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渋るノーマは「ロックウッドに反逆の意思あり」と大事な言付けを持たせて王都に送り出した。
他の使用人達も王都の屋敷に移るか暇を出すことにし、ロックウッドが訪ねてきた翌日の夜には夜逃げも同然で一斉に屋敷を出た。
もぬけの殻となった屋敷には、ロックウッド宛に置いた断りの手紙だけが残されている。
私とシスベルは外套を纏い、夜闇の中を人知れず移動した。
「あんた、馬乗れる?」
「乗るだけならできると思うわ」
「……馬は一頭でいいな」
「何よそれ。シスは乗れるの?」
「はっ、余裕」
やけに強気なシスベルは夜明けに馬を一頭だけ購入し、かちんこちんに固まって馬に跨るだけの私を支えて見事に乗りこなしてみせた。
乗馬なんていつの間に習得していたんだろう。
小説上では『兵器』としか書かれていなかったシスベルにはそれ以上の設定などないはずなのに、あまりの優秀さに真のヒーローは彼なのではと錯覚してしまいそうになる。
もしかしたら、リーゼロッテかシスベルの外伝があったのかもしれない。シスベルがヒーローならぜひ読みたいわ。
「……なぁ、なんで王都に帰らなかったんだ? 実家に行けば、あんたは守ってもらえるだろ」
揺れる馬上で背中からシスベルが尋ねてきた。
ロックウッドの企みについては説明せずとも、成り行きから察してくれていた。
「王都に帰っても無駄よ。居場所がバレている以上はどんな手を使ってでも捕まえにくるわ。家族を巻き込みたくないし、何より私は」
――追放された身だから。
口に出しかけて、そういえばシスベルは私のことをどれほど知ってるのだろうかと気になった。
ロックウッドとの会話にそんな話も出たが、そもそも私からシスベルに話したことはなかった。
「シスって、私のことをどれだけ知ってる?」
流れを無視して質問を返すと、シスベルは「はぁ?」と不機嫌そうな声を出した。
「どれだけって何だよ。あんたのことは全部知ってるよ」
「本当に? 私のこと、知ってたの?」
「こんだけ一緒にいりゃ知らない方がおかしいだろ。なんで今更そんなこと聞くんだ」
「だって……私、シスには話してなかったから」
「教えられなくても知ってるよ。あんたのことは」
ふーっとため息を吐いたシスベルは、それから迷うことなく私のことを話し始めた。
「にんじんが嫌いなこと、猫舌だから熱いお茶が飲めないこと、朝は弱いこと、寝癖で巻いた毛先をいつも伸ばそうとしてること」
私はただ驚き呆然と、シスベル目線で並べられた私のことを聞いていた。
「屋敷を抜け出して遊ぶのが好きなこと、ノーマさんに怒られても懲りないこと、俺を巻き込んで怒られるのを楽しんでること」
そしてだんだんと体が熱くなってきた。
「実は日焼けを気にしてること、背が伸びる俺に嫉妬してること、俺の淹れるお茶が好きなこと、俺を褒めるのが好きなこと、俺を……」
もう少し聞いていたい気持ちはあったけれど、私の羞恥心はあっという間に限界を迎えた。
シスベルがこんなことを言ってくれるなんて思わなかった。挙げられたすべてがその通りのことで、私がシスベルをどれだけ見ているかも知られていて。
恥ずかしさに埋もれた私は、けれども間違いを正すために後ろで続けられる言葉を遮った。
「違うの、シス……。私が追放された身だとか、その経緯をシスは知ってるのかなって……」
そんな質問したつもりだったのだけど、思わぬ答えを聞いてしまい顔から火が出そうだ。
シスベルからは「なんっ……!?」と素っ頓狂な声が上がった。
「ばっ……言い方! わかりにくい!」
「そ、そんなこと言われても……」
「あぁくそ、そっちの話かよ! 変なこと言った!」
「嬉しいこと聞いちゃった……」
「あんたは本当に……っ!」
歩いていた馬が止まり、シスベルも黙ってしまった。
どうしたのかと後ろを振り向こうとすると頭を押さえられ、その力は頑なだった。
「……その話はあとで。今は走ることに集中するから」
「わ、わかった」
「屋敷に残した手紙をあの男が見つけるのは、早くても今日のうちだ。できるだけ遠くまで走って距離を稼ぐ。それでいいな?」
「うん。……シス、怒ってる?」
「別に怒ってない。走るから、舌噛みたくなきゃもう黙ってろ」
手綱を握りなおし、シスベルは馬を走らせた。
歩いていた時とはまったく違う振動。私は必死に振り落とされないように馬にしがみつくと、察したシスベルがさりげなく体を寄せて支えてくれる。
伝わる体温が、先ほどよりもずっと熱くなっていた。
❇︎
「で? あんたはどんな悪さをして王子から婚約破棄と追放を言い渡されたわけ?」
休憩を挟みつつ馬を走らせ、陽が落ちる寸前に小さな街に入った私達は外で食事を済ませてから宿に入っていた。
さすがに長い時間馬に乗っていたせいで、日々鍛錬を欠かさないシスベルですらも疲労感を隠せずにいる。
日々優雅にお嬢様をしていた私の足腰が役立たずになっていることは、もちろん言うまでもない。
狭い部屋に備えられた簡素なソファにシスベルが、布団に厚みのないベッドに私が、それぞれにぐったりと体を預けていた。
「なによシス、やっぱり知ってるんじゃない……」
「まぁ有名だからな。でも詳しい事情は、こんな辺鄙な領地には流れてこないよ」
「婚約破棄、追放ときたら、理由もあっという間に広まりそうなのに」
「何したんだよあんた」
「…………令嬢の嗜み」
濁して答えると、シスベルはなんとも言えない顔をした。
「あんたに令嬢っていうのが当てはまらないんだけど」
「失礼ね! ちゃんと令嬢らしい令嬢をしていたわ!」
良くも悪くもリーゼロッテがね!
体を起こして、ふんっと胸を張ると、シスベルは呆れたように私を見ていた。
「令嬢らしい令嬢が何をしたら王子の怒りを買うんだよ。俺の他に奴隷でも買ってたのか?」
「それが嗜みだなんて、冗談じゃないわ」
「俺のことは買ったのに?」
「うっ。だ、だってそれは……」
私じゃなくて、リーゼロッテが。
心の中で答えて、ハッとした。リーゼロッテがシスベルを買った理由に。
黒の子供が貴族達のペットとして高額で売られていることに。
シスベルだって、その例に漏れていなかったことに。
「……それは?」
続きを促すシスベルは、何気なさを装ってやけに慎重な空気感を醸し出していた。
緊張と期待。自分を購入した私に対して、その理由を知りたいと思うのは自然なことだろう。
いろんな方向からのプレッシャーを受け押し潰されそうな私は、観念して事実を述べることにした。
「運命だったから」
小説のストーリーに、兵器であるシスベルは欠かせなかったから。
私としては申し訳なさを感じながら伝えたつもりだったけれど、そんなことを露も知らないシスベルは目を丸くした後に「ふはっ」と堪えきれず笑いを漏らした。
眉尻が下がり、無愛想なシスベルからは想像もつかない優しい笑顔だった。
「な、なんで? 笑うところ?」
「あんたって、俺にやたら居場所をくれるよな」
きょとんと首を傾げた私に、シスベルはソファから体を起こして笑顔を収めた。
あぁ、シスの稀少な笑顔が……と惜しんだ私だったけれど、続けられたシスベルの話に笑顔は必要のないものだった。
「……俺が人を殺したって話。あんたは、それが事実なら理由があるんじゃないのかって言ってくれたよな」
まっすぐに私を見てくる。
頷いて返せば、シスベルは小さく息を吐いて目を伏せた。
「俺、生まれてすぐに捨てられたか売られたかしたんだ。だから物心ついた時にはすでにどっかの金持ちのペットだった。最初のうちは物珍しさから可愛がられてたけど、俺は物を爆発させるしか能がないから」
扱いが段々と雑になっていったらしい。
包み隠さずにいうと、愛玩奴隷から嫌厭奴隷への変化。その上でさらに、幼いシスベルの魔力は感情に実直に左右されたというから。
「暴発を繰り返しすぎて、その家から売られることになった。それからは買われて売られてを何度か。少しずつ魔力を抑えられるようにはなったけど、どこに行っても最初のうちは面白がられて、最後には気味悪がられる。暴力もたくさん振るわれた」
そして、私と出会う前の家で。
「……そいつは俺が魔力を暴発させたことに、歯向かったと言って殴ってきた。服従しろと殴り続けたんだ。痛くて、怖くて、死ぬんだって思ったよ。どうせ生きててもなんにもないし、それでもいいかなって」
思ったんだけどな。
シスベルは自らの右手を見つめていた。
「気づけば、吹っ飛んでた。……そいつが」
私はシスベルの話を聞きながら、いつかの出来事を思い出していた。
ノーマに二人で雷の如く説教を受けたあの日。シスベルの魔力が暴発して、もう暴発はさせないと耐えて誓ったあの日。
……――感情を表に出さず、心を殺したと言った、その真意を今ようやく知って。
「あんたはそれでも、俺を手放さないって言ってくれるんだろ?」
私は迷うことなく、ベッドを下りてシスベルに駆け寄った。狭い部屋で数歩の距離を駆け寄るつもりだった。
なのに、役立たずになった私の足はかくんと力を失った。
床に落ちる寸前でシスベルに腕を掴まれ、引き寄せられるままに私は抱きついた。
「離すわけない。離すわけないよ、シス」
ふらりとよろけたシスベルは私を受け止めたままソファに逆戻りした。
私の短い悲鳴など気にせず、安堵のため息と共にきつく抱きしめられた。
「俺もあんたを手放さないよ。いらないと捨てられても、気味が悪いと逃げられても、もう――」
手放せない。
耳元で低く囁かれ、胸が締め付けられる苦しさにシスベルの肩に顔を埋めた。
涙が込み上げてきてどうしようもなかった。
「……私が殿下の想い人に嫌がらせをする悪い女でも?」
「婚約者がいるのに他に気を移す方が悪いだろ」
「お互いの気持ちは無視した婚約だったもの……」
小説のリーゼロッテが王子に恋心を抱いている描写はひとつもなかった。だから読者としてはなんの感情移入もせずリーゼロッテを『悪役令嬢』として見ていたし、ただの独占欲だと思い込んでいた。
実際にリーゼロッテに転生してからも、その気持ちは変わらなかった。
恋心よりも、王子を取られたことにリーゼロッテは怒りを感じていた。
「あんたは、王子を好きだったんじゃないのか?」
けれど、その中に少しの悲しみが入り混じるのなら。
リーゼロッテに転生したからこそわかる、不器用な彼女の感情の機微。
高いプライドの前では少しも表に出すことのできなかった恋心。
認めてしまえば、私の中に溢れ出す。
「きっと、ちゃんと殿下を慕っていたわ……」
塗り固められたプライドの中にいたのは、淡い恋に頰を染める少女のようなリーゼロッテ。
政略結婚にしても、そんな素直な彼女だったらヒロインにも負けない愛らしさがあったのに。
今の私の素直さは、もしかしたらリーゼロッテの本当の姿なのかもしれない。
「……王子のことは今でも好き?」
シスベルの問いかけに、私は一瞬も戸惑うことはなかった。
「今はシスが好き」
何よりも大切な私の従者だもの。
その答えに、シスベルは今度は優しく抱きしめてくれた。
「あんたが他に気を移しても、もう手遅れだから。あんたが言ったんだからな」
「……? 何を?」
「運命だって」
気恥ずかしそうにシスベルがそう言うから、私は嬉しくなって小さく笑った。
回してくれる腕に身を委ね、私よりも大きくなった体に寄り添って目を閉じた。
早い鼓動と、柔らかな体温。
うっとりと感じながら、私だけの幸福感に沈んでいった。