第二話: 極限環境の二人
「はぁ……はぁ……、この山の頂は……あちらのようですね」
「まるで……はっ、ふぅ、ふぅ……壁だな……」
歩き始めて二十分足らずでもう、少し足を速めるだけで息が切れてくるようになった。
『これが低酸素環境か。なめていたつもりはないが、想像以上にキツい』
まだまだほんの序の口だというのに、早くも微弱な頭痛――おそらく気圧の変化によるもの。高山病の兆候だ――を感じ始めており、迫り来るタイムリミットに気は逸る。
地面に積もった雪は意外としっかり固まっており、半ばアイスバーンを形成している。
気温が低すぎるせいか、表面はザラザラしていて思ったよりも滑らず、大分歩きやすくはある。
それでも雪道には違いなく、その遅遅とした歩みがまた悲観的思考に無駄な拍車を掛ける。
当初、山を登るか下るかについては僅かに迷ったが、僕らは上を目指すことにした。
高山病のことを考えるとすぐにでも下りたくなるが、この限られた時間で下りられる高度などたかが知れているし、こうした遭難時にありがちな断崖や谷底に導かれて進退窮まるのが怖い。
対して、登れば山の周囲を広く見渡すことで下山ルートが見つかるかもしれないし、山小屋、山道、人の姿……などが万が一にも発見できればと期待を掛ける気持ちもあった。
そうして緩やかな斜面を登ってくると、やがて行く手を遮るような巨大な岩壁が姿を見せた。
遠間からであっても、上は黒雲に、左右は霧と靄に覆われ、圧倒的な威嶺として捉えていたが、徐々に近付いてきた光景は、正に世界の果てとすら思える巨大な壁そのものだった。
ここに到るまで、雪洞を構えるに適した地形は見つけられず、目前の岩壁は言わずもがな。
『どうする? 引き返すか、岩壁に沿って左右どちらかへ進むか』と考え、ふと足を止めた。
すると、タイミングよく唐突にバラバラバラバラっ!と細かな雪が降り始める。
雪時雨とかスノーシャワーとか呼ばれる珍しい自然現象だ。
思わず真上を見上げてしまう……と、そのとき!
――カラカラカラーン、ココンっ……ドドドドドドドドドドドド!!
続けて岩壁の遙か上から落ちてくる無数の雹? 氷塊? 小石?に泡を食って後方へ跳べば、間髪も容れず、轟音と共に小規模な雪崩と呼べるほどの雪の塊までもが降り注いできた。
言うほど岩壁近くまで寄っていたわけではないため、それらが直撃したりはしなかったものの、地面に叩きつけられた雪や氷の欠片が広範囲に激しく飛び散り、その地響きによってやや離れた場所でも連鎖的に落氷や小雪崩が起き始めようとしている。
「……あわわっ!」
「先生! こちらへ!」
突然の出来事に呆然としていると、美須磨に手を引っ張られ、近くの大岩の陰まで退かされた。
その大岩の表面に当たった大量の雪が、まるで僕らを避けるように左右へ別れて流れゆく。
どうやら大規模な雪崩や落石が起きるまでには行かず収まりそうだ。
しかし、雪や氷は相当高い場所からも落ちてきているらしく、まだ油断は禁物か。
そのまま辺りが落ち着くまで暫し、岩陰で二人、じっと身を寄せ合っていた。
なんとなし、伏せていた目を上げてみると顔が近! じゃない、原因不明の衝撃に見舞われ、激しくなる呼吸と動悸を苦労して整えなければならなくなったが、まぁ、それはともかく。
「あ、先生。お怪我をされていますね」
「ん? あ、ああ、落ちてきた何かで切ったかな? 大したことはないよ」
顔を合わせた美須磨に問われ、実際、痛みなどまるで感じていない僕は軽く返すも。
「いえ、少し深そうです。待ってください」と、彼女はあのシャッター街での再会以来、ずっと肩掛けしていたショルダーバッグを開き、中から小さな箱を取り出した。
その、可愛らしいピンク色をした小箱の上蓋を開けば、中にはびっしり隙間無く小瓶や銀色のシート、白い布――ガーゼと包帯だな――が詰め込まれていた。つまり、これは救急箱らしい。そして絆創膏を一つ摘み出し、僕の顎の横辺りに出来ていた切り傷にぺたりと貼り付ける。
「ありがとう、用意が良いな」
「場合によってはサバイバルもありうる予定でしたので。お役に立って何よりです」
「……ああ、なるほど。そう言えば、今更だが、その荷物は重くないか? 良ければ持とう」
「お気遣い、ありがとう存じます。でも平気です。お構いなく」
やはり断られてしまったか。
実は、その重そうな荷物のことはずっと気に掛かっていた。
こんな状況で私物を預るというのはどうかと思い、なかなか切り出しにくかったのだ。
僕の中では、教師、紳士、同志……どんな態度で美須磨と接するべきか、未だハッキリしない。
結果的に僕の方が助けられてばかりであるし、彼女の能力に関してはとっくに疑うべくもなく、実のところ、そのリーダーの資質に跪いて頭を垂れたくなってきてさえいるのだが、どうしても庇護すべき対象と見てしまう部分も残っている。
我ながら情けないことである。どちらが大人なんだか……いやいや、しっかりしろ、僕。
さておき、思わず得た休憩時間に二人で相談した結果、岩壁とはある程度の距離を保ちながら一方向へと進んでいくことが決まり、僕たちは再びのろのろと歩き出した。
重い身体を引きずりながら歩くこと十数分。
たったこれだけの時間、ゆっくり歩いてきただけだというのに酷く疲れている。
ズキズキとした頭痛とムカムカした吐き気に絶え間なく苛まれ、歩くペースも絶望的に鈍い。
いよいよ本格的に高山病の症状が出てきたように感じられる。
僕らを覆う淡い光は既にほとんど消えかかっていた。
いいかげん、猶予はないのだろう。
『斜面を利用した雪洞はもう諦める? これは方針転換もやむなしか?』
「……美須磨……! 他の――」
「あれは……はぁ、はぁ、はぁ……なんでしょうか?」
相談を持ちかけようとした僕の声を遮り、彼女はその嫋やかな人差し指で前方を指し示した。
その指先を追って見れば、岩壁の側に大量の雪がまるで小山の如くうずたかく積もっている。
さきほどの連鎖雪崩で出来た物だろうか?
なんにせよ、これは僥倖である。
これだけの雪ならそのままかまくらにできるのではなかろうか。
積もったばかりの雪では強度にやや不安が残るが、この際、贅沢を言ってはいられない。
……と喜ぶも、すぐに彼女の指が指しているのが、もっと上の方向であることに気付く。
視線を上げると、そこには黒々とした染み……いや、大きな窪み。
ぽっかりと口を開けた、それは天然の洞穴だった。





