第十話: 巨大グマと戦う二人
――ピっピっ♪ ピっピっ♪
ホイッスルの音に合わせ、巨大な氷塊が一段一段、ゆっくりと石段を登っていく。
内部に巨大グマの死骸を収めているその氷塊は、岩石製の御輿の上に強靱なワイヤーロープで括りつけられており、総重量は相当なものとなっているであろう。
そんな物体を運ぶのは、美須磨の精霊術によって御輿本体の左右に生やされた三対六本の脚と、前後左右に取り付いて持ち手を担ぐ無数の土人形たちだった。
「ああ、美須磨、ストップ! ちょっと右に傾いてきてる」
――ピピ~♪ ピっ♪
「こちらですか、先生?」
「そうそう、もうちょい……よし! OK!」
石段を整えながら御輿を先導する美須磨に対し、僕は後ろから全体のバランスを見守る係だ。
土人形が足を踏み外したり、氷塊が落ちたりすれば大変なので、これでなかなか気は抜けない。
ああ、言うまでもないだろうが、ホイッスルを吹いているのは僕ではなく美須磨である。
「あと、念のため、後ろをもう少し持ち上げられるかな。何かあったら滑り落ちそうだ」
「分かりました……これくらいでは?」
「うん、いいね」
――ピピ~♪ ピっピっ♪ ピっピっ♪
御輿の脚を太くしたり、土人形の配置や大きさを変えたりしつつ慎重に慎重に……。
そこそこ長い時間を掛け、御輿を無事に洞穴の中まで辿り着かせることに成功したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
念のため、洞穴の入り口は塞ぎ、部屋モードで精霊術【環境維持】を実施した。
固定の明かりを灯し、巨大グマの解体はこの岩屋内で行うこととする。
「そう言えば、君は獣の解体もできたりするのかい?」
「くすっ、流石に経験はありません」
「それはそうか」
「ただ、以前にイノシシの解体を見学させていただいたことがありますので、おそらく、やればできるのではないかと思います」
「ああ、学園の守衛で毎年催してたアレか。生徒はあまり参加しないんだけどな」
「そうみたいですね。とても勉強になりましたけれど」
都市郊外の山を一つ、そのままキャンパスとしていた学園では、毎年秋頃になると野生動物が迷い込まないよう緑地の見回りを強化し、ときには駆除も行っていた。
担当していたのは守衛、狩猟免許を持つ一部教職員、そして附属大学狩猟サークルの面々だ。
彼らが仕留めた獲物の肉は、しばしば希望者に振る舞われ、申し出れば一般の生徒であっても解体現場から見学させてもらうことができたのである。
まぁ、お嬢様たちには不人気な催しで、希望者がいたという話は終ぞ耳にしなかったが。
「だったら、まずは手順の確認かな。お互いの知識を擦り合わせていくとしよう」
「はい」
「一.解凍。当然、精霊術で解かす」
「中まで完全に凍っていそうですし、水の精霊ではなく火の精霊にお願いするべきでしょうか」
「ああ、表面だけは水の精霊術で一気に、内部は火の精霊術で低温の自然解凍に近付けたい」
食用の肉や脂には余分な熱を与えない……という鉄則からすると水の精霊術に頼りたくなる。
しかし、未処理の内臓・血管の中までまとめて液化して流してしまうわけにもいくまい。
全体の温度を均一に保ちつつ、氷点から少しずつ加熱していくのがいいだろう。
「次は血抜きですね?」と確認してくる美須磨に頷きを返す。
「二.血抜き。これが上手くできるかで食肉の出来は決まるらしい。なるべく妥協せずやろう」
「水の精霊術でしたら十分な血抜きができるのではないかと思います」
聞くところによると、クマの血抜きはなかなか難しいそうだ。
元々の体温が高く、よく暴れるため、全身に血が回ってしまいやすいのだとか。
『この点に関しては精霊術さまさまだな。美須磨なら、その気になれば毛細血管の中まで綺麗にしてくれるんじゃないか。願わくば、食べられる味に仕上がりますように、と』
「そう言えば、抜いた血の処理が問題だな。使い道も思いつかない。どうしたものか」
「表に捨てるというわけには参りませんし」
「適当に撒いたり埋めたりして他の獣が集まってきたら困るからなぁ」
「川でもあれば……いえ、そんな環境ではないのでした。ひとまず凍らせておきましょう」
「あ、下に持っていって風呂場から流せば――」
「絶対に止めてくださいね」
「う、うん、すまない」
軽く睨まれてしまった。
確かに、風呂場を不衛生にしかねない所業は避けるべきかな。
そのうち谷底にでも捨ててくるとしよう。
「さて、ここまで手際よくできれば一段落……いや、ある意味ではここからが本番かな」
「ええ、私もこの先が難関になるかと存じます」
「三.血や汚れをよく洗い流して内臓を抜く。状況を見ながら君に道具を作ってもらわないと。どんな物が必要になるのか、まだちょっと想像が付かないけれども」
切る部位に合わせた様々な形状のナイフを使うんだが、さすがに覚えていないしな。
周りを傷つけないように内臓を一つずつ取り分けていくということくらいしか分からない。
もしもこれで失敗してしまうと、汚物塗れになった挙げ句、肉も皮もすべてが台無しになってしまうそうなので、よくよく気を引きしめて当たらなければ。
「四.皮剥。僕としては毛皮が一番の目当てなんだが、これが素人には難しそうなんだ」
「この辺りになると、もう経験を頼みに切っていくだけですものね」
「そうなんだよ。残りは全部そうなる」
「五以降は、頭を落として、四肢を切り離し、骨を分ける……でよろしいでしょうか?」
「ああ、要するに、内臓まで抜いたら後は皮と肉と骨をとにかく丁寧に切り分けていけばいい。幸い、精霊術のお蔭で、肉に血が回ったり熱が通ったりすることを心配せず、いくらでも時間を掛けられる。焦らずじっくりやるとしよう』
「はい、大まかな流れは理解しました」
よし、それじゃ実践開始だ。
――そこからは、まさに悪戦苦闘であった。
まず、氷漬けのクマを解凍し始めた途端、凄まじい獣臭に襲われる。
単なる不快感だけでなく、それは己が生物のなれの果てなのだと否応なしに突きつけてくる。
謝意、畏怖、嫌悪……様々な感情が入り交じった心理的な抵抗感は思いの外、強い。
解凍が進んできたところで遺体を逆さ吊りにする。
その巨体に見合った超重量、本来であれば、僕ら二人掛かりでも動かすことすら叶わない。
しかし、ここまでの運搬でも活躍していたように、地の精霊術には重さをものともせぬ剛力があるらしく、ゆっくり岩を隆起させることで逆さ磔の様相が出来上がった。
「それじゃ、やるぞ!」と覚悟を決め、頸動脈にナイフを入れ、血を抜き始める。
生前の姿を留める肉に刃を突き立てる嫌な感触。更に強まる獣臭に、強烈な血生臭さと死臭が加わり……極めつけ、細かな血飛沫が噴き上がって霧さながらに岩屋内へ立ちこめていく。
「うわっ! 風の……いや、水だ! 水!」
「水の精霊に我は請う――」
あっという間に血痕だらけのコートについてはひとまず措いておき、慌てて精霊術で対処する。
大量の水が落ちることなく空中を流れ続け、シャボン玉を思わせる薄い膜状を成す。
僕らそれぞれの身を覆う水の壁、以降の作業は、その中から両手だけを外に突き出して行う。
クマの血は美須磨が水の精霊術によって操作しており、勢いよくどばどばと溢れ出してくる。
それが、あらかじめ床に掘っておいた窪みに溜まったところで僕は火の精霊術によって瞬時に熱を奪い、カチカチのブロック状に凍結させては岩屋の隅へと積み上げていった。
さほど時間は掛からず、ほどなく血抜きは完了する。
次はいよいよ内臓の処理だ。
サバイバルナイフで腹を縦一文字に切り裂き、そこに手を突っ込み……。
『いや、これについてはあまり詳細に語らないでおこう。聞きたい人もあまりいないだろう? 結果だけを見れば、素人にしてはなかなか上手くできたんじゃないかな』
ちなみに、クマの胆嚢などが古来より薬として珍重されてきた……という知識は僕にもある。
とは言え、製法や効能までは知らないので、血液と同様、内臓もすべて廃棄することに決めた。
『って言うか、これらの部位を利用しようとか食べようとか考えた先人の勇気には、畏敬の念を禁じ得ないです。いや、もうね、マジ無理だから。泣きそうになる』
それはさておき、この岩室の外は、天然の冷凍庫と呼ぶのも生温い極限環境である。
そんなところで死亡直後から急速冷凍されていた遺体は、まだ腐敗の兆候も見て取れない。
肉付きのよさを見る限り、かなり健康的なクマだったんじゃなかろうか。
どうでもいいかもしれないが、性別は雄(♂)だ。
事前に考えていた通り、血抜きと内臓の切り分けまで終わってしまえば作業は山場を越える。
「んっ、設備や道具がないと、これほど大変なのですね」
「こんな大きなクマじゃ、知識もほとんど役に立たなかったしな」
冷水であちこちを洗浄しながら一息吐く。
と、クマ肉を洗っていた美須磨がこちらへ振り返った。
「水の精霊がぐずっているようです。ちょうどいい頃合いですから、一旦、休憩にしませんか?」
「ああ、だったら風の精霊も休ませてやった方がよさそうだ」
今日は水の精霊によく働いてもらった。
そのため、ぼつぼつ相性のいい美須磨であっても頼みを聞き渋られるようになってきている。
いつでも空調に大活躍な風の精霊に関しては言わずもがな。
「地の精霊に我は請う――」
美須磨の綺麗な声が、洞穴の入り口を塞いでいた岩を開け放つ。
「風の精霊に我は請う、岩屋の中の空気は大空高くへと吹き上がれ。同時に外から新鮮な空気を取り込んで集めてくれ。疲れてるとこ、悪いね。そこをなんとか」
続いて、ごちゃごちゃした僕の請願により、中から外へ、外から中へ、強く強く風が吹く。
ふと外の景色が目に入った。
ずっと分厚く空を覆っていたはずの黒雲に隙間が空き、細く陽光が射し込んでいたのだ。
「おお、天使の梯子……か」
「素敵な光景ですね。これが異世界で初めて見る日の光だと思うと、感動も一入です」
それは微かなものであり、辺りは相変わらず薄暗い。
だとしても、光に照らされた絶景は、先日、息苦しさを堪えて必死に歩き続けてきた雪原とはまるで違って見えた。
言葉もないまま、僕らは肩を寄せ合い、時間を忘れて外の世界を眺め続けていたのだった。





