地獄を操る男
正義の味方のはずの駐屯兵でさえ、ゴーダムの肩を持つ。それは、駐屯兵が地方総督の指揮下にあり、総督はゴーダムの友達だからだ。
普通の人が助けを求めても、駐屯兵が動くには数日かかるのに――総督の友達の頼みなら、駐屯兵はすぐさま飛んでくるのだ。
あからさまな不正義を鼻先に突きつけられ、僕は絶望にとらわれないよう努力しなければならなかった。
これが神の試練だというならば。僕は、武装した兵士たちに素手で立ち向かおう。全力で戦おう。重傷はまぬがれないだろうが、生きて脱出さえできれば、ヨハヌカン先輩に傷を癒してもらえる。
しかし、心を決められないまま、僕は下がり続けた。迷っている理由は、ミーナを無傷で助け出せる道筋が見えないことだ。不意に冷たい風が僕の頬を打った。いつの間にか僕は、開いたままの大窓からテラスへ出ていた。広大な夜空が僕を見下ろしていた。
テラスには、作りつけの石製のテーブルと椅子があり、風景を眺めながらお茶を飲めるようになっている。
すぐそばに、一本の巨木が立っていた。何本かの枝が手すりを越えて、テラスの中にも張り出してきていた。枝を伝って地上へ逃げられないか、とちらりと思ったが、とても僕の体重を支えられる太さには見えない。ミーナ一人なら何とかなりそうだが――今の彼女の様子では、自分で木を下りたりはできないだろう。
そのとき。聞き覚えがある文言が、僕の耳に届いた。
「……この一連を献げて、百億の夜と百億の昼の恵みを乞い願わん。
この一連を献げて、百億ダローリウスの海と百億ダローリウスの大地の恵みを乞い願わん」
内なる円弧を開いて守護天使を具現化するための、聖句の最後の部分だ。
驚きのあまり、僕の心臓が喉元まで跳ね上がった。
あわてて辺りを見回す。声の出所をみつけるのは難しくなかった。僕と同じ、使徒の黒い教服を着た若い男が、テーブルの陰にうずくまっていたのだ。目を閉じて、法術発動前の精神集中に入っている。
短く刈り込んだ黒髪。精悍な顔立ち。褐色の肌は、帝国西部に住むゼノビア族の特徴だ。
こんな狭い場所にぴったりはまり込んでいるなんて、ずいぶん小柄な男だ。まるで子供だ。
「この一連を献げて、人と樹と鳥獣との循環の恵みを乞い願わん。
この一連を献げて、完全なる創世の恵みを乞い願わん。
……第六の円弧開放。具現化。出でよ、守護天使アヴァドゥータ!」
地を這うような低い声で聖句を唱え終え、小男が法力を放出した瞬間。
足元の床がぐらり、と揺れたかと思うと視界が暗転した。
――最初に意識を打つのは強烈な腐敗臭。それに混じって、かすかに肉の焦げる臭い。暗闇に慣れ始めた僕の目に徐々に映ってくる周囲の光景。そこはもう、部屋ですらなかった。果てしなく広がる暗いがらんどうの空間。頭上も闇に覆われ、その先にあるのが空なのか高天井なのか見て取ることはできない。
足元の感触は意外と堅くて、石畳に覆われた床のようにも思えるけれど、おびただしい量の液体で濡れていて、ぬるぬると滑りやすい。血、なのだ、その液体は。何の前触れもなく床のところどころが爆発的に裂け、灼熱の溶岩が噴き上げてくる。
空気を満たすのは、悪臭、溶岩の熱。
僕は打ちのめされた。
これまで何度も、他の使徒が法術を発動させるのを見てきた。けれども、こんなおぞましい心象光景を見せられるのは初めてだ。そして、これほどまでに真に迫った、生々しい異世界の中に放り込まれるのも。
床のあちこちに転がっているのは、明らかに人間の死体だ。五体満足なものはほとんどない。ちぎれた腕、脚、頭が無造作に散乱している。――こんな光景を生み出すなんて、この小男の頭の中はどうなっているんだ?
そして中空に、長い角と翼を持つ漆黒の獣が浮遊している。
まさか、これが守護天使だというのか!?
守護天使とは、使徒の魂の真の形。神の力を直接受けるための聖なる媒介だ。それがこんなおぞましい形をとっているなんて……!
僕は驚きが止まらず、きょろきょろ辺りを見回し続けたが、ゴーダムの動揺はそれどころではなかった。大商人は狂ったような激しさでわめき散らした。
「何だ何だっ!? いったいどうなってるんだっ、これは?」
はっとした僕は、ミーナに視線を飛ばした。ミーナは寝台(があった場所)で仰向けに倒れたまま、ぼんやり天井(があった方向)を見上げている。周囲の異変に気づいた様子はない。よかった。薬で意識が濁っていて、かえって幸いだった。
世間には「守護天使なんて、人間に幻覚を見せるだけだろう?」と言う人もいる。そんなことを言う人は実際の守護天使を見たことがないか、あるいは法力の弱い使徒にしか出会っていないに違いない。
人間がものを見るには、「肉体」という容器の一部品である眼を使って、「心」という媒介を通して、「魂」が見て理解する。だが守護天使の見せる世界は、使徒の心象光景を相手の魂に直接送り込むものだ。見せられた側にとって現実と区別はつかない。どころか、様々な媒介抜きで魂で直接感じる分、いっそう鮮烈で生々しい。
へたりこんだゴーダムのすぐそばで溶岩が噴出した。腕と脇腹の一部が焼け焦げ、彼はすさまじい悲鳴をあげて転がった。溶岩は本物ではないが、焼かれた痛みは幻覚ではなく本物――そして、火傷も本物だ。肉体と心と魂は一つのもの。魂の感じた「現実」は肉体にも変容をもたらす。
のたうち回るゴーダムに、小男はゆっくりと近づいた。
「これこそが、未来永劫おまえの住処となるべき場所……地獄だ! 現世で罪を重ねた者の行く先は地獄! 現世で我欲のおもむくまま人を苦しめた者の行く先は地獄! 神をも恐れぬ者の行く先は地獄だ……!」
戦慄するほどの威厳に満ちた声。悪魔の威厳だ。
ゴーダムは泣きながら小男の足元に身を投げ出した。
「た……たすけてっ。助けてくださいっ! ひぃぃっ熱い熱い……! お、お願いですっ。わしが悪かった。懺悔でも何でもしますっ、本当に、何でもしますからっ! ああっ、後生だから助けて……!!」
小男はしばらく無言で大富豪を見下ろしていた。
「改心して……神に赦しを乞うというのだな」
「はいっ! 誓って……!」
「おまえの犯してきた罪は大きすぎる。生半可な懺悔で赦されるものではないぞ?」
「何でもしますっ! どうか……おっしゃってください」
血と涙と煤で汚れた顔で、必死に見上げるゴーダム。
「免罪符、というのを聞いたことはあるか」
恐ろしげな声で、小男が言った。
「ああ……あの、よく大きな街へ行くと街角で説教師が売っている、アレですか。お札を買うだけですべての罪が許されるという……」
「そんな安っぽい言い方はやめろ。……まだ信仰心が十分ではないようだな……」
小男の言葉と同時に、激しく溶岩が噴き上げ、ゴーダムの腹の脂肪を焼け焦がす。ゴーダムは再び苦痛の悲鳴をあげて転げ回った。
相手が少し落ち着いたのを見計らってから、小男は再び口を開いた。
「免罪符というのは、過去数百年にわたって数多の聖人の積んできた功績のお徳を頂戴して、教会につながる者の罪に対する償い、罰、苦難を教会が免除するという、権威ある証明書だ。おまえのように地獄行きの確実な咎人の魂も、教会の御名において救済されるのだ。
普通に暮らしている一般人の罪なら、説教師の販売している免罪符でも十分あがなえるだろうが、おまえの罪は重すぎる。地獄行きを逃れたければ……教皇庁発行の金印免罪符ぐらいでなければ駄目だろう。
一枚、十万ファーイラだ」
あまりに法外な金額に、苦痛や恐怖を忘れてゴーダムが目をむいた。小男はそんな相手の反応には目もくれず、指を二本立てて、相手の眼前に突きつけた。
「それを、二十枚買え。おまえの罪にはそれぐらいが相当だ。……それで天国への入場券が買えるなら、安いものだろう?」
「はっ、はいっ、わかりました! すみません! 買わせていただきますっ!」
「それから、この近隣にある古い教会をすべて、私財で建て直せ。金に糸目をつけるな。神への感謝を込めて、立派な教会を作らせるんだ。どうせ今まで汚い商売でたんまり貯め込んできたんだろう? ……もしおまえの私財だけで工事費に足りなければ、公金を使え。おまえの立場なら地方総督を抱き込んで、管区の事業費予算を流用させることもできるはずだ。神の理は人間の法に優先する……!」
僕は茫然として小男の言葉を聞いていた。
うわあ。言いたい放題だな。いくら相手が罪人だからといって、そこまで要求してもいいんだろうか。
この小男は、法術も言動もあまりに規格外れなので、僕はあっけにとられて眺めるしかできない。
「おまえたちも同罪だ。これまで何度、このゴーダムの犯した罪を見逃してきた? 駐屯兵でありながら、権力者に媚び、弱い者を虐げてきた。地獄堕ちは間違いないな」
小男は、槍を手放してへたり込んだ駐屯兵たちにも、一万ファーイラの銀印免罪符を五枚ずつ売りつけた。
代金のやり取りについての、現実的な交渉が始まった。同業者の営業活動をそばで眺めていることに居心地の悪さを感じ、僕は立ち去ることに決めた。
「ありがとう。助かったよ」
僕がそう声をかけると、小男はちらりと僕を見た。視線だけで人を殺せそうなほど凶悪な目つきだった。
僕はミーナに肩を貸して立たせ、寝室の扉があると思われる方角へ向かって歩き出した。
法術は魂の感じる「現実」を変容させるが、実際に存在する物体に影響を及ぼすわけではない。溶岩が流れれば、それに触れた人間は火傷をするが、高熱のため周囲の物が発火したりはしない。たとえ人の感覚が、ここを広大な暗黒の空間だととらえていても――実際にはここはまだゴーダムの寝室の中なのだ。
左方向へ約六歩。そろそろと左手を伸ばすと、何も存在しないように見える空間で、固い物に触れた。扉の框のようだった。
僕は寝室を歩み出た。目に見えないカーテンをくぐり抜けたかのように、突然周囲が明るくなった。たくさんの蝋燭に照らされた、ゴーダム邸の廊下が戻ってきた。豪華な刺繍に覆われた臙脂色の絨毯が懐かしくさえ思え、ほっとした。
僕はミーナを連れてゴーダムの屋敷を後にした。誰にも邪魔されない所まで行って、法術を展開し、少女を癒した。
家へ連れて帰ると、ミーナの家族は涙を流して喜んだ。
ゴーダムはおそらく、二度とこの人たちに迷惑をかけることはないだろう。あんなに強烈な法術を食らった後では。
人々の幸せそうな笑顔を見ると、僕は心の底から、使徒になってよかったと思える。
けれどもこの一件はすぐに、とんでもない結果を招いたのだった。