立てず引かれた椅子が、最後に軽くことんと脚を鳴らした瞬間、ようやく空気が弛んだ。
それでもなお固唾を呑むような緊張感に包まれ、そのまま始まったホームルームの伝達事項をちゃんと聞いているのかいないのか、皆が皆、そわそわとして落ち着かない。
私語をする者こそいないが、比較的大胆な幾人かは繰り返し、そうでない者も控えめながら、先ほど埋められたばかりの席の方へちらっちらっと視線を向けていく。
やがてホームルームを終え、誰が最初に動くのか牽制し合ってでもいそうな物々しさが漂う中、面倒見の良い学級委員長が席を立ち、転校生に声を掛けたのを確認したところで僕は教室を出た。
いつも通り、落ち着きのある態度は取れていたと思うが、挙動不審ではなかったろうか?
内側から胸が破裂してしまいそうなほど激しく鼓動を打ち続ける心の臓……。
朝、彼女に挨拶されてからずっとこうだ。
気を抜けば、目は絶えずその姿を追おうとし、口は益体もないことを吐き出しかける。
柄でもなく踊り出しそうなほど高いテンションを抑えつけるために、過去に覚えがないほどの労力を掛けられていた。
自分自身の心と体だというのに、まるで制御できそうにない。
何事に対しても淡泊なつもりでいた僕が、生まれて初めて強い情動に支配されている。
『あぁ、これが噂に聞くアレか? アレなのか?』
その方面の経験がまったくない僕でも、流石にここまでくれば自覚する他ない。
これは恋だ。
どうやら僕は、恋に落ちた……らしい。
おいおい、何考えてるんだ。高嶺の花にも程があるだろう。身の程をわきまえろ。って言うか、僕は面食いだったのだろうか。一目惚れって……お前……。しかも女子高生とか……、いろいろありえなさすぎて自分で自分に呆れる。は? 恋? アホか、そんなこと他人に知られるだけで身の破滅だぞ。ちゃんと分かってるんだろうな?
そう、もちろん分かっている。この感情は何があろうと絶対に表に出してはならない、と。
これといった取り得はなく、性格は悪人ではないが善人というほどでもない普通、容姿なんて特徴的な団子鼻のお蔭でどう贔屓目に言っても中の下といったところ。家柄や生まれに至っては自己紹介で述べることすら些か以上の勇気がいる。
いや、そうじゃないだろう。僕と彼女の釣り合いだとか、恋が成就する可能性がゼロだとか、そんなことさえ極めて些細な問題でしかないのだ。
何故ならば、僕こと白埜松悟は、この名門私立女学園高等部の男性教師(三十代独身)であり、年甲斐もなく惚れてしまった相手はあろうことか担任クラスの生徒なのだから。
これでもご父兄の皆様方や学園内外の関係各所すべての信頼を背負い雇用されている立場だ。
生徒をそのような対象として見て良いはずがないし、密かに内心で想うだけであったとしてもうっかり特別扱いすることに繋がりかねない。
うん、考えれば考えるほどありえないな。
そもそも、あまりにも綺麗な少女を目にした感動を、恋などと勘違いしている可能性はないか?
たとえば、もしも国民的アイドルが突然目の前に現れたりしたら、誰であっても今の僕と似た精神状態に陥るんじゃなかろうか。その人物の老若男女を問わず。
そうだ、しばらく時間が経ち、その存在に慣れていけば次第に落ち着いていくはず。
良くも悪くも目立ってしまい、何かと特別扱いされがちな転校生というレッテルが剥がされる頃になれば、僕も教師として彼女のことを等しく可愛い大勢の教え子たちの中の一人だと正常に認識し、妙な意識をせず振る舞えるようになるに違いない。
この時期――二年生の二学期初めに転校してきた美須磨月子と接する時間は、残り一年半程度。
これまで問題なく三十年以上生きてきて、既に人生折り返しに入った僕にとっては、それこそあっという間に過ぎていく時間のはずである。
教師生活も十年超。裕福な家庭の子女ばかりが通う本校は、名家として知られる家のご令嬢も少なくなく、家柄と容姿のレベルが必ず正比例するとは限らないにしても、見目麗しい美少女はそれなりの割合で在籍し、そんな環境で一度たりとも心乱されず教師を勤め上げてきたのだ。
……て言うか、僕はロリコンじゃない。信じてほしい。僕はロリコンじゃない。
誰に対して、何に対してなのかも定かでなくなってきた弁明を頭の中でしつつ、一向に治まる気配のない激しい動悸を僕は持て余すのだった。
美須磨の発音は“何時か”や“静か”と一緒です。
“み\すま”の“み”にアクセントですね。
あ、白埜はどうでも良いです。お好きなように呼んでやってください。