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拳では壊せない壁

 ガンツ・ゴーダムは、十数年前に、どこからともなくこの地に流れてきた商人だそうだ。〈(ヘビ)印〉の薬を販売していて、中でも主力製品は〈土の恵み〉という液剤だ。この地域では、〈土の恵み〉を畑にまかなければ、作物が実らない。農家はみんな、とてつもなく高価なその薬を買うため、ゴーダムに借金を重ねている。

 あっという間に大金持ちになったゴーダムは、地方総督や貴族、大商人などの有力者とのつながりを深め、押しも押されぬ権力者となった。


 住んでいるのも、宮殿のように立派な屋敷だ。大勢の屈強な男たちに守られている。


 その屋敷に、僕は正面から突入した。無我夢中だったので、どこをどう通ったのか覚えていない。

 ゴーダムの寝室にたどり着くまで、何人の男たちを殴り倒し、どれだけの物を壊しただろうか。


「そこまでだ、ゴーダムさん。おやめなさい」


 寝室のドアを蹴り開け、僕は叫んだ。

 ランプに照らし出された広い室内。天蓋つきの寝台の上で、少女から衣服をむしり取るのに夢中になっていた半裸の男が、振り返り、驚きの表情を浮かべた。


「だ、誰だ、貴様……?」


 ガンツ・ゴーダムは小太りの中年男だった。よっぽど贅沢な食生活でなければ身につかないような贅肉が、ぷるぷると揺れている。


 僕は、美術工芸品が所狭しと並べられた豪華な寝室に、大股に歩み入った。

 ゴーダムは太った男にしては意外なほど素早く寝台から下り、僕を睨みすえたまま横歩きで移動した。手を伸ばして、壁に飾ってあった剣を取ると、鞘から抜き放って油断なく構えた。


「貴様……盗賊か。金が狙いか」

「違います」

「それでは、この女の身内か何かか。女を奪い返しに来たのか」

「違います。この人を助けに来たのは確かですが」

「身内でないのなら……何者だ。雇われ用心棒か?」

「僕はドヴァラス正教の使徒です。神の教えを広めて歩いています」

「はっ! ……なんだ。クソ坊主か」


 思いっきり馬鹿にした様子で笑われ、僕は少々傷ついた。いくら信仰のすたれた世の中でも、神の使いに対してその態度はないんじゃないだろうか。

 ゴーダムはふんぞり返った。


「坊主がいったい何の用だ。わざわざこんな所まで説教に来たのか。『みだりな姦淫は第一の穢れなり』か。人の夜の生活にまで首をつっこんで歩くとは結構な趣味だな、え? ……ところで貴様、この屋敷へはどうやって入った? 警備の者が許したはずはないが……」


 その質問には答えず、僕は寝台に歩み寄った。掛け布の上に、年のころ十五、六の少女が乱れた着衣をとりつくろおうともせず横たわっていた。よく陽に焼けた、純朴な顔立ちの少女だ。その視線は遠くを泳いでおり、幼さの残る口元はゆるんでいる。何か薬でも使われているのだろう。

 どうやら、まだ純潔は失われていない様子だ。僕はほっとした。


「この人がミーナさんですね。……町で聞きましたよ。あなたがミーナさんの父親にひどい暴力をふるい、この人を無理やり奪い去ったことを。そして、あなたがそうやって毒牙にかけてきた女性は、この人一人ではないことも」


 僕は少女の体を起こし、自分の教服の上着を脱いで着せかけてやった。そして手を貸して立たせようとした。うまくいかない。ミーナの体は、くたくたと寝台に崩れてしまう。

 剣を手にしたまま、ゴーダムは鼻で笑った。


「これは自由恋愛というやつだ。その女は自分からわしの腕に飛び込んできたんだよ。女ってのはな、金と権力のある男が好きなものなんだ。世間知らずのクソ坊主の出る幕ではない。……貴様、ミーナの父親に頼まれて来たのか。だったら、とんだ勇み足だったな。今すぐ消えろ。さもなくば……この地方でわしに逆らって、ただで済まないことぐらい、その(かび)の生えた頭でも理解できるだろう?」


 僕は真正面からゴーダムを睨みつけた。怒りではない――怒りは「穢れ」であって、神に仕える者の抱くべき感情ではない――が、目の前のこの男に叩きつけてやりたい言葉が湧き上がってきた。


「金に物を言わせ、欲望のままに女性を犯す……そんな行いは確実にあなたの魂を汚しますよ。このまま罪を重ねれば、来世、人として生まれ変わることはかなわないでしょう。地獄に堕ちたいのですか?」


 ゴーダムはいきなり大声で笑い始めた。全身の脂肪を震わせて笑いたいだけ笑ってから、不意にけわしい表情に戻り、ぎらぎらした瞳で僕を睨んだ。


「人の愉しみを邪魔しておいて、言うことがそれか。まったく呆れるな。神が何だ。宗教が何だ。この世で物を言うのは『力』だよ。この地方でわしを止められる者などおらん。わしは総督閣下とも親しくさせていただいているからな。貴様などわしの目から見れば、ただのゴミ以下だ」


「人による裁きを逃れることはできても、神の裁きを逃れることはできません。あなたの悪行を、神は確かに見ておられますよ!」


「くそいまいましい青二才が。牢獄で逆さ吊りにされた後でも、そんなもったいぶった口が利けるかな。……おい誰か! 誰かいないか! 階下(した)の警備員どもは何をやっておるのだ。早くこっちへ来い……!」


 そのとき、背後であわただしい足跡が響いた。僕は振り返った。


 扉が外れてぽっかり開いた出入口から、六人ほどの兵士が室内に駆け込んでくるところだった。派手な深紅の制服は見間違いようがない。地域の治安維持を担う駐屯兵だ。

 僕は、膝が砕けそうなほど深い安堵に包まれた。


「助かった! よく来てくれました。兵隊さん、さらわれた被害者はこの娘です。どうか、あの誘拐犯を捕らえてください」


 僕はゴーダムを指さした。ゴーダムは耳ざわりな笑い声をあげた。

 駐屯兵は長槍を僕に向けた。なぜだ? 悪人は僕ではなくゴーダムなのに……。


 責任者らしい、いちばん記章の多い兵士が、丁寧な口調で言った。


「ゴーダムさん。お怪我はありませんか」

「ああ、わしは大丈夫だ。いいところへ来てくれた」

「お屋敷に不審者が押し入ってきて暴れているという通報を受けたので、参りました。この男が不審者ですね。すみやかに身柄を確保します」


 兵士はゴーダムから僕に視線を移し、ひどく険しい表情を作った。


 六人の駐屯兵は油断なく半円形に展開して、僕の退路を――出口へ向かう道筋を遮った。ちょっと触れただけで皮膚が裂けそうな、研ぎ澄まされた槍の切先が、僕のすぐ胸元に突きつけられた。

 このままではミーナも巻き添えになる。僕は彼女を放すしかなかった。


「聞いてください! 僕は、この娘を助けに来ただけなんです。不審者じゃありません。この娘がガンツ・ゴーダムに無理やり連れ去られたので、助け出してほしいと、おじいさんに頼まれて……!」


 僕は声を張り上げたが、兵士たちは何の反応も見せない。僕の声など耳に入らないかのようだ。


「あなたたちだって全然知らないわけじゃないでしょう? このゴーダムという男が、借金を理由にして、何人もの女性を誘拐、監禁してきたことを? それを見逃すんですか? ここにいる、この女の子を……助けようとは思わないんですか?」


 兵士たちの顔には、僕に対する殺意しかない。けわしい目つき、引き結ばれた口元。

 迫ってくる槍先に追われ、僕は後じさった。

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