第四十四話: 草の陰、日の影
その小さな鳴き声は、やけに大きく響き亘ったように思われた。
背の後ろにて、拍子を踏んで絶え間なく轟き続けていた地鳴りが残響を以て跡絶えし時の程、替わって場を支配せしめたものは時間の狭間も斯くやという奇妙な静寂である。
釣られて頭の中の思考まで止まったか、刹那の間、己の置かれた状況さえ失念してしまう。
思い出せ! そう、寸前までの轟音は、碧き巨ゾウ――ジャンボが迫り来る足音だった。
四つ足で体高三十メートル超、前世地球の太古に生きた恐竜でも比肩し得ない大怪獣である。
こいつから逃げきるため、僕らはようやく手に入れた収穫――牧羊樹を捨てる覚悟を決めた。
だが、そのときだ。まったく予期せぬ新たな役者が舞台へと飛び込んできたのは。
行く手の脇に茂った草むらの中から、それは現れた。
「あたまさわって?」
鳴き声、姿形、それとも気配によってか、存在を認識した全員の心身を一瞬で凍りつかせる。
緊迫した場面も相まって、脳裏を過ぎるは、西部劇にでも出てきそうな丸まり転がる枯草。
「……ハッ!? せ、斥候さん! ソレ! そいつを荷台へ!」
咄嗟に上げた僕の叫び声とほぼ同時に、斥候さんがソレ――横合いの茂みから転がり出てきた角無しウサギを素早く抱きかかえ、そのまま牧羊樹が積まれている荷台の片隅へと放り込む……もちろん、そっと丁寧に。
「あたま……」
振り返って見れば、ジャンボは地を揺るがすことさえ躊躇うかのように歩を緩めていた。
『そう言えば「野生の獣やモンスターからも恐れられている」んだったか。あのウサギは』
その機を逃さず、僕らは一目散に逃げだした。
他のモンスターやザコオニの罠などを警戒するのも最小限、全員必死、ひたすら駆ける。
生まれてこの方、早足の経験ですらあるかどうかというヒツジたちをも急かして走る。
誰も彼も息は絶え絶え、ヒツジたちなど、いつ過労で死んでもおかしくない様子だ。
「ぜえ、ぜえ……も、もう……」
「はひー、撒けた……っすかね…?」
「まだだ! またゆっくり動き出してるよ!」
「……ハァ、ハァ、なんというしつこさか」
限界ギリギリの全力疾走をした甲斐あって、ジャンボの姿は遠くの紅靄に包まれつつあった。
しかし、いくら体力自慢の開拓民や冒険者と言えど、全員、すっかり疲労困憊している。
ここまでは運良く避けてこられたが、別のモンスターに出くわせば足止めされることにもなる。
奴が追跡を再開した以上、まだまだ手放しで喜べるような距離ではない。
……いや、ヒツジたちや従士見習いの若者たちは、もう既に体力の限界を超えていたようだ。
一頭のヒツジがどう!と地面へ身を投げ出せば、続けて皆がバタバタとその場に倒れていく。
そうなると、冒険者ら残りの者たちもとりあえずは立ち止まるしかない。
「これ以上、追ってくるようならば、いよいよ万事窮す、だな!」
「なんとなく逡巡してるみたいだし、魔除けは利いていそうなんだけどね」
「あたま、さわって?」
済し崩し的に、束の間の休息時間が訪れる。
水分を補給し、精霊術や神聖術によって体力を回復しながら、僕らは事態の推移を見守った。
――ゴゴゴゴゴ!
「けっこう距離が空いたからか、さっきまでの勢いは感じられ……って、あ、走り出した!」
「やっぱり諦めちゃくれないかい!」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴ!
突然、駆けるジャンボ、一同の間に戦慄が走る、が。
『待て! なんだか様子がおかしいぞ?』
「あれれ? こっちじゃなくて、慌てて別の方に向かって……ねえ、さっきから何の音?」
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
草原を吹き抜ける風の音に紛れ、彼方より響いてきたその音は、気付けば一気に音量を増し、大気の振動となって僕らの身に襲い掛かり、次の間には背後からの突風として一帯を吹き抜ける。
「全員、伏せろおおお!」
「うわあっ!」
軽く身体を持っていかれそうになりながら、咄嗟に僕は後ろを振り返ろうとした、が。
ふっ……と、それに先んじて周囲すべてが濃い闇に包み込まれてしまう。
見上げれば天空の巨影。
轟音、突風、陰暗……それらは頭上を覆い尽くす一つの影によってもたらされたものだった。
思わず、手を伸ばせば掴めそうだ。随分のんびり飛ぶものだ……などと口にしかけてしまう。
こんな的外れな感想は、あまりにも違いすぎるスケールに遠近感を狂わされたがゆえのこと。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴォォォォォォォ…………。
そのまま上空を通過していった巨大な影は、遠くのジャンボへ向かって真っ直ぐ飛んでいく。
そして、徐々に飛行高度を下げながら大地を駆けるその巨体の真上に差し掛かると、ガッシリ胴体を鷲づかみにし、暴れもがくのも意に介さず、紅靄にうっすら霞む空へと再び舞い上がった。
『な、なんて馬鹿げたサイズだ……遠間に見ても、到底、生き物だとは信じられない……』
悠々と飛び去っていく姿は、地上から一〇〇メートルもない低空に浮かぶ一羽の巨鳥だった。
二つの足で掴み上げているゾウのジャンボは体長にして七十メートルを下ることはあるまい。ならば、広げられた巨鳥の翼は、比較換算で翼開長二五〇メートルに達するのではないか?
これは前世地球の空を飛んでいた大型旅客機ですら遠く及ばぬ超弩級の大きさである。
「……ジャンボの名は、あれに付ければ良かったかな。あえて呼ぶなら鳥のジャンボ、か」
鳥のジャンボが遠くの空に消え去ると、皆、糸が切れたように地面へ腰を下ろしていった。
「流石に肝が冷えたね! ルフがダンジョンの中を飛んでるところなんて初めて見たよ!」
「外でよく見るのと同一の奴っすかねえ? だとしたら、どっから入ってきたんだか」
「おう、それよりも、ルフの餌がロクソドンってえ与太話はマジだったんだな」
緊張から解き放たれたせいだろう、皆が皆、少しばかり饒舌になっているようだ。
「なんにせよ、あのルフには助けられたな」
「こいつにもね」
風の精霊を休ませるため、降下した僕は、荷車の隅っこでじっと丸まっているものを見る。
「あたま、さわって?」
――グイグイ、グググっ。ぷひぷひ。
クリーム色の長い毛に包まれたウサギ――そいつは先日の角無しだった。
「折れ角のアルミラージか……。ふぅむ、奇縁になったものだ」
「こいつぼっち、飽きもせず付いてくる意味が未だに分からねえんだが……」
「狂化の兆候がないのはともかく! やけに大人しいことも気になるねえ!」
「たまたま血の気が少ない奴だったのかも」
「ンなわけがあるか!」
何はともあれ、モントリーたちも含めて探索隊メンバー全員無事に難を逃れることができた。
運搬中の牧羊樹もひとまず問題は無さそうである。
果実であるヒツジたちは大分ぐったりとして、死んだ……枯れたような目をしているが……。
まだまだ日は高い。
少し長めに休憩は摂るとして、また妙な敵に襲われないうちに帰路を急ぐとしよう。





