第三話: 寝覚めと覚醒
岩壁のやや高い位置にある洞穴の目にした僕は、昂奮のあまり、思わず駆け出そうとするも、流石に身体が付いてきてくれず、一歩二歩と急いて足を進めただけで息を吐いてしまう。
――とさっ……。
その物音に後顧すれば、何があったか美須磨が雪面に倒れ込んでいた。
「美須磨!? 大丈夫か!」
呼吸も忘れ、慌てて傍へと駆け寄る。
抱き起こそうとして跪くと、彼女は「すみません。平気です」と言って自分で身を起こした。
「……はぁはぁ……すみませ……はぁ、はぁ……はぁはぁはぁはぁ……ぃき、です……」
「無理に喋るな。ひぃ、ふぅ……悪い、少し我慢していてくれ」
いや、普段は輝かんばかりの美貌を暗い色彩に染め、激しく呼吸のペースを乱している様子は、とても言葉通りの平気だとは思えない。
僕は、ショルダーバッグを拾い上げて自分の肩に掛けた後、彼女の腕を取り、もう一方の肩を貸しながらゆっくりと立ち上がらせていった。
そのまま歩き出す……も、相変わらず僕らの歩みは嫌になるほど遅い。
見えている場所までの、一〇〇メートルそこらの距離を進むのに何分も掛かってしまった。
よろよろとしながら、ようやく洞穴の下――雪の小山に辿り着き、それを迂回しながら岩壁の側へと近付いていく。
そのとき! 目の前にぬぅっと漆黒の毛むくじゃらが現れる。
「うわっ……! な、なんだ?」
美須磨に肩を貸していなかったら、思わず飛び退いて尻餅を突いてしまっていたかも知れない。そう確信してしまうほどの大迫力!
こんなに間近で見るのは初めての――いや、おそらく地球に棲息する種ではありえないほどの大きさではなかろうか、これまで見たこともないほど巨大な体長三メートル超の黒いクマである。
だが、それはピクリとも動かず、胸辺りから後半身を雪の山に埋もれさせ、頭部からは大量の血を流して……と言うか、激しい凍気により身体も血液も既にほとんど凍りついている。
『死後、間もないか? 運悪く先ほどの落石と雪崩にやられたのだろうか?』
どう見ても既に死んでいた。
気にはなることは多々あるが、ひとまず今は調べている余裕もない。
目を逸らさぬまま恐る恐る距離を取り、改めて岩壁の方へ向かい、洞穴の真下に辿り着く。
近くで仰ぎ見てみれば、なかなか大きな穴のようだ。
もしかすると、あのクマの巣穴ででもあったのかも知れない。
中にまだ番いや子どもがいたりしたら困る。まぁ、気配はないようだが一応注意しておこう。
それはそれとして、洞穴の位置は思っていた以上に高かった。
岩棚まで、およそ三メートル弱といったところか。
あのシャッター街の路地裏、美須磨と協力して乗り越えた塀と同じか、やや低いくらいだな。
すぐ傍にある美須磨の顔色を窺えば、お互い、あのときのような動きは流石に期待できない。
しかし、塀と違って岩壁には多少の傾斜と凹凸がある。
『体調的には厳しくとも、登れないこともない、か?』
「……もう一踏ん張り……だ。ふぅ、ふぅ……行けるかい?」
「……はぁはぁ……はい、どうにか……はぁ、はぁ、はぁ……」
「お互い……引っ張り上げ、のは……無理だ……。はっ、はっ、はっ……それぞれ、登ろう……」
とは言ったものの、少し試してみただけで僕らが洞穴まで上るのは困難だと気付かされる。
寒さにより手の握力はもはや失われ、美須磨に至っては動くことすら難儀している模様だ。
どうする? 休憩して体力を回復したら――いや、これから衰弱する一方だろう。雪を積んで階段でも作ったら……いや、そんな体力があれば苦労しない。何か道具を使えば……いや、この場にどんな道具があるって言うんだよ。くっ! 手持ちのカードが弱すぎる……。こんなもの、それこそいかさまでもしなければやってられない……んっ?
『いかさま?』
どうして僕はそんなことを思った? ギャンブルなんて大して興味がない、せいぜい、友人と遊びでカードゲームをするくらいの僕が何故……って、あ! そうか! チートか!
「――我は請う……」
……違う、そうじゃない。神ちゃんは何て言っていた?
『――えっと、えと、つまり、喩えるなら分子や原子に言うことを聞かせられる能力?――』
「岩壁に我は請う?」
『――って相手に向かって呼びかけてからやってほしいこと言う感じです――』
「岩壁に我は請う、足場になれ!」
……なんとなくだが、手応えはある? だが目に見える変化は何も無い。何がいけない?
『――回りのものにですね、微かな意志があって。水でも火でも空気でも地面でもお願いすれば自由に操ることができるんです。すごくない?――』
地面が言うことを聞いてくれないんだが。どうすれば良いんだ? 神ちゃん! 脱線ばっかりしてないで、まず使い方をしっかり教えておいてくれないかな。頼むよ、おい! おーい!
「デ、地面に我は請う……、はぁはぁ……あの、洞穴まで……」
横手より響く美須磨の声――たとえ絶え絶えであっても玲瓏な、その声が響いた途端、足下の地面と目前の岩壁、それらがぐにゃりと小さく波打った。
そして、彼女の請願を最後まで聞かずとも意を汲み取ったかのように、僕たちの立ち位置から厚く白い雪を割りながら黒い地面が迫り上がり、同時に岩壁からも岩塊が突き出したかと思えば、瞬く間に神社の境内へと続く石段を思わせる幅広い石造りの階段が完成していた。
「うわあ! 何だ、このイリュージョン!? これだけの岩がどこから? ……ごほっごほっ」
「――急ぎ……ましょう……はぁ、はぁ、はぁ……」
「ん、んんっ……そう、だな……今は……」
思わず狼狽えてしまった気を取り直し、再び美須磨に肩を貸すと二人で石段を登り出す。





