平穏な日々の終わり
翌日、僕は晴れやかな心持ちで、ふだんの仕事に励んでいた。
仕事というのは、町の人々にかたっぱしから声をかけ、教会に来るよう誘うことだ。
「病気で苦しんでいる方はいらっしゃいませんか? お昼過ぎに、教会へ来てください。神の御業で、どんな難しい病でもたちどころに治りますよ」
午前中にそうやって人々を誘い、午後は教会で、集まった人々に〈癒し〉を行う。(そして、ヨハヌカン先輩が免罪符を売る)。それが僕らの毎日の仕事だった。
僕は家々を一軒ずつ訪ね、また、すれ違う町人にも話しかけ、「教会へ来てください」という口上を繰り返した。
紺碧の空にはくもり一つなく、まるで僕の内心のようだった。
息せき切って駆けてきたミーナの祖父にぶつかるまでは。
「た、大変だ、使徒様! 兵士どもが、あんたを探してる!」
ぜえぜえあえぎながら、老人は聞き取りにくい言葉を絞り出した。
「長槍を持った駐屯兵が『坊主を捕らえろ』とわめきながら、町じゅうを駆け回ってるんじゃ。どうか、隠れてくれ……逃げてくれ」
老人の言葉は正しかった。まもなく、あちこちの町角で、武装した駐屯兵の姿を見かけるようになった。物陰からこっそり確認してみると、教会の周囲も駐屯兵でいっぱいだった。
僕はヨハヌカン先輩のことが気になった。
兵士たちが探しているのが「坊主」なら、先輩も捕らえられているかもしれない。
けれども、先輩の安否を確かめるすべはなかった。泊っている宿屋へ戻ってみたが、すでにそこも兵士に囲まれていた。
僕はやむなく町を脱出し、商都ノクタルムに向かった。
教務支庁へ行って、ヨハヌカン先輩のことを相談するためだ。
各地に置かれている教務支庁は、ドヴァラス正教教会本部の出張所だ。全国を旅する使徒たちの窓口として機能している。使徒はここで売上金を報告・上納し、免罪符を補充し、教団本部からの連絡や指示を受け、困ったことがあれば相談する。
バンディアスタラー管区北部を統括する教務支庁は、商都ノクタルムの中心部にそびえ立っていた。白亜の立派な建物だ。
僕が受付に出頭して事情を話すと、追って沙汰があるまで、付属の宿坊で待機するようにと指示された。
「長官室へ出頭するように」
という呼び出しがあったのは、僕が宿坊で寝起きを始めて五日目のことだった。
長官室は、明るくて広々した部屋だった。壁のほとんどは背の高い書棚で覆われていたが、大きな窓が庭園に向かって開いており、たっぷりと日光を迎え入れていた。
部屋の奥に大きな机があり、その向こうに長官が座っていた。長官のすぐ隣には、秘書官がたたずんでいる。
けれども僕の注意をとらえたのは、その二人ではなかった。長官の机の前に、ヨハヌカン先輩が立っていたのだ。
僕は駆け寄った。
「先輩! よかった、無事だったんですね!」
先輩は僕を振り返り、「しーっ」と言いながらひとさし指を口元に当てた。数日会わなかっただけなのに、先輩は少し痩せたようだ。やつれている、というのが正しい。
「無事じゃないよ、全然。クレクレマー長官のご威光のおかげで、なんとか牢獄から出してもらえたが……拷問の傷も教務支庁で癒してもらえたが……まだ、気分がすぐれない。心の傷というのは、法術では癒せないものだからね」
「拷問……ですか」
僕は暗い気分になった。神の使いを捕えて牢獄に放り込むだけでなく、拷問まで加えるとは。駐屯兵というのはとんでもない連中だ。
そんな連中のことを、僕は長年、世間の秩序を守る正義の部隊だと信じていたのだ。
「あとで、僕の〈癒し〉も受けてください。元気が出るかもしれませんよ」
僕は、先輩を励まそうと、必要以上に明るい声を出したが、先輩の表情はすぐれなかった。
「勇気と無謀は似て非なるものだ。前者は称えるべきだが、後者は慎むべきものだ。同様に、反省と後悔も似て非なるものだ。前者は未来を拓くが、後者は未来に背を向ける行いだ……」
先輩がすらすらと暗唱してみせた一節は、僕にもなじみの深いものだった。懐かしさに、僕は思わず顔をほころばせた。
「ああ、『若木のための三十節』ですね。子供の頃、村の教会でよく読ませられましたよ」
「……もう一度ちゃんと読み直した方がいいんじゃないのかな、シグルド? だって、きっと君は全然反省していないんだろう? 君の無謀な行動の巻き添えを食って、私が心身ともに深い傷を負ったというのに」
僕はぽかんとして、ヨハヌカン先輩の顔を見返した。
先輩は明らかにひどく怒っていた。めったに感情を荒げるような人ではないのに。
その澄んだ瞳が、けわしい光をたたえて僕を貫く。
よくわからない。先輩の負傷について、僕に何か反省すべき点があるだろうか?
先輩をひどい目に遭わせたのは、僕ではなく駐屯兵だ。
反省しなければならない人間がいるとすれば、それは駐屯兵だろう。
「えーっと。反省、ですか? 僕が?」
「そうだよ。君は私に対して、何か言わなくちゃいけないことがあるだろう?」
その瞬間。先輩の隣に立っていた中年男が、いきなりふらりと倒れかかってきた。先輩はあわててその男を受け止めた。
先輩の強い視線から解放され、僕はひと息つくことができた。
びっくりするほど影の薄い男だった。僕はそれまで、その男のことを気にもとめていなかったのだ。
くたびれた教服。痩せこけた貧相な体つき。まるで屍のように血の通わない顔色をして、ひどく体調が悪そうだ。
「アルルカ君。気分が悪いなら、腰かけてもいいのよ」
使いこまれた楽器のように深い音色を持つ、よく通る声が響きわたった。
机の向こうから、長官が慈悲深い笑みをこちらへ向けていた。
長官は、普通の人の三人分ぐらいの体積がある大柄な女性だ。白髪と色白の肌、まんまるな顔のせいで、絵本に描かれている雪だるまみたいに見える。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
と、アルルカと呼ばれた中年男がかぼそい声で答えた。
アルルカは、支えてくれたヨハヌカン先輩に向かって礼を言い、自分の足で立った。けれども顔色はあいかわらず悪い。また倒れそうだ。
長官は、傍らに立つ秘書官に視線を移した。
「トリスティス君はどうしたの?」
「も、申し訳ございません。すぐに来ることになっているはずですが……」
秘書官が長官にぺこぺこ頭を下げ始めた、そのとき。
ばぁぁぁん、と派手な音を立てて扉が開いた。低い背丈を目いっぱい伸ばし、ふんぞり返るようにして長官室に歩み入ってきたのは、ゴーダム邸で出会った例の使徒だった。禍々しい守護天使〈アヴァドゥータ〉の使い手。
「……ロラン・トリスティス……!」
ヨハヌカン先輩がいまいましそうにつぶやくのが、僕の耳に届いた。