黄昏の来訪者
僕が重い足を引きずって宿屋に戻ると、正しい生活とは縁もゆかりもない僕の同行者が思いっきり怠惰なありさまで寝台に転がり、黒い表紙の冊子を読んでいるところだった。
町でいちばん安い宿屋の部屋は、粗末な寝台が二台と、壊れそうな机と椅子一脚ずつだけで、ほとんどいっぱいだ。そこへ僕らの荷物を置いたら、もう足の踏み場もない。そんな狭い空間では、いやでもロランの姿が目に入ってしまう。
この町に着いてからというもの、ロランは昼間は宿屋の部屋でごろごろしていて、夜になるとどこかへでかけていく。一度「今夜は大勝ちだ」と言いながら、得意げに大金を持って帰ってきたことがあるので――信じたくはないが――使徒にあるまじき所業にふけっているのは確かだ。
何をやってるんだよ!? 布教はどうした!? ヨハヌカン先輩が言っていた「教団内で免罪符の売上ナンバーワン」というのは、別の人間のことじゃないかとすら思えてくる。僕の見たところ、ロランは免罪符を売るための活動をこれまで何もしていない。
ふわあ、とロランがのんきにあくびをした。僕はひとこと言わずにいられなくなった。
「君も外へ出て、人々に教えを説いて歩こうとは思わないのか? 一日中寝てばかりいて……」
「なに? 『今さら睡眠をとったところで背なんか伸びない』とでも言いてぇのか?」
僕を見上げるロランの瞳に険悪な光が宿る。僕はうんざりした表情を見せないよう注意しながら、
「そ・ん・な・こ・と、ひとことも言ってないだろう? 勤勉は使徒の第一の務めだ、って言ってるんだ。一人でも多くの人に神の言葉を伝えるのが僕たちの役目だ」
「ほぉー。で、今日は免罪符を何枚売った?」
「うっ……!」
痛いところを突かれ、僕は涙ぐみそうになった。鼻の奥がツーンと痛くなる。
答えはゼロだ。この町へ来てから、一枚の免罪符も売れていない。
午前中は、町内の民家を一軒ずつしらみつぶしに回って「病人や怪我人がいたら癒しますので、午後から教会に来てください」と宣伝して歩く。午後は教会で待機し、訪れた人たちを法術で癒す。神の御業を体験してもらい、感動している人々に免罪符を勧める。――ヨハヌカン先輩と一緒にやってきた流れをそのまま踏襲しているはずなのに、売上がまったく上がらないのは、僕の力不足のせいだ。それ以外のなにものでもない。
「き、君だってまだ、この町で免罪符を一枚も売ってないだろ」
つらい話題から逃れようとして、僕は叫んだ。ロランはふんと鼻を鳴らした。
「いーんだよ、俺は」
「何が『いいんだよ』だよ。意味がわからないよ。……町の人に声をかけて歩くの、君も分担してくれればいいのに。そうすれば、教会に集まってくれる人数が二倍になる。免罪符を売れるチャンスも増えるだろ。僕一人でこんな大きな町を全部回るなんて無理だ」
「断る」
ロランは即答した。
同行者は己の半身と同じ。寄り添い、支え合い、慈しみ合わなければならない、と『使徒規則』の最初のページに書いてあるのだが。こんな当たり前のことでも協力を断るなんてどういう了見だろう。
「どうしてだよ。僕が免罪符を売れないのを馬鹿にするぐらいなら、手伝ってくれればいいじゃないか。それが同行者ってものだろう? 布教のために協力し合うのが当たり前だ。僕のこと気に食わないとしても、使命に個人的な感情を持ち込むなよ」
「テメエはテメエのやり方でやれ。俺は俺のやり方でやる。そのへんの庶民に無印免罪符を売りつけるようなセコい商売は、俺はやらねーんだ」
「セコいって……!」
僕は絶句した。ヨハヌカン先輩と一緒にずっと続けてきたやり方を侮辱されて、怒りを覚えてもいいはずなのに。僕の胸を刺したのは何か別の感情だった。
ロランは冊子に視線を戻し、ぱらり、と乾いた音をたててページをめくった。
「安心しろ。使徒のランキングは、ペアとしての合計販売額で決まる。つまり、俺と組んでる限り、おまえは何もしなくても自動的にランキング上位ってことだ。おまえはただ、俺の足さえ引っぱらなきゃいい」
「まっぴらだね! 君のおこぼれをもらうなんて、死んでもお断りだ。あー、わかったよ、僕は自分一人で、自分のやり方でやっていく。ランキングなんてバカバカしい。そんなものどうだっていいんだ。僕はただ、人を助けたくて使徒になったんだから!」
腹の底から大声を出してしまい――僕はただちに反省した。怒りに流されるなんて、使徒としてあってはならないことだ。ロランと会話すると、たいていこういう終わり方になるのだが。
これはきっと、神が僕に与え賜うた試練に違いない。ロランは、僕がかっとなりやすい性格を正し、冷静さを保つための練習台なのだ。
そのとき、部屋の扉を、誰かが控えめに叩いた。
荒々しい呼吸を抑えて「どうぞ」と扉を開けると、そこに立っていたのは二十代半ばと見える小柄な女性だった。
いわゆる美人ではない。でも、卵型の顔に浮かぶ素直で親切そうな表情と、無造作に背中に流した長い黒髪のつややかさが、好ましい印象を与える人だった。真新しい華やかなドレスをまとっている。女性は憂い顔で僕を見上げた。
「突然お訪ねする無礼をお許しくださいませ、使徒様。お疲れのところ大変申し訳ないのですが……」
朴訥とした、でもまぎれもない真剣さの伝わってくる口調で女性はしゃべり始めた。
「私、ミレイユと申します。昼間教会で見せていただいた奇跡を、この私にも施していただけないでしょうか?」
「無礼だと自覚してるんなら、ノコノコやって来るんじゃねえ、このバカ女。もう夜だぞ? 日が暮れたら、神も営業終了だ。明日出直してこい」
いきなりロランの罵声が飛んだ。ミレイユと名乗った女性はびくりと身を震わせ、泣き出しそうな顔になった。
僕は振り返ってロランを睨んだ。
「君こそ、僕の足を引っ張るのはやめろよ。この人は僕を訪ねてきてくれたんだぞ。口を出すな」
盛大に鼻を鳴らし、ロランは冊子を顔に載せて寝たふりを始めた。
僕はミレイユに向き直った。彼女は怯えながら、後じさりを始めていた。
「も、申し訳ありませんでした、お邪魔しちゃって……失礼します……」
「ああ! いいんですよ。お入りください。遠慮しないで」
「す、すみません……! 傷を……他の人に見られたくなかったものですから……お宿まで押しかけてしまって……」
「大丈夫です、そういう方はよくいらっしゃいますよ。さあ、どうぞ」
僕はミレイユの肩に手を添えて、部屋の中へ招き入れた。
実際、これまで布教に歩いてきた町々で、「内密に」と癒しを頼まれることは珍しくなかった。他人に知られたくない病や傷を抱えている人は大勢いる。誰もが公衆の面前で患部をさらせるわけじゃない。
ミレイユがおずおずと室内に歩み入ってきた。
椅子に腰かけ、ためらいがちにドレスをはだけ、ほっそりした背中をむき出しにした。姿勢を前かがみにして、背中が僕に見えやすいようにした。
その肌には数えきれないほどの傷跡が刻まれていた。
鋭い爪を持つ猛獣に襲われた跡のようだった。そのほとんどは、まだ血をにじませた生傷だ。傷ついていない元の白い肌をみつける方が難しい。
「……気の毒に。痛いでしょう」
僕は瞳を閉じて心を澄まし、聖句の詠唱を始めた。第一から第六までの円弧を順に開放し、風の印を結んで守護天使バクティを具現化した。
宿屋の粗末な部屋が広々した緑の平原に変わる。頭上には光に満ちた青空。平原を覆いつくす背の高い草を、風がざああっとなびかせて通る。
暖かいそよ風がミレイユの背中をそっと撫でて通る。風の通ったところから、きれいな肌が見る見るうちに甦ってくる。彼女の口から嗚咽が漏れる。彼女は涙にむせびながら神の名を呼ぶ。
傷の数は多いが深くはなかったので、癒すのにさほど時間はかからなかった。癒しが済むとミレイユは立ち上がって服装を直し、丁重に礼を述べた。
僕は訊きたくてたまらなかった質問を吐き出した。
「どうしたんです、そのひどい傷は。……何かお困りなら、手助けさせてください。僕にできることはありませんか?」
彼女は長い睫毛をしばたかせ、涙をこらえた。でも言葉は出てこなかった。
「何が起きているんですか。あなたにそんなむごいことをしているのは、いったい誰です」
僕の再度の質問に、無言を続けるのは失礼だとでも思ったのか、ミレイユは青ざめた顔に無理に笑みを浮かべてみせた。
「つまらないことですわ……夫婦の間の、ちょっとしたことなのです。夫は優しい人で、普段は私に手など上げたりしないのですけど。ヴォルダさんのガラス工房を辞めて以来少し体調を崩しているようで……。ありがとうございました、使徒様。どうかお気遣いなさらないで……」
ミレイユは扉の向こうへ消えていった。僕は、彼女が去った後の扉から目が離せなかった。
その夜、僕は寝つけなかった。
ロランが夜遊びにでかけてしまった後の真っ暗な部屋で、横たわって天井をみつめる。さっき見せられた無残な傷跡が、目の前に浮かび上がってきた。
「夫婦の間のちょっとしたこと」
だとミレイユは言った。でも、夫婦喧嘩でできた傷にしては、あれは異常だ。
彼女はこれからも、あんな傷を受け続けるのかもしれない。
法術で傷を癒すだけでは十分じゃない。彼女がもう二度と傷つかないようにしなければ、本当の救いではない。
『免罪符の売上ランキングなんかどうだっていいんだ。僕はただ、人を助けたくて使徒になったんだから!』
ロランに向かって叫んでしまった言葉。考えてみると、真実はその中にあった。
僕は人を助けたい。困っている人を放っておけない。
もちろん、免罪符の販売を通じて人々の魂を救済することも大切だ。学校で教わった通り、それが使徒の最優先の使命なのだろう。けれども、人々の困りごとに手を貸すことだって、神がお喜びになる行いではないのか?