SS.やってみたいこと
ストーリーとしてはep.2とep.3の間くらいのお話です。
ぱたん、と読み終えた本を閉じた。
しとしと雨音が窓の外から聞こえる、とある昼下がり。
日課の外気浴は天気のせいで叶わず、私たちは室内にこもって読書タイムをしている。
隣に座って読書をしていたシスベルが私の空いたティーカップに気付き、おかわりを用意するために読みかけの本を置いた。
「ごめんね、シス。読んでる途中なのに」
「俺の仕事なんで」
シスベルはすっかり慣れた手つきでティーポットにお湯を注ぎ、茶葉を蒸らす。
私は次に読む本が決まらず、手持ち無沙汰でシスベルを眺めた。
手元に落とす視線、不機嫌そうに結ばれた口元。剣を習うようになった手は大きくて、指が長くて。だけど私よりも器用な、優しい手。
――その手が髪に触れたら、どんな心地なんだろう。
読み終えたばかりのロマンス小説のワンシーンを思い出して、私はシスベルの手を見つめた。
「……見すぎなんだけど」
「シスの手が綺麗だなって思って」
「別に綺麗じゃないです」
ぶっきらぼうに否定して、シスベルはカップにお茶を注いだ。
私が転生したこの世界、つまり小説内の甘い描写といえば、男性が女性の髪を掬ってキスをしたり手の甲にキスをしたりが定番だ。
元の世界ではあまり見なかった行為。馴染みがなさすぎて、やるほうもやられるほうもきっと羞恥に悶えてしまうだろう。
けれど、その一方で女性の憧れのシーンでもあると私は思っている。
せっかく異世界転生したんだから、私もロマンチックで素敵な体験を一度でいいからしてみたい。
髪を掬ってキスされて、甘く見つめられて。違和感のない世界だったら、どうしたって憧れてしまう。それが大好きな人とだったらどんなに嬉しくて、どんなに特別な時間になるか。今までに感じたことのないほどに幸せなんだろうなぁ、と夢見てしまう。
……まぁ、私は悪役令嬢だけど。婚約破棄されて、追放までされたけど。憧れはあるのだ。相手はいないけれど。
「お待たせ」と置かれたカップの中で、綺麗な琥珀色が揺れる。その中に映り込むシスベルに、誰もやってくれないなら私がシスにやろうかな、なんて投げやりに考えた。そこで、あることを思い出してイタズラ心に火がついた。
「あれがやってみたい」
「あれって?」
お茶のセットが乗ったトロリーを壁際に寄せて、シスベルが顔を上げた。それを確認して、私は立ち上がる。
まっすぐにシスベルを見てズンズンと近づくと、シスベルは怪訝な顔をして身構えた。両手を伸ばして囲い込むようにして、シスベルを壁に追い込めば……
――予想外に追い込まれてくれなかった従者に、私は勢いのまま抱きついてしまった。
「……なにしてんですか?」
「違うの。これは失敗。シスがあまりに強固で」
「はぁ?」
抱きついたまま見上げると、シスベルは一瞬体を強張らせて顔を背けた。
「なんで避けないの?」
「いや、あんたの行動は見えてたんで」
「いつもなら察して逃げようとするのに……」
「別に、逃げてはないです。いつも」
言われて、思い返してみて気づく。
避けようと思えば避けられるのに、シスベルはいつも私にされるがままだ。小言はあるが、だからといって振り払われることはなかった。小言に騙されていたらしい。
気づいてしまえばその優しさが嬉しくて、私は「ふふ」と笑った。イタズラ心はたちまちに消えてしまった。
「シス、大好き」
「……どうも」
「あのね、やってみたいことがあったの。付き合ってくれる?」
私はシスベルから離れ、得意気に胸を張った。
「壁ドンっていうのよ」
「壁ドン?」
「シス、もうちょっと壁に寄って」
シスベルが壁際に下がり、私は改めてまた腕を伸ばす。首を傾げるシスベルの両脇に、とん、と手をついた。
「それが壁ドンですか?」
「……? なんか違う」
壁ドンというものは、相手を壁際に追い込んで逃げられないようにする、私が元いた世界で人気だった胸キュンシチェーションだ。恥ずかしがる相手の顔を覗き込んだり、逃げられない相手に強引にキスしたりと、さまざまな醍醐味があった。
だけど今、私の眼前に広がるのは、私をぐんぐんと追い抜かして背を伸ばしたシスベルの胸元だ。恥ずかしがるシスベルの顔を堪能するはずが、全然高さが足りず届きもしない。胸元しか見えない。なんか違う。壁ドンの醍醐味がない。
シスベルの胸元を見つめ続けて不服な私に、とりあえず大人しく囲われているシスベルが困った声を出した。
「どういうやつです?」
「壁際に相手を追い込んで、逃げられないように両手で囲い込むの」
「今やってますけど」
「違うの。だって高さが足りないもの。囲い込む側が大きくないと」
「つまり、こういうこと?」
シスベルが私の両腕を取った。くるりと翻されて、視界が回る。
あっという間に、私が壁に押し付けられてしまった。両腕はシスベルに捕まったままで、私を覗き込むシスベルの瞳と視線が絡み合う。
「シスっ……!」
「うわ、なんだこれ恥ずかしいな」
私を押さえるために体勢を低くしたシスベルの顔が近くて、囲い込まれて逃げられないことに胸が爆発しそうになる。
シスベルは恥ずかしいと言いながらも私を見つめてくるから、私のほうから狼狽えて視線を外してしまった。
「これでいいんですか?」
「せ、正解です……」
あまりの近さに顔を隠したいのに、腕が捕まったままでそれができない。頬がとんでもなく熱くて、きっと真っ赤になっている。シスベルにこれ以上見てほしくなくて、けれどどうしようもなくて、視線が泳ぐ。
ほんのりと頬を染めたシスベルは、力を緩めずに「それで」と私にトドメを刺しにきた。
「次はなにをするんです?」
「つぎっ……!?」
「なんかあるんでしょ、やること」
「ううん、もういいの。もう十分よシス、離して……」
「ここまでしたんだから、最後までやってください」
急に積極的なシスベルに戸惑う。
「あとになって、やっぱり……ってなっても絶対にやらねぇ」とシスベルは文句を言っているけれど、私はそれどころじゃない。
最後って。この状況で、最後って。私たちに見合う最後って、なに……!?
どれだけ考えても答えは出ず、見つめ続けてくる瞳にも耐えられず、私は最後の判断をシスベルに委ねた。
「こ……告白したり、キ、キ、キス、したり……するの……」
シスベルが止まり、空気が止まる。
――流れる沈黙。
胸の音が聞こえてしまうのでは、と思うほどの距離だ。
何も言わないシスベルをそっと窺えば、耳まで真っ赤に染め上げていた。
「あ、あんた、なに考えてんだ……!」
「ほ、本で読んだのよっ」
「なんの本だよ……」
シスベル以上に真っ赤になっているだろう私は、もう何も言えなかった。それほどに恥ずかしくて、隠れることも逃げることも許されない私は、ただ視線をそらしてやり過ごすしかない。
最後まで付き合ってくれる気でいたシスベルは、どうするのだろう。シスベルの顔を見ることもできず、胸が痛いほどにうるさい。
ふと、捕まっていた腕が解放された。シスベルの動く気配を感じ、私はぎゅっと目をつぶった。
――ばさりと、頭に布をかけられた。
「へ?」
「……ったく。従者相手に、ロマンス小説ごっこしてんじゃねぇよ」
シスベルは冷静な声色で「お湯なくなったから取ってきます」と部屋を出ていき、残された私は壁際でへたり込んだ。
視界をさえぎる布を取れば、それはシスベルのジャケットだった。
「はぁー……」
大きく息を吐く。まともに呼吸できていなかったことに、今になって気がついた。
仕掛けたのは私なのに、見事にやり返された。シスベルは壁ドンが何かを知らずにやっていたけど、それにしたってあれは。
「なんて破壊力……」
まともに目さえ合わせられず。近すぎる距離に、私のほうが負けてしまった。
あのまま見つめ合ったら、きっとシスベルの魅力に吸い込まれていたに違いない。
「恐ろしい従者だわ……」
火照った頬をジャケットに隠す。手触りの硬い生地からはシスベルの香りがして、不思議と気持ちが和らいでいく。
本人を目の前にしてはあんなに心が掻き乱されたのに、ジャケット相手ならこんなにも安らぐなんて。
ぎゅっと抱き寄せて、目いっぱいに優しい香りを吸い込んだ。
その後、ジャケットを抱きしめて手放さずにいた私に、戻ってきたシスベルは「なんつー主人だ……!」とすごく顔をしかめていた。
ジャケットは没収され、シスベルはしばらくぎくしゃくとしていた。
2025.9.9
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