第九話: 二人で脱引きこもり ~訓練~
どうやら、美須磨は殊の外、入浴が好きであるらしい。
風呂場を発見した僕らは、十分に警戒しながら順に使わせてもらったのだが……。
彼女のテンションは、思わず『どちら様でしょう?』と尋ねたくなってしまうほどに高まり、風呂から上がった後もずっと鼻歌を口ずさんでいるくらいご機嫌な様子を見せていた。
選曲が流行りのポップスなどではなく、民謡やクラシックだったことに和んだのは余談か。
『いや、考えてみれば、今日? 昨日? ともかくイヴの日に学園を抜け出してから、ほとんど休む間もなく真冬の山道やら狭い路地裏やらを走り回って、挙げ句の果てには異世界の雪山から洞窟探検と来たもんだ。好きであろうとなかろうと風呂が恋しくなるのは無理もない』
かく言う僕も、やはり久しぶりの風呂には魂魄が抜け出るかと思えるほどの心地よさを味わい、その後は二人してぐっすりと睡眠を摂ったのだった。
翌日の朝……ああ、現在の朝昼晩も知れない地中なので、日時は目安程度に思ってほしい。
とにかく、夕べ決めた自室で目覚めた僕は、扉を開け、中央の玄室へと出た。
と、精霊術で揃えた椅子やテーブルが並ぶそこには学園制服姿の美須磨が既に寛いでいた。
ちなみに、僕はネック付きのセーターにスポーツタイツというラフな恰好である。
すかさず、携帯食のクッキーとインスタントの紅茶が用意され、朝食代わりにありがたく頂く。
頭がしゃっきりしたところで今日これからの予定を話し合うこととする。
「まず、あのクマの死体を回収しに行きたいな」
「私はあまり記憶にないのですけれど、洞穴の入り口にいたというお話でしたか?」
「ああ、これが話に聞いたこともないような大グマでね。まだ残っていたらいいんだが……」
「それは有用でしょう。毛皮はもちろん、爪も骨も役立ちそうです。お肉も食べられます」
「え? クマを食べるのかい?」
「食べられないのですか?」
「いや、地球のクマなら食べられるはずだけど、適切に処理できなければ相当不味いと聞くよ。死んでから丸一日以上放置していた異世界の巨大グマとなると……」
僕はこう見えて野獣肉を口にした経験は少なくない……だが、うーむ、アレを食べるのか。
「他に食べる物の宛てがないのですから、お味は二の次、三の次でしょう」
「ほとんど氷漬けだったし、他の動物なんかに囓られてなかったら、まぁ、挑戦してみようか」
「傷んでいなければ好いですね」
見かけによらずワイルドな少女に乾いた笑いを返しつつ、僕は咳払いをして話題を変える。
ひとまずクマの使い道については後で考えるとして、今回の目的は別にあるのだ。
「んっんん、素材回収はさておき、何よりもまず今日は外で活動する訓練をしたいと思うんだ」
「はい、大切なことですね。精霊術でどれほどのことが可能なのか……」
「実地でも試していかなければな!」
一旦、それぞれの部屋に戻り、防寒具をフル装備してから再び玄室へと戻ってくる。
改めて確認しておくと、僕が着ているのは防水製のダウンジャケット、フード付きだ。
インナーからボトムスまでバッチリ高い耐寒仕様のもので固めており、隙はない。
手にはスキー用の厚い手袋、足はごつい登山用ブーツを履いている。
『街暮らしにしては気合いの入った恰好だと驚かれてしまいそうだけど、これは通勤服なんだ。なにせ、僕らの学園は山中にあったから、冬期は教職員にもそれなりの備えが必要になる』
装備を点検しつつ、登山杖の形に折りたたんだスコップを片手で突く。
最後に胸元を見れば、美須磨が裁縫道具で縫い付けてくれた鞘入りのサバイバルナイフがある。
「よし! こっちはOKだ。そっちはどうだい?」
美須磨の方に目をやると、相変わらずとなる家出仕様の耐寒コーデが見て取れた。
上半身は分厚いフード付きのダッフルコート、その内側の首にはいかにも高級そうなふわふわ毛皮の長いマフラーを巻いている。見たところ、手袋はかなり薄そうなものだ。
下半身はレギンスにもこもことした靴下を重ね、本格的なトレッキングシューズを履いていた。
そして、お馴染みのショルダーバッグを肩に掛け……と、手に持つ道具だけがよく分からない。
「これはワイヤーリールです。丈夫ですし、何かと便利なんですよ」
巻き取り式の極細ワイヤーロープといったところかな。
スパイ映画とかに出てきそうな道具だ……って言うか、そんなの実際に販売されていたのか。
「君、やっぱりニンジャなんじゃないのか?」
「くすっ、もう、何を馬鹿なことを仰っているのですか」
どうやら準備は万端なようだ。
ひとまず、精霊術をまったく使用せずに玄室の外へ出てみるとしよう。
僕たちは、夕べ、玄室の中に入ってから精霊術【環境維持】は一切使っていない。
今のところ体調不良は感じられないので、ここから生身での行動範囲を検証したいと思う。
『寒さは肌ですぐに分かるにしても、酸素と気圧の低下だけは気を付けておかないとな』
玄室門をくぐって半卵状の空洞に出てから背後へ振り返る。
そこには昨日から変わらず、全面が剥き出しとなった石壁と小さくぽっかり空いた門がある。
そう言えば、あれから半日も経つのに、精霊術で整えたはずの空洞が元に戻っていないことを疑問に思っていたりはしないだろうか?
実は、これもまた美須磨が使う精霊術、その特殊性の一つになる。
請願をくどくど言葉にせずとも忖度するかのように効果が発揮されるだけでなく、彼女が地と水の精霊に頼んだことは、極めて長く――無期限とも思えるほどに持続するのである。
たとえば、昨晩、寝る前に美須磨がそれぞれの個室にウォーターベッドを作ってくれた。
岩塊とお湯で作られたソレは、朝になっても変わらぬ形を保っている。
玄室に設置しておいたテーブルや椅子などの家具もそうだ。
彼女が火と風も上手く使えたら心強い限りだったろうに……と、それはさておき。
「これだけ玄室の近くなら、行動するのに支障はなさそうですね」
「多少、寒くはあるかな」
「強いて言えば、私は息苦しさの方を感じます。ほんの僅かですけれど」
「そうか、やはり精霊術なしでは危険そうだ。無理せず行こう」
大事を取り、ぼつぼつ手慣れてきた感のある火と風の【環境維持】を僕は請願しようとする。
そのとき、不意に、今まで【環境維持】の基点を空間全体としていたことが気になった。
屋内に留まるのならともかく、この先、あちこち屋外を探索するのに使い勝手が悪いよな?
どうにかして僕ら自身を基点とするような使い方ができないものか。
範囲は狭くても構わない。長時間に亘る運用は難しくなるかもしれない。
だが、別々に動く二人の周りを必要なだけの熱と空気が常に付いてくるような……この世界に来た当初、僕たちの生命を守ってくれていた神の光、あるいは目に見えない宇宙服のイメージだ。
精霊たちからは、相当めんどくさがってそうな気配が漂ってくるが、どうにか宥めすかす。
試行錯誤の末、これが上手く形になる。
『手軽で安心【環境維持(個人用)】……うん、今後はお世話になりそうだ」
さて、少しばかり準備に手間取ってしまったな。
光と闇の精霊術【暗視】も頼み、各種精霊術の護りもすべて完了、いよいよ出発である。
来るときに通った洞窟を逆に辿り、ほんの十分程度でクマの巣穴だった岩屋まで到着した。
行きと比べ、帰りはいちいち調査や換気をする必要はなく、道も分かっているのであっさりだ。
最初の日以来となる洞穴の入り口へ、少しばかり緊張しながら向かう。
外を覗いてみれば、薄暗い曇り空、微かに雪がちらついていた。
足下を見ると、切り立った岩壁ということもあって思っていた以上の高さに感じられる。
「お、よかった、クマはまだ残っているみたいだ。とにかく下りてみよう」
「はい、地の精霊に我は請う――」
美須磨が造り出した立派な石段を使って雪原へと下りていく。
全周に開放された屋外は、岩屋の中と比較してさえ段違いの寒さだった。
風が非常に強いため【環境維持】が不安定になっているのか、そこそこ息苦しさも感じる。
この分では、長時間の探索にはもう一つ二つくらい工夫が必要になりそうだ。
世界の果てとも思える巨大な岩壁を背に、僕たちは再び雪原に降り立った。
眼前には、パッと見ただけでは真っ黒な毛皮だとは分からないほど真っ白な氷漬けとなった、しかし、なおも変わらぬ迫力で威圧してくる巨大グマの死体がある。
「おお、ガチガチに凍っているな。解凍するのは骨が折れそうだ。それにしても、こんな環境で、こいつはどうやって生きてきたのやら……いやいや、余計なことを考えてる暇はないんだった。ひとまず上に積もった雪山をどかしていこう。氷はそのままで」
「それでは私が……水の精霊に我は請う――」
美須磨の声に応じ、巨大グマの後半身にうずたかく積もっていた雪の山がとろとろと解け出し、大量の水となって下方へさらさら流れ始める。
『知ってはいても、見れば見るほど不思議な光景だよなぁ』
雪や氷と交じりもせず雪山の表面を伝って流れる水は、一瞬で液体を凝固させてしまうはずの極寒の風もお構いなしに雪上へ大きな水溜まりを作っていく。
水の精霊術により固体から液体へ状態変化させようと、その温度が変化することはないのだ。
しばらく待つと、小山を成していた雪は消え去り、後にはクマの形をした巨大な氷塊が残った。
「こうして見ると本当に大きいですね。上手に解体できるでしょうか?」
「僕は手伝い経験なら割りとあるんだよ。なんとか頑張ってみよう」
「頼りにさせていただきます」





