第四十九話: 翼に翻弄される幼児
空中をざっと百メートルあまり吹き飛ばされた後、かろうじて体勢を立て直した僕は、雨雲を突き抜けた彼方でこちらへ向かって反転しつつある鳥のジャンボの姿を捉えた。
「ちょっ! ちょお! ちょっと! 話が違わない!?」
『これほどの雲でもまだ足りなかったと言うのかっ!? ……待て。そもそも、大きな雨雲を奴が必ず避けるだなんて話は誰もしていなかったかも知れないな』
だが、あのジャンボが雲を嫌い、意図的に散らすという話に関しては本当だったようだ。
飛び去っていくことなく、東の空で大きく旋回した巨鳥は、再びこちらへ向かって飛んでくる。
――ズズズズズズズズズズズズズズゥゥゥゥゥ…………。
旋回する際、その両足から放られ、遠くへと落ちていった大岩が地上を激しく揺るがす。
大地の轟きがこんな高空にまで響いてくる中で、更なる轟音を伴った暴風を捲き起こしながら叢雲を掻き分け、全長一四〇メートルに及ぶ巨体がほとんど目と鼻の先を突っ切ってゆく。
雲中に発生している放電により羽根先をバチバチ焼かれるも、まるで気に留める様子はない。
僕は、赤マントをはためかせながら高速で接近し、散っていく雲を留めようとする、が。
「水の精霊に我は請う、つどえ……くっ、ごっそり吹き散らされたぁ! 速すぎる!」
『あの圧倒的質量の恐ろしさは言うまでもないが、想定外の飛行速度も脅威的だな』
「何百メートルも向こうから一瞬で飛んでくるからね。正直に言えば、躱すだけで精一杯だし、このまま雨雲を維持し続けるのは流石に難しそうだよ」
『となれば、作戦は失敗か。潔く出直すとしよう』
そのとき、三度飛来したジャンボが、全力で飛び退いた僕らのやや下方を通過する。
先ほどまでと同様、空中に浮かぶ小島のような巨体は、ほんの一秒足らずで飛び去っていく。
違う! 直前! 確かに見た! 奴の巨大な目玉が……。
――ギロリ!
『まずい、見られた!?』
「んん? 見られたからって、別に僕のことなんて気にも留めないんじゃない?」
それは楽観的に過ぎるというものだろう。
確かに、本来ならば、ちっぽけな人間ごときを気にする生物ではなかろうが、今はそいつらに留守宅を荒らされ、わざわざ出張ってきている最中だということを忘れてはならない。
よしんば空き巣の一味とはバレずとも、この雲と僕との関連性は明白、言い逃れるのは困難だ。
そんな危惧に応えるかのように、ジャンボは驚くべき速さで縦方向の急旋回を決める。
滑らかな機動で真っ直ぐ巨体を起こし、そのまま、こちらの方へ向き直ると、左右にそれぞれ五十メートル以上も広げた翼をやや後ろまで一瞬だけ振りかぶり……力強く羽ばたかせた。
「どっ!? ひゃあ――――」
ゴオオオッと苛烈な暴威を以て襲い掛かってくる突風! 抗うことなどできようはずもなく、僕の身体はバランスを失って上下左右も分からぬまま高速で墜落していく。
数百メートル落とされ、地面まであと数十……そこで姿勢制御を果たし、辛くも墜死は免れる。
眼下では、村を囲む柵の一部が土居と共に、この突風の余波によって吹き飛ばされていた。
が、まだ危機は去ってなどいない!
見上げずとも分かる! 遙か上空からハヤブサのように……いや、天が落ちてくるかのように! 真っ直ぐ急降下してくるジャンボの強烈な圧を否応もなく全身で感じさせられる。
「風の精霊に我は請う、全力で――うわああああっ!」
咄嗟の請願も間に合わず、凄まじい衝撃波により、またもや僕の幼躯は吹き飛ばされる。
戦闘機によるアクロバット飛行の如く、垂直に近しい急降下、地面スレスレでの引き起こし、そして垂直急上昇という離れ業を立て続けに披露したジャンボは、もはや巨岩による高空爆撃と区別が付かないほどの衝撃を、風圧のみで大地へと叩きつけていった。
先日、村の端に建てたばかりの小屋が六棟も、バラバラになって僕と一緒に吹き飛んでいく。
まだ入居者が決まっておらず無人のまま、付近にも人がいなかったのは不幸中の幸いか。
……いいや! 人は、いた!
洗濯機にでも放り込まれたかのような有様で宙を舞う僕の視界の隅に、それが映り込む。
「ああ、なんであんなところに!」
夜が明けてなお村上空で不自然に留まり続けている大きな雨雲。
常の如く飛来したジャンボの常になく執拗な旋回行動。
領民たちはとっくの昔に異変を察し、村の西側からの避難を完了させているようだった。
少なくとも、先ほどから見渡す範囲内に野次馬の一人さえ確認できてはいない。
だが、どうやら物陰に隠れて見物していた変わり者はいたらしい。
掘っ立て小屋の破片や大量の土砂と共に捲き上げられたのは小さな子ども……それも女児だ。
「ひゃあああああん!」
姿勢制御もそこそこに錐揉み回転しながら力尽くで軌道を変え、空高く舞い上がった女児――ファルの方へと手を伸ばし。そして、どうにか腕の中に、その小さな身体を掴まえる。
「くうぅっ!」
ぐるぐる目が回る中、自身の空間識さえ危うくなるが、地面へ落ちぬようにとだけ意識しつつ飛び続けること数十秒、今なお虫食いだらけの大草原の真上でやっとバランスを立て直す。
『ああ、随分と遠くまで飛ばされてきたな。不本意だが、ジャンボの奴に目を付けられた以上、もう村へ戻るわけにはいかないし、これはこれで好都合と言えなくもないか』
「はぁはぁ……うん、後はあいつを村から遠ざける囮役を務めないと。でも、どうしよう」
あたかもコアラ、あるいは前世で往年の大ヒット商品として知られたビニール人形さながらに両手両足でガッシリと僕の胴体にしがみついている女児へと目をやる。
「……ファル」
「あ、誰かと思ったら白ぼっちゃんだった。ぐるぐる! なにこれ? きゃっ、飛んでる!?」
いくらなんでも、この子を一人、草原の中へ置き去りにはできない。
『ささっと村まで戻って置いてくるか? ……おおっと、そんな余裕はなさそうだ』
「仕方ないね。ちょっと付き合ってもらうよ、ファル! そのまましっかり掴まってて!」
身にまとう各種精霊術の効果範囲を拡大し、妖精の取り替え子を腕に抱いたまま舞い上がる。
翼を広げ舞い下りてくる巨鳥とすれ違うように。
目指すは再び遙か上空。今なお散らされず、もくもくとそびえる積乱雲の中だ。





