後編: 疲れた男と迎える女
「おかえりなさい。お怪我はありませんか?」
洞穴の入り口を通り抜け、安堵から思わずふぅ~っと大きく一息吐いたタイミングを、まるで見計らっていたかのように声が掛けられた。
透き通るような綺麗な声は、外から吹き込む風が不気味な唸りとして響く岩屋内にも拘わらずハッキリ僕の耳まで届き、いきなり周囲の雑音がフェードアウトしていく錯覚を起こさせる。
心なしか、溜まりに溜まった疲労さえも急速に癒やされていく感じ……風呂に浸かったようにだらしなく弛みそうになる顔を努めて抑えつつ、僕は奥から姿を見せた少女に向かって声を返す。
「ああ、ただいま。見ての通り、どこも異常はないよ」
「それは何よりです。……いつも、危険な探索を押し付けてしまってすみません」
「気にすることはないさ。防寒具は一人分だけなんだから、どちらが適任かっていう話だ」
少女はなおも何か言いたげにするが、僕はその言葉を封じるため話題を変える。
「それよりも、また罠は空振りだったよ。この山の生き物はどうやら相当頭が良いみたいだな」
「あくまで素人の罠ですものね。使える道具も限られていることですし」
「うん、狩猟に関しては、どうにか別のやり方を考えとしよう」
「獣たちが人の罠に慣れているのでしょうか?」
「おそらく、それはないだろう。流石に猟師なんかが頻繁に出入りするような山とも思えないよ」
「……強い警戒心……この環境で……つまり、捕食者……? だとするなら――」
「あ、あー! そうそう、これを見てくれないか! ほら、今回は随分と量があるだろう」
心配そうな目には気付かないふりで、僕は外での出来事を取捨選択しながら、おどけて話す。
なにせ不安要素に事欠かない状況、そうそう上手くはいかないのだけれども。
「くすっ、これも全部、例の、氷の樹の果実なんですね」
「たくさん生っている林を見つけたんだ。毒見がてら後でまた剥いてみるとしよう」
「まだクマのお肉も十分にありますので、食べ物に関しては危険を冒す必要ありませんよ?」
「小動物の主食になっているみたいだったから、比較的、木の実は安全じゃないかと……まぁ、一応、念のためだよ。贅沢を言える状況ではないとしても、あの肉ばかりというのはなあ」
「確かに栄養は偏ってしまうかも知れません」
「うん、まぁ、栄養もそうだし、何より味と臭いがな……」
「気にするところですか? 口に入れるのに抵抗があるほどではないと思いますけれど」
雑談に繋がったのを幸い、なるべく軽い足取りを意識しながら岩屋の奥へと進んでいく。
尤も、そこまで広くも深くもない一間の洞穴である。すぐ最奥に突き当たってしまう。
足を止め、手に持った杖を壁に立て掛けようとする……と、すぐ後ろを付いてきていた少女が僕の動きを制しつつ前へ出、一見何の変哲もない目の前の岩肌に両手を押し当てた。
「地の精霊に我は請う――」
声が静かに響く同時、硬そうな岩の壁がぐにゃりと小さく波打つ。
と、まるで初めからあったかのように長方形の穴が空き、更に奥へと続く深い洞窟が現れた。
は? 突然何を言って? 何このイリュージョン? 地の精霊とは? 消えた岩はどこに?
……などと狼狽するような者はこの場にいない。
少し前の常識に沿えば仰天必至の奇跡を起こした少女は、これを当然の如く誇る様子も見せず穴をくぐってゆき、かく言う僕も平然としたまま後へと続く。
実際、もうすっかり見慣れたものであるし、何だったら僕にも同様のことができる。
「風の精霊に我は請う、いつも通り、中の空気を入れ換えてくれ」
【精霊】という存在の力を借り、本来なら道具がなければ――いや、道具があろうと易々とは実現不可能な超常現象の数々を引き起こす、まさしく魔法のような能力【精霊術】。
これこそが、こんな極寒のサバイバルで僕のような凡人が生き延びてこられた理由だ。
水の精霊の力を借りて雪を水に変え……。
火の精霊により体温を維持し……。
風の精霊が空気の流れを整えて……。
地の精霊は地形を操作する。
未だできることは限定的ながら、現代の登山家にでも聞かせたら血の涙を流して羨むであろう便利能力を得たことで、こんな場所でも何とか僕らは数日間に亘って生存し続けている。
先の声に合わせて吹き抜けた風が収まるのを感じ、洞窟を進みつつ背後を振り返れば、今し方くぐった四角い穴は痕跡も残さず元通りの壁に戻っていた。
こちらからは当然見えないが、入ってきた岩屋側の壁まですっかり塞がっているはずだ。
たとえ外敵――先ほど襲ってきた何かのような――が洞穴の中に侵入したとしても、ここまで入り込むことなど叶わぬだろう。
まぁ、地中を掘り進んできたり、僕たちと同様に精霊の力を使える怪物がいないとして……。
いやいや、それはいくらなんでも杞憂が過ぎるというものか。
それはさておき、この洞窟の通路はかなり狭いが、二人並んで歩けるほどの幅はある。
入り口が閉ざされたことによる暗闇も、光と闇の精霊に力を借りれば大した問題ではない。
不自然に薄まった暗さと、周りの物体を覆う淡い燐光に奇妙な感覚を覚えるも、疾うに慣れた。
歩くこと暫し、これまでの自然洞窟とは異なる、明らかに人工的な石造りの玄室へ到着する。
広さはちょうど学校の教室ほどだろうか。
左右の壁にはいくつかの扉があり、それぞれホテルの一室ほどはある小部屋へと繋がる。
ちなみに、どの扉にも鍵は付いていない。ノック必須である。
この玄室では、すべての石材がLED並みの光を放ち、肉眼でも問題ない明るさとなっている。
加えて、それらは光だけでなく仄かな熱をも発し、一定の室温を保つ暖房効果まで備えている。
どういう原理なのやら、可能なら切り出して持ち歩きたいほどの有り難さだ。
残念ながら、ここは僕らの持ち家ではなく、間借りさせてもらっているに過ぎないのだが。
あぁ、そうそう。先ほど僕は、つい興が乗って洞穴を『我が家』などと呼んでしまったけど、あれはちょっと正しくなかった。あそこは玄関と言うのが適切だろう。
「それでは、ゆっくりお休みになってください。後のことは私が片付けておきます」
「ああ、それじゃあ……」
お言葉に甘え、背負っていたバックパックを下ろし、分厚い防寒具をすべて脱いでいく。
ようやく身軽になり、ぐ~っと身体を伸ばした後、適当に脱ぎ散らかしたものを拾い集めよう……っと、見れば、それらは既に少女の手でまとめられ、早くも手入れまで始められていた。
いつもながら、非常にテキパキしている。
気が利くというのもあるのだろうが、彼女はとにかく動作に無駄が少ない。
だから仕事が速く、何より……ああ、所作が……綺麗だ。
つい、見惚れてしまいそうになる。
おおっと、いかん! 変な目で見てなかっただろうな? 気を付けろよ、僕。
こんな状況だ。お互いに協力し合わなければ長くは生きられまい。
頼もしい同居人に余計な不安や不信感を与えてしまいかねない言動は慎むべきである。
圧倒的な能力不足や生来のずぼらな性格なんてものは、一朝一夕には改められないのだから、くれぐれも自戒だけは怠らないようにせねば!
「あー、えっと……うん、後は任せるよ」
「ええ、お疲れさまです」
余裕、信頼、感謝と敬意……スマートに態度で示せないかとあれこれ考えた挙げ句、どうにかそんなやり取りだけを交わし、僕は自分専用の個室へと向かう。
我ながら、とことん決まらない。
それにしても、今回は心底、肝を冷やした。
このサバイバル生活で初めて外敵から向けられた直接的な害意。
生々しい恐怖を実感したことで、改めて強く決意する。
『僕みたいな人間だけならともかく、あんな娘まで死なせるわけにはいかないよなあ』
必ず救い出してやらないと!
この明日さえ見えない異世界の雪山から、元の日本……いや、まともな文明レベルの生活に。
次回から本編開始となります。
この序幕の続きは第二章の終盤にて。