第二十話: 黙示録、奈落より来たるもの
――ぶおおおおおおお……!
工場にでもありそうな大型ファンの唸りを思わせる重低音が途切れることなく響いていた。
周囲のすべてを音源として複雑に反響し合い、冥府より、天界より、聞こえてくるかのよう。
起伏のない草原の只中にいるというのに広がる雄大な景色などまったく目に映りはしない。
それどころか、辺り一帯、陽射しさえも遮られて大きな建物の影の中にいるようだ。
『くっ、最悪だ! ようやく秋、収穫期を目前に控えて、これはないだろう!』
「まったく同感だけどっ! 嘆いてるヒマは! ないんだよっ! 火の精霊に我は――」
『待て!! ここで火はまずい!』
「……っち! じゃ、どうすればいいのさ!」
『今、考えてるところだ』
「ああ、もう!」
バシバシバシバシと絶え間なく全身にぶち当たってくる物体を払い落とす手間も惜しみながら、僕は風をまとって宙へと浮かび上がった。
その場で二度三度スコップを振り回す……が、まるで牽制にもなりはしない。
気流に捲かれ、腐肉とも汚泥とも付かない凄まじい悪臭がぶわっ!と身の回りに立ちこめる。
さて、どうしたものかな。
こいつらは、もしかしたら僕がこれまで出遭ってきた中でも最悪の敵かも分からないぞ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ことの起こりは半刻(一時間)ほど前になる。
「イナゴだー!!」
そんな、やや間の抜けた声が一つ響いた瞬間、朝方の開拓村は悚然とし、戦慄の渦に包まれた。
食事も仕事も遊びも休みもあらゆる別なく、領民すべてが即座に手を止めて屋外へ飛び出し、そこで皆が同時に見たものは、まるで世界が終わるかのような光景だった。
「ああ、イナゴだ……」
南の地平線から空にかけて、一面、錆びた赤銅めいた仄暗い灰色に染まっている。
しかもその色の範囲は刻一刻と広がり、急速にこちらへと迫ってきていることが明らかである。
あたかも巨大な砂嵐にも似た……いや、『似た』どころではない。同等以上の災害そのものだ。
「馬鹿者! 呆けてる場合か! お前たち、今すぐ畑に網を掛けろ! 急げ! 急げ! 急げ!」
いち早く立ち直って声を張り上げたのは流石の領主――マティオロ氏だった。
「ちょっ! なんですの、あれ?」
「話には聞いていたけど実際に見るのは初めてだね。イナゴの群れだよ」
「うそでしょ……あの入道雲みたいのが全部、ちっぽけなイナゴなの……? 百匹はいるわよ?」
「まさか! そんなもんじゃ済まないって。何百万……いや、ヘタをすれば何億か……。あれが通り過ぎた後には雑草の一本も残らないんだってさ」
「おく? 億って何よ!? またむつかしいこと言って! 弟のくせに! 団子っ鼻!」
「クリスちゃん、ショーゴちゃん、私たちもすぐ畑へ向かいますよ」
と、村中の女子どもを引き連れた母トゥーニヤが、僕と姉クリスにも声を掛けてきた。
彼らは手に手に長竿、大きな布、虫が嫌う騒音をかき鳴らすための金物などを持っている。
激辛ハーブの煮汁――いわゆる除虫薬――の入った大きな壺を抱えた人も見える。
だが、僕は僕で何か他にできることがあるはずだろう。
前世の記憶によれば、イナゴの大発生――蝗害の進行速度は一日に五十キロから百キロほどと言われていたはずだ。時速に換算すればざっと二キロから四キロといったところか。
地平線の彼方に見えてきたアレの襲来まで、おそらくはまだいくらかの時間的余裕がある。
この世界のイナゴに僕の知らない特殊能力でもあるなら別だが、それを確認するためにも……。
「パパ! 僕はちょっと様子を見てくる! いろいろと近くで確認しておきたいから」
「危険……は、おそらく無いか? よし、ノブロゴを連れていけ! ただのイナゴじゃなかった場合には――」
「うん、分かってる。手出ししないで戻ってくるよ」
「近付きすぎるんじゃないぞ! ノブロゴ! 聞いていたな?」
「へえ、行ってきやす。……坊はこのまま飛んでくのか?」
「そうする」
騎羽モントリーの牧場へ向かうノブさんとはひとまず別れ、僕は精霊術【風浪の帆】を請願、地上三メートルほどの高さまで浮き上がって一足先に村の南側の柵を飛び越えた。
既に、地平線上だけではなく手前に広がる大草原もイナゴの群れによって侵蝕されつつあり、徐々に明るい黄緑色から冥い灰褐色へと染まってきていた。
実際の距離は、数キロか十数キロか――まだ相当あるだろう。
にも拘わらず、無数の羽音が山鳴りのような空気の振動として伝わってくるのは錯覚なのか。
その一方で、周囲の広大な草原には動物どころかモンスターの気配すらなく、不気味なほどに静まりかえっていた。
微かに肌を震わせ続けている低周波振動。
後ろにある柵の向こうから漏れ聞こえてくる領民たちの甲高い叫び声。
ざざあぁーっという草の上を風が流れていく音。
待つこと暫し。
――ザッシャ! ザッシャ! ザッシャ!
「シェガロ坊! 待たせたな」
前世の記憶にある蝗害対策を思い返していると、モントリーに騎乗したノブさんが到着した。
「ノブさん、考えたんだけど、あれはここまで来る前に減らしておかないとダメだと思う」
「んあぁ? まァ、そうかも知んねえな。なら、どうするよ?」
「見てた感じ、けっこう群れの移動速度は遅いみたいだから、とりあえず軽く一当てしてみない? 危なかったら逃げるって前提で」
「……しゃあねえな。どんなもんか確認しにぶつかっとくのは、アリっちゃアリだ」
「え? いいの? パパには近付くなって言われたけど」
「あんなん、どのみち坊の精霊術に頼らなきゃ厳しいだろうぜ。今のうち試せるこたァ試しとけ」
相変わらず、話が分かるご老人だ。
僕が幼児だってことを忘れられているような気もするが……。
「僕のことを子ども扱いしないから好きだよ、ノブさん」
「やめろ、気持ち悪ぃ。俺ァ、ガキは好きじゃねえんだ」
内心の緊張を追い払うため、互いに軽口を叩きながら、僕らは大草原へと向かう。





