第三十一話: いざ草原のダンジョンへ
先ほどまで登ってきた丘の反対側を下りきれば、この広大な盆地を覆っている薄紅色の霧は、もはや行く手を遮る高さ数十メートルの巨大な城壁にしか見えない。
しかし、その一画に半ば以上めり込むように大枯木が一際高く大きく屹立していた。
『近くで観れば、とんでもない大樹だな。高さなんて都心の高層ビル……一五〇メートル近くはあるんじゃないか? 壁のようにそびえるドーム状の霧もまるっきり比較になっていない』
よじれて脹れた幹の太さも相当なものだ。ざっと直径二十五メートルくらいか。
上部では一枚の葉も付けていないねじくれた枯れ枝を四方へ広げ、下部では根が幹を持ち上げ、モントリーが数羽並んでも余裕で通り抜けられるほど大きな門構えを成している。
「あの根の間を通っていくの? もしも樹が動き出したら踏みつぶされちゃいそうだね」
「わっははは! 安心しろ! そんなことは起こらん!」
「こっちから手ぇ出さなきゃ、樹人が暴れるなんてことあるわけねえ」
「え?」
冗談のつもりだったんだが、信じられないことに、あの高層ビルみたいな大樹はれっきとした動物……かどうかはともかくモンスターの一種であるらしい。
そのことを裏付けるつもりではなかろうが、僕ら一行が近付いていくにつれ、大枯木は上空で広げられた太い枝を揺らしながら、ささくれだった幹に浮かぶ皺をゆっくり移動させてきた。
やがて、それは一つの大きな瘤となり、巨人の顔を象ったかのように僕らを見下ろす。
「通らせてもらうぞ! 大枯木よ!」
一行を代表し、マティオロ氏がそう声を掛けるが、大枯木は特に反応を返すことはなかった。
根の間へ入っていこうとする僕らの様子を、何も変わらず、じっと眺め続けているだけである。
「ふ、不安になってくるなぁ……」
「気にするこたぁねえよ。ちいとばかし、でかくて変わっちゃあいるが……あー、言ったかて、冗談でもこいつに悪戯してやろうなんて考えんじゃねえぜ?」
「しないよ!」
六人組の冒険者、五羽のモントリーと騎手、そして僕――総勢十二名で構成される探険隊は、その大枯木――トレントとか言うらしい樹木型モンスターの根元を通り抜け、ドームの内側へと足を踏み入れていくのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
屋外型ダンジョン【紅霧の荒野コユセアラ】だったかな……。
ダンジョンというものに関する知識がまったくない僕にも、この盆地が普通ではないことは、すぐさま理解できた。
既に、時刻は正午――【火ノ三刻】を回り、一日のうちで最も気温が高くなる厳しい時間帯を迎えているのだが、大枯木の根で出来たトンネルをくぐった途端、その暑さがピタッと和らぎ、朝方【山ノ刻】のような過ごしやすい気温へと変化したのである。
心なしか陽射しが弱くなり、風が湿気を帯びたようにも感じられる。
「いやいや! 明らかにさっきまでとは太陽の位置が変わってるんだけど!?」
「おう、今回は半日ってとこか。気にすんな。ちゃんと出るときにゃ帳尻合うからよ」
詳しく聞いてみれば、どうやら、このダンジョンでは外部との時差が生じることがあるらしい。
どの程度ずれるかは入る度に変わるものの、別に内外で時間の流れる速さが違うわけではなく、中で過ごしたのと同じだけ外でも時間が流れているのだと言うが……。
「見ての通り、こん中は外とは別の太陽が昇ってっからよ。きちっと計ってみりゃ、少しばかり一日の時間が違ってんのかも知れねえが……ま、どうでもいいだろ」
「ダンジョンは一種の異界なのだ。ここは時間だけだが、他では空間が歪んでいることもある」
……言いたいことは山ほどあるが、確かに気にしても仕方のないことか。
気を取り直して見てみれば、それ以外、風景におかしな点はなさそうである。
辺り一帯にうっすらと紅色の靄がたちこめ、視界が多少悪いことを除けば、村の周囲に広がる草原との違いを挙げろと言われても、すぐには答えられないだろう。
多少、樹が多いか? 地形には起伏が多いようにも見える……が、まぁ、その程度の差だ。
後ろを振り返れば、見上げきれないほど高い大枯木も依然としてそびえ立って――。
「えっ!?」
そこに予想していたものを見ることができず、僕は思わず声を上げてしまう。
たった今、くぐり抜けてきたトンネルと上空高く伸びる大枯木だけは……変わらずにある。
しかし、確認できるものはそれだけ、外部の景色すべてが濃い紅色の霧によって覆い隠され、ほんの数メートル先すら見通せなくなっていたのだ。
「おっと、シェガロ坊。言い忘れてたが、このダンジョンの出入り口は大枯木の股の間だけだ。他から出入りしようとすんなよ? ヘタすりゃ霧の中を永久に彷徨うことになるらしいぜ」
「ほ、他って?」
「周りの霧ン中とか、空の上とかよ……通り抜けられそうに思うだろ? 知らなけりゃあ」
なるほど、外部からドーム状の壁のように見えていた薄紅色の霧は、まさしくこの閉鎖空間の外壁だったということか。
「うん、近付かないように気を付けるよ」
モンスターが放し飼いにされている物騒なサファリパークに入場したとでも思っておこう。
正門以外からの園の出入りはご遠慮ください。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大枯木が睨みを利かせているお蔭で比較的安全だという入り口付近で十分な休息を摂った後、僕らは全員揃って出発する。
「この中をしっかり探索するのは初めてだね! お前たち! 気を引き締めてくよ!」
「「「「「へい! 姐御!」」」」」
再び【草刈りの大鎌】が一行の前方へと展開し、先導と警戒に当たる。
僕もここまでの道中でしていたように上空高くへと浮かび上がり、より広範囲を見渡すと共に、入り口の方向と距離を見失わないように周辺の地理を頭へ叩き込んでいく。
「このコユセアラについては、まだほとんど何も分かっておらん。それほど危険なモンスターはいないはずだが、先のマルティコラスの例もある。くれぐれも周りには気を付けるのだぞ」
と、十数メートル下にいるマティオロ氏が声を掛けてきた。
風の精霊術により直接音声を送受信しているため、お互い大声で叫ばずとも会話が可能である。
ちなみに、前方を行くジェルザさんとも同様に双方向通話ができるようになっている。
これくらいのこと、今の僕は【風浪の帆】で浮遊しながらでも片手間で行えるのだ。
『……って、マルティコ? ああ、ヒーシーのことか。そんな変な名前だったんだな』
「了解、パパ」
「特に、空を飛ぶものには警戒を怠らんようにな。お前が襲われたら助けてやれんからな」
今回のダンジョン探索、実は僕が担う役割は非常に重要なものである。
わざわざこんな幼児まで駆り出しているのは、何も社会見学をさせるのが目的ではないのだ。





