第三十二話: 転移者たちの終わり、幸せな恋人たち
身体が動かない。
血が随分と流れ出しているようだ……が、かろうじて生きている。
肩と頭の下に感じられるゴツゴツとした硬い地面の感触は、あの不気味な肉塊のそれではなく、おそらく通常の岩場に仰向けになって倒れているのだろう。
優に数百メートル、ことによれば千メートル以上、相当な高さを落ちてきたはずだ。
不測の事態だったが、少なくとも、しばらく追っ手の心配をしなくて良いことだけは救いか。
辺りは一寸先すら見通せない真っ暗闇だ。
僕と月子がそれぞれ腰に吊していた角灯は落下の衝撃でどこかへ飛んでいってしまったのか、それとも壊れてしまったのか、ほんの一筋の光ですら周囲には差してはおらず、おかしなことに光と闇の精霊術【暗視】の効果も失われていた。
「……つき、月子……無事か……?」
地面に叩きつけられる瞬間まで、僕はかろうじて動かせる上腕部を以て月子を抱き留め、その肢体を胸の中に包み込んでいたはずだ。
僕が即死していない以上、おそらく彼女も無事ではないかと思われるのだが……。
――無音……。
――静寂……。
――深閑……。
そうして無限にも感じられた、暫し刻の後。
「……しょうご、さん」
弱々しいが、それは確かに彼女の声だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「よかった……怪我は?」
「……はい」
「君は、まだ……ポーションが効くはずだろう。はやく、使うと、いい……」
月子の無事を確認し、ひとまず安心はできたものの、自分たちの状態と周囲の状況がまったく見えない暗闇に少しずつ不安を覚えてくる。
そう言えば、角灯を始めとする荷物や装備の確認も早めにしておきたい。
「ほんとにくらいな……。火を……火の精霊に我は請う、火を灯せ……おや?」
おかしなことに、火が点った感覚はあるにも拘わらず、一向に周囲が照らし出されない。
「へんだな……光の精霊に我は請う、明かりを灯せ……これもだめか……」
ひょっとすると、何らかの要因で精霊術が無効化されているのかも知れない。
まぁ、考えてみれば、ヘタに明かりを灯せば、遠間から敵に発見されてしまう危険もある。
いくらか身体が動くようになるまで、このまま暗闇に潜んでいるのも手ではあるか。
「月子、すまない。すぐそっちに行きたいが、まだ身体がうごきそうにないんだ」
「……」
「しばらく、じっとしていようか……」
声を潜めつつ話しかければ、合わせて彼女も無言となる。
「……せんせい」
ふと、微かな囁き声。
「どうしたんだい? 月子」
「……なにか、おはなし……してください」
『先生』か……懐かしい呼び方だな……。
思えば、学園での生活がもう遥か遠い昔のことのように感じられた。
「いいとも、何から話そうか。……ああ、それじゃ、美須磨、君と初めて逢った日のことからだ」
僕は話し始める。
初めて出逢った月子に見惚れてしまったこと。
職員室で挨拶され、事務的な会話をしている間、内心では舞い上がっていたこと。
クリスマスパーティーで会えなくて残念に思ったこと。
月子は相づちも打たず、僕のとりとめもない話に聞き入ってくれているようだ。
「こう見えて、僕はダンスが……それなりに踊れるんだよ。そう言えば、結局、君のドレス姿を見損ねてしまったな……。きっと、とんでもなく綺麗だったろうに。……ははっ、いや、普通の私服姿さえ、まだ見せてもらってなかったっけ……。月子は、どんな恰好でも素敵だけど……、ごてごての防寒コーデは、少し……見飽きてしまったかなぁ……」
それから、月子が失踪したとき、心配で心配でたまらなかったことを話す。
アーケード街で不良連中から助けるつもりで助けられてバツが悪かったこと。
あの下品な理事長に対しては、正直なところ、ずっと腹に据えかねるものを抱えていたこと。
不謹慎だが、彼の無様な姿を見られて、ちょっと気分がスカっとしてしまったことも。
「そして、この世界に来たんだったな」
「……はい。……ゆめみたいなせいかつ。だれも、いやな目をむけてこない……やりたいことをやれて……ほめてもらえて……。……やさしい人と、ずっといっしょ……で……私、生きてた」
長い間、話し続け、ちょっとばかし疲れてしまったかも知れない。
月子の声が、なんとなく遠く聞こえた。
「……しょうごさん……わたし、しあわせでした」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
愚かな男は気付かない。
一見すると、少女の身に目立った損傷はなかった。
だが、彼女の細い肢体は地面から一メートルほど宙に浮き、仰向けとなっている。
太く鋭い、天然の岩の杭によって、背中側から腹部を刺し貫かれているのだ。
それは愛し子を傷つけてしまった地の精霊の慟哭か、地面が小さく震えている。
この場は極寒の冷気に支配されていた。
美しい少女の肢体は、徐々に体温を失い、既にうっすらと霜に覆われ始めている。
それは愛し子を包み隠さねばならない水の精霊の哀泣か、幾筋もの雫が流れ落ちていく。
少女の精霊術はどうしたことか効果を発揮しない。
いや、理由は明白……もはや、その魂が失われようとしているためだ。
岩の杭を伝って、どくどくと大量の血が……彼女の魂が流れ出していた。
男の目前で、最愛の少女の生命が尽きようとしていた。
愚かな男は気付かない。
彼の生命もまた、もう長くはなかった。
激しく何度も地面へ叩きつけられたことで、大柄な身体はまるでぼろくずのようだ。
腰から下はほとんど原形を留めておらず、顔面をえぐられ、両の眼も用を為していなかった。
即死していないのが、痛みを感じていないのが、不思議なほどの重傷である。
傍らに転がっている角灯が照らし出す少女の惨状を見ずに済んだことは救いと言えるのか。
二人の転移者たちの旅が、間もなく、終わろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……月子? ねむったのかい?」
問いかけるも、返されてくる声どころか身動ぎする気配さえもない。
相変わらず、僕の身体はまるで動きやしない。
異世界に来て、大分鍛え直したと思っていたが、まだ足りなかったようだな。
「もうすこしだけ……待っていてくれ……。すぐ、君の下へ、行くから……」
もう聞いていないだろうと分かってはいたが、何故か焦燥に駆られ、なおも話し続ける。
「そうしたら、ずっと一緒だ……。そろそろ、ベア吉とヒヨスも……寂しがってる頃だろうな。……また、カーゴに乗って、みんなで旅をしよう。僕たちは、一体どこまで行けるだろう……」
そうだ。思えば、僕たちには次の人生まであるんだよな。
今生を添い遂げた後、また月子と生きられるんだ。
「……ああ、さっき、君は『幸せだった』なんて呟いてたっけ。バカを、言っちゃ、いけないな。ゴホッ……いままでのせいかつなんて、比較にならない、しあわせが……これからの君を待っているんだから……ごっふ、ごふっ! ハァハァ……すごいぞ……人生、ふたつぶん……だ……」
いかん、なんだか急に、僕も眠くなってきた。
月子と一緒に眠ってしまったら見張りができないんだけどな。
それに……目覚めのキスをあげないと、彼女は少し機嫌を損ねてしまうんだ。
「けど、これは……むり、かな。すまない、ぼくも……すこしだけ……ねむらせ、て……」
――はい、おやすみなさい。松悟さん。お疲れさまでした。
それは、もしかしたら幻聴だったのかも知れない。
ただ、大好きな月子の声――心の奥にまで沁みいってくるかのような玲瓏たるクリアボイスを最後に聞けて、僕は、ホッとした心持ちで、意識を……完全に手放したのだった。
――おやすみ、月子。僕の最初で最後の愛しい少女。





