5
翌日は思わぬ雨で宿から動けず、その翌日はぬかるんだ道を馬で歩いて進んだ。
さらに翌日には地面はしっかりと乾いていたが、逃亡三日目ともなるとそろそろ日が出ているうちの移動は控えるべきだとシスベルと意見が一致した。
見た目と名前だけは目立つ私達だ。
日中は宿で休息をとり、夜半に馬で移動することになった。
昼夜が逆転した生活は辛いものだと思っていたけれど、お嬢様生活をしていた私には夜の馬乗りはとても刺激的だった。
「あんた、意外とタフだな」
「状況が状況だけど、今、すごく楽しい!」
もちろん、そんなアドレナリンが出るのはほんのわずかな時間だけである。
慣れない馬乗り、宿で休めるとはいえ枕は変わるし、さらに夜通しの移動を二日もこなせば当たり前に体はおかしくなる。
シスベルには「十分タフだよ」と呆れられた。
「とりあえず寝て。時間が許す限りベッドから起き上がるな」
新たな宿に入った途端に薄い布団に押さえつけられ、頑として譲らないシスベルに私は大人しく従った。
「シスも休んでね?」
「あんたが寝るのを見届けたら」
そう言って私のベッドに腰掛けるのだから、シスベルに対しての違和感が拭えない。
これまで従者として私に接していたはずのシスベルが、なんだかやけに境界線を飛び越えてきているような。
もちろん今の状況で細かいことは取っ払っても構わないし、そもそもシスベルに従者らしさはなかったけど。いえ、シスベルなりに従者らしくはしてくれたけど。
……私の髪をすくっていくのはなぜなのかしら。頭をなでてくれるなんて、私はもうすでに夢の中にいるの?
「シス?」
「なに」
愛想なく返ってきて、まだ夢の中じゃないと目をぱちくりさせた。
「なんだよ、嫌なのかよ」
罰が悪そうに手を引っ込めるから、私はますますわからなくなった。
私から触ることはあったけど、シスベルから触ってくることなんて滅多にあることではないのに。
もしかして、シスベルなりの最大限の優しさだったりするのかしら?
そう考えれば、たちまち嬉しくなった。
「嫌じゃない。もっとなでて」
「……寝るまでだからな」
「できるだけ堪能したい」
「早く寝ろ」
大きな手のひらで両目を覆われ、強制的な寝かしつけに入ってしまった。
「いつでもなでてやるから」と口の中でつぶやかれては、緩む口元をそのままに眠るしかなかった。
❇︎
疲れからすっかり寝入ってしまい、目が覚めたのは鮮やかな夕日が窓から差し込む時刻だった。
私のあとに休んだはずのシスベルはもう起床していて、寝起きの私に水を渡してくれる。
「体調は?」
「ぼーっとする……」
「熱でも出たか?」
躊躇なく前髪をさらりと分けられ、おでこに触れられた。
「ううん、まだ頭が起きてないだけ……」
「本当に? 無理そうなら、今日はこのままここで休んでいくけど」
「私は大丈夫だよ」
おでこにあるシスベルの手を捕まえ、それを自分の頰に持ってきてふにふにと押しつける。
シスベルはぎょっとしたが、私はそんなことなどお構いなしに大きな手のひらに包み込まれる感触に目を閉じた。
「シスの手、好き。安心する」
「あ、あんたは……あぁ、もうっ」
すぐに手を引っ込められるかと思いきや、シスベルは私に掴まれた手をそのままに、むしろ逆に指先でふにふにと摘んできた。
これまでではありえない行動に私はまたしても「あれ?」と驚く。
寝る前になでてくれたのが優しさなら、今のこれはなんだろう?
「シスが触ってくれる……」
「は?」
「いつもなら怒るのに」
「だめかよ」
「ううん、嬉しい」
理解できないままだけど素直に告げると、シスベルの顔がみるみるうちに赤くなっていった。
頰に触れたままの手も熱を持ち、反対の腕で口元を隠すと目を背けられてしまった。
「……俺だってあんたに触りたい時くらいある」
あぁ、私の従者はなんて可愛いのかしら。
普段は無愛想なシスベルからは考えられない殺し文句に、私の胸はきゅんきゅんとして止まらない。
「シス大好き!」と両手を広げて抱きつこうとすると、頰にあった手が私の眼前で広げられた。
「ちょ、それ以上はやめろ。俺の理性だって限界があるんだ」
「理性……?」
んんっ、と咳払いをしたシスベルが私から距離を取る。
従者らしい立ち位置に戻ると、いつのまに手に入れたのか領地の地図を広げて見せた。
「屋敷を出てから北に走り、俺達が今いるのはこの街。ここから隣の領地に向かうと、何事もなければ三日後にはたどり着く。ただこの先にもう宿をとれるような人の集まるところはないから、あんたにはそれを覚悟してほしい」
「うん、なるほど……」
「野宿に備えての準備も必要だ。馬に食糧や荷物を乗せなければならないから、俺とあんたは歩くことになるけど」
「そうね」
「いけそうか? 最悪、俺が荷物を背負うことも考えてる」
「バカにしないで、ちゃんと歩けるわ。……あ、でも」
そうなると、考えなくてはいけないこともある。
これまでのようにシスベルの操る馬に跨るだけじゃないのだから、私も相応の準備をしなければ。
シスベルに伝えると渋い顔をしたけど、荷物を増やしたくないし新しい物が必要なわけではないので、そこは納得してもらった。
準備を整えた私を見てなんとも表現しがたい顔をしたシスベルは、不器用な私に代わって髪を結い上げてくれ、ようやく日の暮れた街に繰り出す。
小さく、煌びやかさはさほどない街でもなるべく外套で顔を隠しながら出発の用意を進め、ついでに簡単に食事を済ませていた。
「……あんたって何でも食べるよな」
「うん?」
店には入らず屋台で買った串焼きを頬張っている最中だ。
片手に保存食を入れた紙袋を抱えたシスベルは、感心なのか呆れなのかわからない調子でそんなことを言う。
「おいしいよ?」
「それは当たり前だ。そうじゃなくて、仮にもお嬢様なんだから抵抗とかないのかなって」
「抵抗……」
生粋のご令嬢、リーゼロッテなら断固拒否したかもしれない。
だけど生憎なことに私は中途令嬢なわけで、その辺の抵抗は皆無である。なんなら店先から漂う香りに惹かれてふらふらと立ち寄ってしまう。
これはリーゼロッテとしては問題なのかなぁと、改めるべきか考える。
「まずいかなぁ」
「いや、別に。ただそういうのを気にしないんだなと思っただけ」
「うーん……気にしなくなった、が正しいかな」
婚約破棄をされて脅かされる立場じゃなくなったし、庶民が売っているものならなおさら毒なんて入っているわけがなく、そちらの方が安全でもあるし。
まぁそもそも中身が違うのだから、シスベルに言われるまでそこに思い至ることもなかったけれど。
「面倒な立場だったんだな」
「そこそこに」
「……今も面倒な立場は変わりないか」
「前ほどではないわ」
「いや、面倒だよ」
いきなりシスベルに腕を引かれ、建物の陰に連れ込まれた。
覆いかぶさるように壁に手をついたシスベルは、私に顔を寄せて「静かに」と周囲を警戒していた。
「な、なに?」
「何人か尾いてきてる」
「えっ……」
「ここにいても見つかる。走るぞ」
また腕を引かれ、食べかけの串焼きを落として私は走らされた。
明かりのない路地裏をぐねぐねと曲がり、路地裏から路地裏に身を潜める。後ろから男の声が聞こえた。シスベルはまた走り出し、ぐねぐねと追っ手を撒くように走った。
もはや私はどこを走っているのかわからない。続く暗闇をシスベルに引っ張られ、前を行く背中をただひたすらに追っていた。
明るい通りを横切り、また路地裏へ。男の声と数人の足音が近づいてくる。
シスベルが舌打ちをした。
「大人しくしてろよっ」
「きゃあ!?」
一瞬走る速度を落としたシスベルに追いつけず、勢いあまって転びかけると、私の体はふわりと浮いた。シスベルに小脇に抱えられていた。
そのまま荷物持ちでシスベルは走り、路地裏を抜けて人通りある街中へ。わざと人目のある道を走った。
だが、追手の男達も同じく街中へ出てきた。明るみになったその手にはそれぞれに物騒な得物を持っていた。
一人が構えた。
「人目があってもお構いなしか……!」
パンッと乾いた破裂音と、私達を追い越した先で石壁に弾けた音。
私は途端に青ざめた。
「シ、シス!」
「大丈夫だから。目閉じて耳塞いでろ!」
そしてシスベルは再び路地裏に走り込むと、またわざと真っ直ぐな道を進んだ。男達が一気に距離を詰めてくる。
脅しかけるような大声に、走りながら向けられる得物の先端。
シスベルはちらりと後ろを振り返り、いつのまにか空いていたもう片方の手で指先を振った。
背後からいくつもの爆発音と、物の崩れる音が聞こえた。
男達の声が遠くなる。
シスベルはまた指を振った。爆発音と、今度は地面が破裂した音。
どんどん遠ざかり、感じるのはシスベルの足音と荒い息づかいだけとなった。
路地裏を抜けて、さらに迂回してようやく泊まっていた宿に逃げ込んだ。
部屋に入るなり私はベッドに放り投げられた。
「シス……」
「しっ。まだ」
耳を澄ませれば、外の通りを迷いながら走る足音が聞こえる。
シスベルは窓横にぴったりと体を寄せて男達を窺っていた。
足音が遠くへ去っていく。
「――――はぁー…………」
どさりと、シスベルがベッドに仰向けに倒れ込んできた。
荒い息切れに、月明かりで光を帯びる汗の粒。
私も安堵の息を漏らした。
「びっくりした……」
「びっくりした。あんた、足遅すぎて……」
「えぇっ」
そこなの?
あんな、いかにもな男達に追われて発砲されて、驚くのがそこ?
シスベルは荒い息づかいのままで文句を言う。
「スカートじゃ動きづらいって言うから俺のズボンを貸したのに、意味なかったじゃないか」
「だって……! シスのズボン、大きいんだもの!」
「だからあんたのサイズで買おうって言ったんだ。断ったのはそっちだろ」
「シスのでいいと思ったの!」
納得がいかないけれど、シスベルのウエストの細さなら裾を捲れば私でもちょうどよく履けると思っていた。あれだけ鍛えていても羨ましいくらいに細身だから、本当にいけると思った。
見誤ったのはリーゼロッテの体の細さだった。
「あんたの細さじゃでかいに決まってる」
ぐうの音も出ず、私はしおらしく謝った。
「……予想はしてたけど、あっさり見つかったな。今外に出るのは危険だから、明朝に出るか……いや、それじゃ遅いか?」
「夜更けに出る?」
「あいつらが応援を呼ぶ前にここを出ないと。準備だけしておいて、様子を見て…………あっ」
ようやく息の整ってきたシスベルは私の返答を求めずぶつぶつとつぶやいていたが、いきなり声を上げた。
暗い室内、静寂の中でのそれは心臓に悪く、私は仰向けのままのシスベルに咄嗟にしがみついた。
「え、なに」
「シスがなんなの!?」
「あー、いや……悪い」
「な、なに? なにが?」
「荷物。焦って捨ててきた」
言われて、はたと気づく。
そういえばいつの間にかシスベルの手には紙袋がなくなっていた。爆破魔法を使った時に一瞬気づいたけれど、それどころじゃなかった。
私は大きく息を吐いてシスベルに改めて体を寄せた。
「そんなの、シスが無事ならどうでもいいことだわ……」
「どうでもよくない」
「私がなんでも食べるの知ってるでしょ? 木の実でも草でも食べてやるわ」
「いや、さすがにそれはやめてくれ……」
ふっ、と笑みの溢れる気配。
体を起こしてみれば、眉尻の下がったシスベルと目が合う。
月明かりの下で汗の粒はまだ光を帯びていた。
そっと、長めの前髪を掻き分ける。
「助けてくれてありがとう、シス」
するとシスベルは片膝を立てて上半身を起こし、私の頰に手を添えた。
「……無事でよかった」
添えられた手が、私を引き寄せる。
シスベルの真っ直ぐと見つめてくる瞳が私を射止めようとしていた。逸らすことは許されず、けれどシスベルが先に目を伏せた。
真っ直ぐ見つめ続けるには、その距離はもう近づきすぎていた。
「――――……いや」
一瞬目線を横に投げ、シスベルの動きが止まった。
私の頰に添えられていた手がすっと離れ、目の前にあったシスベルの顔も離れていく。
「今じゃないか」
そう言って、「顔洗ってくる」と部屋を出て行ってしまった。
残された私は微動だにできず、閉じられた扉を見つめながら頭の中に湧く疑問符に体中の熱が上がった。
シスベルの甘く絡みつくような雰囲気が余韻として残り、私は両頬を押さえて首をぶんぶんと振った。
「そ、そんなわけない。そんなわけないっ」
悪役令嬢のリーゼロッテなのに、そんな都合のいい話があるわけない。
力いっぱい否定して、頭の中の疑問符を振り払うのに精一杯だった。
窓の割れる音に振り返った時、私の意識はあっさりと彼方へ飛ばされてしまった。