第三十一話： 高みへ還る月の姫
ひとまず、僕たちはその場で最優先事項を処理する。
急いで空洞の外へ脱出したいところだが、肘の先から切断されてしまった僕の両腕が、予断を許さぬ状態であることは言うまでもないだろう。
正直、激痛だけでなく、両腕を失ったことによる体重バランスの変化もあり、出口の大扉まで歩いていける自信すらない。我ながら情けない限りだが。
腕を覆っていた氷塊を解かし、月子に支えてもらいながら、斬り落とされた両腕と切断面とを繋ぎ合わせてポーションを煽る。
果たして、腕はかろうじて繋がった。
が、形として繋がってはいても、手首も指もピクリと動かすことさえできなかった。
仕方あるまい。とりあえず痛みが我慢できる程度にまで和らいだことを良しとしよう。
「松悟さん……」
「僕は大丈夫だよ。すまない、時間を取らせた。急ごうか」
――否、もはや逃れられぬ。
「ケオニ王？ まだ！？」
すかさず僕らが振り向けば、ケオニ王はまだ水球の牢に封じられたままだった。
しかし、目だけはしっかりとこちらを見据え、水の中から思念を送ってくる。
――儂はもう手も足も出ぬ。されど手遅れよ。周りを見るが良い。
その言葉を受け、周囲に目を向ければ、確かにどこか違和感がある。
腰に吊されている角灯を手に取った月子が、高く掲げて明かりを照らし出すと、ただの岩壁であったはずの天井や壁の状態――色と質感が明らかに変化しつつあった。
単なる土塊や鉱石でしかない無機物から、有機的な印象を受ける赤い物質へと。
肉の塊を思わせる不気味なソレに、床や大扉をも含めた空洞全面が置き換わるまで、気付けば一瞬のことだった。いいや、思わせるではない……。ソレは弾力があり、微かな暖かさを感じる、まさしく肉そのものだ。
「これは！？ いや、それよりも……閉じ込められた！？」
とてつもなく巨大な生物に飲み込まれ、内側から見た体内。誰がどう見ようと、そう表現する他はないだろう光景が視界のすべてに広がっている。
「地の精霊に我は請う――」
「火の精霊に我は請う、燃えろ！」
咄嗟に精霊術を試みるも、月子の請願は地の精霊にどのような事象も起こしてもらえず空しく響き、僕の火の精霊術【火球】は、肉の壁に対して小さな焦げ痕一つを付けただけ。
と、僕らの精霊術に応えたわけではあるまいが、肉の壁が更なる変化を見せ始める。
先ほどの月子とケオニ王の戦いにより、激甚な震災の跡地ででもあるかのように隆起沈降した地面は、そのまま巨大な肉の芽と抉れた裂孔めいた不気味な有様となっていた。
その地面が、徐々に平らに、なだらかに、均されていき……。
突然、数十メートルに亘り、真っ二つに裂けた。
裂け目の中心にいた僕らはまったく反応できぬまま足場を失って虚空へと投げ出される。
「届いてっ！」
刹那の判断でワイヤーリールに結ばれた短刀を抜き放ち、十メートル以上も離れ、加速度的に上方へ消え去っていこうとしている地面へ向けて投擲する月子だが、流石の彼女を以てしても、空中での不安定な体勢からでは届かせられそうにない。
「風の精霊に我は請う、跳ね上げろ！」
僕の【高飛び】が二人の身体を吹き飛ばすも、やはり対岸は遠く、とても届きそうにはない。
しかし、吹き抜けた一陣の風は、宙を進む短刀を拾い上げ、矢のように力強く飛翔させる。
真っ白な刃がぞぶッ！という生々しい音を立てて肉の壁に突き刺さった。
「松悟さん！ こちらを……あっ！」
すかさず、月子はワイヤーリールの本体を僕へ向けて放ろうとするが……そう、動かないこの両腕では、それを掴むことはどうやったって叶わないだろう。残念ながら、ここで詰みだ。
「待ってください！ 松悟さん！ 待って！」
広く、深い、漆黒の大穴を落ち行く僕と、ワイヤーで壁に吊り下がろうとしている月子とは、瞬く間に距離が離れていってしまう。既に、お互いの腰に吊された角灯の明かりしかハッキリと見て取れない距離になってしまった。
「ま、落ちるのは僕だけで良いさ。【大気の壁】で着地できるかどうか少し賭けになるからな」
遠ざかっていく灯りを眺め続ける。
真っ暗な空間に浮かび上がるそれは、彼女の名前と同じ、夜空の月を思わせた。
「綺麗だ」
一定の間隔で風の精霊へ請願し、落下速度を緩めてもらいながら、月へ向かって手を伸ばす。
もちろん、僕の両腕――肘から先はピクリとも動かすことはできない。
それでも心の中で精一杯に手を伸ばした。
「月子、愛してる……」
大丈夫だ。僕はもう月にだって手が届くことを知っている。大声で吠えたりせずとも声が届くことを知っている。なんだったら月へ昇ることさえできそうだ。君のためなら、僕はなんだってできる気がするんだ。
そこで、ふと気付く。
本当の月と思えるほど小さくなっていた灯りが、見る見るうちに大きくなってきている、と。
「しょ、う、ご、さぁー……ん！」
月子っ！？ な、何故？ 来るにしても、あのままワイヤーを命綱に少しずつ降りてくれば……いや、今はそれどころじゃない！
「風の精霊に我は請う、彼女を全力で受け止めろ！」
繰り返しの【大気の壁】によって速度を大幅に緩められている僕とは異なり、凄まじい加速で流星のように落ちてくる月子に気付き、慌てて大気のマットで受け止めていく。
一度だけでは足りず、一瞬で僕を追い抜きそうになる彼女に対して更にもう一度。それで僕の身体は彼女の腕の中に抱き留められた。
「松悟さん、つかまえました！」
「なんで来たんだ！？ 君まで博打に付き合う必要はなかったはずだ！」
「私も頼ってください！ 前にも言いましたよ！ 二人で生きるんです！ そうでしょう？」
……ああ、それを言われては、何も返せないか。
死ぬ気ではなかったが、ちょっと自己犠牲に浸っていた自覚はある。
まったく、この子には敵わない。
「わかったよ、君の力を貸してくれ」
「はい！」
それからは、二人でひたすら精霊術を請願し続けた。
数秒おきに突風や旋風を起こし、氷の足場や水のマットを作り出す。
都度、一時的に落下速度が弱まり、その合間にはワイヤー短刀を壁に向かって投擲した。
だが、いずれにしても状況を劇的に好転させるまでは至らない。
時間にしたら僅か数分のことだろう。
それでも、軽く数百メートルに及ぶ空中遊泳である。
その果てに、僕たちは激しく地面へと叩きつけられることとなった。
