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平凡な家庭。平凡な生活。
何気なく過ごす日々は常に『普通』で、それがどれだけ幸せなものなのかなんて考えたこともなかった。
たまに気づいては実感して、すぐに忘れる。
それが当たり前だった。
「なんってこと……」
そして、そんな前世がどれだけ幸せに満ち溢れていたか、今世の私は瞬時に思い知ったのだ。
「なんってこと……!」
すでに婚約破棄され、数年後には反乱の中心部となる領地に追放され、自棄になって奴隷市場で高額奴隷をポチったところだった。
前世で読んでいた小説の内容を記憶したまま、私は悪役令嬢のリーゼロッテ・ヘンレッティに転生してしまっていた。
「なんってことなの……!!」
頭を抱えて硬直した私の手から金額を記入した小切手が抜き取られ、代わりに購入してしまった奴隷の鎖を握らされる。
重く、冷たい感触は目の前に立つ鉄製の首輪を付けられた少年そのものを表していた。
この国では珍しい漆黒の髪。光を宿さない同色の瞳。それは、魔力の強さの証であって。
奴隷市場で売買される黒の子供達は、貴族がこぞって手元に置きたがる魔法を使えるペットなのだ。
「なんで私は奴隷を買ってるの……!!」
奴隷の少年に見下ろされるという、貴族体裁など気にしている余裕なんてなかった。周りの目だってどうでもよかった。
私はその場でがっくりと膝をつき、迎えの馬車が来るまで、盛大に悪役令嬢の現状を嘆き続けた。
❇︎
私が転生したリーゼロッテは、とある異世界恋愛小説の悪役令嬢だった。
物語の定番、王子の婚約者であったが、突如現れたヒロインに王子の気持ちを奪われてしまう。
それが気に食わず取り巻きを使ってあれやこれやと嫌がらせを繰り返し、これまた定番、王子に婚約破棄と追放を言い渡されてしまったのだ。
リーゼロッテ追放後は王子のアプローチによりヒロイン陥落、恋愛面では大団円的な終わりを迎えていた。
だがストーリーとしてはその間に反乱が起こり、王子の指揮により鎮火したものの、王子が大怪我を負いそこでヒロインが初めて気持ちを自覚するという流れがあった。
反乱は二人の気持ちを固めるための演出だったのだ。
リーゼロッテのその後は詳しく描かれることはなかったが、反乱の首謀者と兵器のやりとりがあったために投獄されることとなる。
そこの作中の描写についても「捕縛された首謀者の口から『リーゼロッテ』の名が出され……」と、それだけのなんとも適当なものだった。
ハッピーエンドを目前とした物語に、作者の頭の中も花畑になっていたに違いない。おざなりにされたリーゼロッテの末路が今の私を苦しめる。
「兵器のやりとりって何よ、私!」
兵器。兵器って!
どれだけ悪役キャラなのと思う反面、悪役令嬢らしい記憶の数々が私の中にたくさん眠っている。
それがあまりに悪役に忠実すぎるせいで、理解はできないけれど、もはや清々しくその記憶に感嘆してしまうほどだった。
「いえ、感心している場合じゃないわ。このままじゃ私はストーリー通りに……」
子細にされない紙上のリーゼロッテの最後は「投獄」の文字で終わっていたが、この世界をリアルに生きている私は、きっとその先の地獄をこの目で見ることになる。
「と、とにかく。現状を知らなければいけないわ。婚約破棄、追放後ということは、今確かにわかるのは……」
数年後、この地が反乱の中心部になるということだけ。
そこで恐らく私は首謀者と何らかの縁を持ち、兵器を渡したのだ。いや、もしかしたら首謀者とはそれより以前から縁を持っていたのかもしれない。
「貴族の誰か? 私の周りにそんな人いたかしら……。見直さないといけないわね」
そして、今後出会う者すべてに警戒をしなければいけない。
「購入するものも気をつけないと。まさか兵器をこの手で直接手に入れるとは思わないけれど、私の知らない所でという可能性もあるから」
追放されたとはいえ、さすが王子の婚約者をしていただけの家柄だ。
王都に住まう両親からは惜しみない援助を施され、いまだにこうして屋敷に使用人にと不自由ない生活を送っている。
ありがたくあり、過保護だとも思う。
まぁもちろん、監視付きではあるが。
「よろしいでしょうか、お嬢様」
扉をノックする音の後に威厳ある女性の声が続いた。私はぎくりと体を硬直させた。
すでに高額なものを買っていたことを、ようやくここで思い出した。
「……ノーマ。入っていいわ」
合図と共に扉を開けた年配の侍女は、その歳にしては伸びた腰で無駄のない動きで部屋へと入った。
声の通り威厳ある目つきで見つめられると、私もノーマ同様に背中をピシッと伸ばした。
「息が詰まるからと訴えられるので、使用人を連れての外出は許可しました。ですが、その使用人の目を盗んで逃走、奴隷市場に赴くなんてどれだけ危険なことか」
キッ、とノーマの目がつり上がった。
すくむ身は私の意志であり、リーゼロッテの本心でもあるだろう。
この年配侍女はかつてはリーゼロッテの母に長年仕えた侍女で、一度は使用人という職から身を引いたものの、母によって私の侍女もとい監視役へと連れ戻されたのだ。
威厳のあり方が違う。
「黒の子供を買ってくるなど、何をお考えでいるのか!」
押し潰されそうな圧に私はたじろいだ。
私だってノーマの眼圧さえ向けられていなければ同感だというのに。
婚約破棄、追放、そして高額奴隷の購入……家名にさらに泥を塗ったも当然だ。
ノーマの怒りを鎮めるにはそれなりの理由が必要だが、その時のリーゼロッテは「やけくそ」で黒の子供を購入したのだ。暇つぶしや八つ当たりの道具として見ていたに違いない。
もうこれ、私、どうすればいいんだろう……。
うまい言い訳が閃くわけもなく、その場の空気から本能的に逃れたい私は徐々にノーマから目線を外した。
ノーマは大きくため息を吐いた。
「……あの子の処遇はどうお考えですか」
「処遇?」
「まさか、他の貴族達同様にペットとして置くつもりですか?」
ノーマの目がぎらっと光った。
私はヒッと息を呑んで首を横に振った。
「そ、そんなことしないわ!」
「ならば使用人にしますか? 黒の子供をここに置くなら、おかしな噂を避けるためにも仕事を与えるべきです」
「そ、そうね。そうよね。買ったのならちゃんと責任は持たないと……。今ここに呼んでもらえる?」
おかしな噂はきっと明日には流れ始めているだろう。
追放された王子の元婚約者が奴隷を買った、ならばまだきっとマシなもの。膝をついて嘆いている様はどう見たって頭がおかしいし、購入したばかりの奴隷に見下された貴族らしからぬ状態だった。
私は背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、できるだけノーマの耳に入るのが遅くなりますようにと、願うほかなかった。
ノーマが部屋の外へ合図をすると、すでに待機していたらしい問題の少年が入ってきた。
入浴と食事を終えて身綺麗にされた少年は、奴隷市場で見ていた以上の痩身っぷりと肌にうっすら残る打撲痕を目立たせていた。
珍しい黒髪は艶がなくぱさついているし、私に向けられる顔は陽に当たってこなかったのが明白なほどに青白い。
私より少し低い背丈の少年に胸がちくりと痛んで、そして声をかけた。
「あなた、お名前は?」
「……」
少年は答えなかった。
けれど私から瞳を逸らすことをしないので、もう一度尋ねる。
「お名前、教えてくれる?」
「……」
じーっと私を見る瞳に訴えるようなものはないように思える。
でも、もしかしたら、虐待をされた後遺症で声が出せなくなっているのかもしれない。
私は質問を変えた。
「話すことはできる?」
すると、少年の片眉がぴくりと歪んだ。
やっぱり話せないのかしら。
少年は煩わしそうに顔を背けると、ぼそりと少年らしからぬ低い声を発した。
「…………シスベル」
答えてくれた!
言葉を失っていなかった安心と、声を聞くことができた嬉しさで私は少年の名前を繰り返した。
少年はムッと眉間に皺を寄せていた。
「ねぇ、シスベル。あなた魔法は使えるの? 使えるなら、どんなことができるの?」
それによって与える仕事の幅が広がる。
責任を持って使用人として屋敷に置くことを考えた質問だったが、少年は恐ろしいほどの無表情で私に手のひらを向けた。
刹那、私の後ろにあった壁が爆音と共に粉々に吹き飛んだ。
「これしかできないけど?」
見晴らしがよくなった夜の空にはいくつもの星が輝いていた。
少年がはっきりと口にした言葉が皮肉めいていて、けれども見た目に反した低い声がどこかかっこよく思えて。
耳に残ったその言葉を反芻しながら、星を見上げる私の頭にただぼんやりと一つの疑念がよぎった。
兵器ってもしかして、この子のことじゃないよね……? と。