前編: 怯えながら歩む男
幾重にもまとった防寒の守りを以てしてもなお僕の身を凍えさせてくる極限冷気。
現在のところは雪も止んでいるが、びゅーびゅー激しく吹きすさぶ寒風の厳しさと言ったら、気を抜けば即座に凍りついてしまいそうなほどだ。
加えて、強風をものともせず上空に渦巻く分厚い黒雲、薄暗い風景に気持ちさえ凍てつく。
ふと不安に駆られ、毛皮の手袋を着けた右手をグッパグッパと開閉させてみたり。
『ほっ、どうやら凍傷の心配はいらないかな』
ついでに背中で負った風呂敷包み――簡易バックパックの位置擦れを直しつつ、左の手に握る登山杖を突いて一歩一歩、心なしか踏み足も強くなる。
積雪は固く凍結しており、沈み込んで足を取られることはなさそうなのが救いか。
反面、非常によく滑るため、初めのうちは転ばないように歩くだけで一苦労だったものだが、試行錯誤の末に具合の良い雪靴が出来たお蔭でそれも解決した。
とは言え、ここは見知らぬ雪山……おそらく山腹付近のはずである。
起伏は比較的なだらかなれど道なき道の尾根、足下に注意しなければならないのは同じこと。
慣れない山歩きということを差し引いても、想定以上のペースで疲れが溜まっていく。
見知らぬ雪山……。
慣れない山歩き……。
そう、それらも大きな悩みの種だった。
実は……いや、お察しの通りと言うべきか? 僕は孤独な雪山ハイキングを趣味とするようなイカした登山家などではない。
基礎的な山の知識もなければ、現在地についてもろくに分かっておらず、こうして実際に歩き、手探りで調査探索している最中……つまるところ、割りとガチめで遭難中の身の上なのである。
どうしてこんなことになっているのか、それを説明するとそこそこ長くなる。
うん、まぁ、ひとまずは措いておこう。
正直、あまり余計なことを考えていられる状況ではないのだ。
『ずっと何かに見られている……と思うんだ』
こちらの心身に絶えず負荷を掛けてくる、些細な、しかし無数の違和感があった。
視界の端に一瞬だけ映る陰、風音の合間に混じる微かな呼気、不自然なタイミングで発生する枝落ちや転石……過敏になった神経が生み出す錯覚だと、気のせいだと誰かに言われてしまえば、もしかしたら納得してしまうかも知れない。
都度、周囲を探るも痕跡にすら気付けず、だからこそ逆にザワザワと不安が増幅されてゆく。
これまでも小動物くらいは目にしており、辺りに生き物が棲息していることは疑いようもない。
実を言えば、大きなクマの死骸も発見しているため、これが逃げ出して野生化したペットだと言うのでなければ、近隣にまだ別の個体が棲み着いている可能性まであり得る。
いや、想像してみると、そんなクマにばったり出くわすだけでも十分すぎるほど恐いのだが、気配はすれど正体がまったく分からないことにはまた別種の怖さがあるものだ。
野生動物と出遭ったら、大きな音や急激な動きは厳禁……なんて話をよく聞くじゃないか。
反射的な怒りや昂奮を招いたり、狩猟本能を刺激してしまい、結果、襲われかねないのだとか。
ひとまず、そんな説に従い、警戒を強めつつもペースは乱さないよう歩を進めてきたが……。
『うーん、やっぱり、考えすぎなんじゃない?』
周囲は見通しが良く、大型の獣が潜める繁みや岩陰などはない。何処に何がいるって言うんだ? それも長時間、ただ後を付けてくるだけ? ナンセンス、意味が分からない。なんかの妖怪じゃあるまいし。すぐ襲ってこないんだから、せいぜいネズミくらいが関の山。近隣住人が見慣れぬ余所者を偵察してるとかだったら、むしろラッキーなのでは? 人里に案内してもらえるかも。
……と、頭の中の楽天的な部分がまくし立て、次第に意識の多くが同調し始める。
『いや、流石に相手が人間だとは思っていないけどね。友好的だとも限らないし、こんな山中で人に出くわすとか、ヘタすりゃ猛獣に遭うよりよっぽど恐い』
とにかく、結局、何も行動ができない。
これまで危険な生き物と出くわさずにいられた幸運が逆に災いしていた。
知識と経験がまるで足りておらず、更に言うなら、護身用の武器や覚悟も足りていない。
熟練の狩人やら剛胆な冒険家やらであればともかく、狡猾で危険な未知の怪物から虎視眈々と隙を窺われている……なんて妄想が頭を過ぎったら、僕如き凡人が平静を保つのは至難の業だ。
少しずつ散漫に漏れ出していく意識。少しずつ惰性になっていく動作。
それらは、端から見れば間の抜けたとしか言いようがない形で状況を動かした。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
僅かな岩肌と疎らな雑木を除けば、積雪と靄と曇天、いくら歩けどろくに変わらぬ灰色の景色。
ふとした拍子、そこにちらりと暖色が混じる。
『ん、また何か……って!? はあ?』
すぐに幻だということは分かった……が! それは今の僕にとって決定的に効く。
これまでの虞とは真逆の方向性、ゆるすぎるイメージ――毎日の学校帰りにいつも寄っていたラーメンの屋台――幻視したそれに、張り詰められていた緊張の糸が大きくたわむ。
温かいスープ……やめろ! 思い出すな!
さっぱり鶏ガラネギ多め……余計なことを考えるな!
重い荷物なんて下ろして休もうや……安全な場所に着いたらな!
連鎖! 連鎖! 連鎖! まずい! 脳の不要な処理が止まってくれない!
それに併せ、自覚しないようにしていた疲労までがどっと押し寄せてくる。
『あぁ、今更だけど、やはり休息だけは摂っておくべきだったよなあ』
時間としては刹那、すぐさま気を引き締め直すことはできた。
が、何か起きれば絶対ヤバいという状況下、僅かな気の弛みでさえ明確な隙となる。
えてして、不運とはそうしたタイミングを見逃さないものだ。
ましてや、こちらを狙う敵であるのなら――。
――るりゅぅ……っ。
脳裏を過ぎる死の予感!
突如として警戒範囲内に現出する、これまでになくあからさま気配が!
やはり姿はまったく捉えられない。しかし、間違いなくどこかに……いや、迫り来る!?
瞬間、僕は脱兎の如く駆け出した。
後ろに意識すら向けず、もう余計なことなど考えない。残りの体力も気にしない。
この自慢の雪靴は、かんじきやスキー板じみた広い底により、雪上を高速滑走できる逸品だ。
ただただ踏み出す足下と前方の様子にだけ集中しながら全力で滑り、駆ける。
元より、逃走だけはあらゆる状況における最上位選択肢として心に留めていた。
ある程度の備えがあるならともかく、ろくに余裕もない状況で戦いなどまっぴら御免である。
どれだけ情けなかろうと、どうせ自分以外の誰に見られているわけでもないのだ。
冷静になって後から考えると、敵の正体くらいは視認しておくべきだったと思わなくもないが、このときの僕は、一目散に逃げる。僅かでも速度を緩めたら殺られる。それだけだった。
……まぁ、悲鳴を上げなかっただけでも、僕にしては上出来だよ。
ほとんど激突と言った方がよさそうな勢いで岩壁へ突っ込んだ僕は、そこで初めて振り返り、正直、持ち上げるのさえおっくうな杖を中段に構えながら背後を見渡す。
疲労困憊で視界がなかなか定まらず、激しい吐息まで白い霧と化して目元を遮ってくる。
『どうやら、追ってきては……いない……か?』
まだ気を抜くには早いと頭では理解しているものの、周囲から敵の気配が消えたと認めれば、流石にもう立ったままではいられず、膝から崩れ落ち、ぜひーぜひーと全力で呼吸を調えるのみ。
いや、ホント死ぬかと思った。やっぱり危険な生き物がいたじゃないか。誰だよ……気のせいとか言った奴……。脳内の楽天家、お前だよ! あいつには責任を取ってもらいたい。次回から脳内会議に席があると思うなよ!!
とりあえず、本当に外敵が居ることが分かったのは収穫と言えるだろうか。
今後も知らぬまま探索を続けていたら、いずれ更に危険な状況で襲われていたかも知れない。
新たな不安の種を抱えてしまったが、危険を知り、無事に帰還できたことは喜ぶべきだ、うん。
数分ほど休み、呼吸と心拍とハイなテンションを落ち着かせた僕は、改めて後ろへと向き直る。
視界のすべてを覆い尽くす……あまりにも巨大な岩壁が、そこにはあった。
ほぼ垂直に切り立つ上を仰げば天空まで貫き、左右は視界の果てまで途切れることなく伸びる。
どれだけ離れようと全体の輪郭が確認できないほどの偉容だ。
実際、周辺探索の際にはちょうどいい目印となっている。
もしも登っていくことができたら、辺り一帯を手に取るように見渡せるのだろう。
残念ながら、現状での登攀など検討するまでもなく不可能だが……。
おもむろに高嶺を見上げていく。
当然、登頂に憧れを馳せたわけではない。
視線の先、真上に手を伸ばして垂直跳びをしようと届かぬ高さの岩棚に、大人でも立ったまま余裕で通れそうな大穴が、ぽっかり口を開けている。
「ただいま。どうにか帰ってこられたよ」
些か自然志向に過ぎるこの場こそ、今現在の、狭いながらも楽しい我が家というやつなのだ。