善意の限界
意識を取り戻して初めに感じたのは後頭部の痛みだった。ずき、ずき……と大きな苦痛が波打って、吐き気がする。
僕はそっと頭を撫でてみた。腫れあがった箇所に触れると、涙が出るほど痛かった。ずいぶんひどい打撃を受けたようだ。
重い体を必死ではげまして立ち上がった。
めまいがする。足元がおぼつかない。
すぐ傍らの石壁に手をついて体を支えた。その状態のままゆっくり辺りを見回してみる。
ひどく薄暗い空間だった。広いわりに、小さなランプ一つしか光源がないせいだ。おそらくここは僕が入ろうとしていた石造りの建物の内部だろう。大きな機械や作業台がいくつも置かれていた。機械は不気味な振動音を発し続けていた。
ヴォルダが機械の前に立ち、熱心に目盛りをのぞきこんでいた。
彼の他に、室内にはざっと数えて十五、六人の男たちがいた。作業台に腰かけたり、床に座りこんだり、思い思いの姿勢をとっているその男たちは明らかに職人ではなかった。やくざ者、といった雰囲気だ。
僕の気配を察したのか、ヴォルダは振り返った。
「お目覚めになりましたかな、使徒様」
あいかわらず曇りのない笑顔。
あまりにその笑顔がさわやかだったので。今の状況は、僕がうすうす想像しているほどひどいものではないかもしれない、という楽観的な考えをまだ持ち続けることができた。
「これは……どういうことですか? 僕はいったい……?」
僕は慎重に尋ねた。きっとこの人は筋の通った説明をしてくれるだろう。例えば、僕が頭を扉の框にこっぴどくぶつけ、意識を失って倒れているのを、工房の使用人がみつけてここまで運んでくれたのだ、とか。
しかし、返ってきた答えは非情なものだった。
「あなたが立入禁止の区域へ入ろうとしておられたのでね、申し訳ないが、ちょっと眠ってもらいました。ずいぶん〈生命の欠片〉に興味をお持ちのようですね。タクマインから何か吹きこまれたのですか?」
「『吹きこまれた』……?」
「タクマインの奴め。口が堅いと信じたからこそ、生きたままここを辞めるのを許してやったのに。私も人を見る目がなかったな」
「あなたは、まさかっ……!」
足元が崩れ、深い穴の中へ落ちこんでいくような心持ち。これを絶望感と呼ぶのだろう。
いい人だと信じたのに。まただまされてしまった。
僕は激情のままにヴォルダへ駆け寄ろうとした。間髪入れず、室内にたむろしていた男たちが群がってきた。両腕をとらえられ、床に押さえこまれた。僕は腕力には自信がある方なのに、押さえこまれた腕はびくとも動かなかった。
しまった。ヴォルダに駆け寄るんじゃなく、扉へ向かって走っていれば逃げられたかもしれない。身動きとれない状態で反省したが、もう遅い。
鋭い足音が近づいてくる。床に頭を押しつけられた僕の視界に、ヴォルダの磨きあげられた靴の爪先が入ってきた。僕は頭を押さえる手に必死で逆らって顔を上げた。そして間近に立つ実業家を睨みつけた。
ヴォルダは温厚な工房主そのものの顔で僕を見下ろしていた。
「あなたのお考えになっている通りだ、使徒様。ここは私の秘密の研究所。〈生命の欠片〉をここで精製しています」
「あなたは職人たちに〈生命の欠片〉を飲ませているんですね……夜も昼もなく、彼らを酷使するために。死ぬまで休みなく働かせるためにっ!」
「そういうおっしゃり方は心外ですな。まるで私が強制しているみたいではありませんか」
ヴォルダはゆったりと肩をすくめてみせた。
「初めは、疲労回復剤として職人たちに配り始めたのですよ。――想像できますか? 一つの製品を一から十まで作り上げる代わりに、分断化された単純な作業を、朝から晩まで一定の速度で何百回もやり続けなければならない生活を? まるで地獄だ。物を作り出す喜びを感じられないそんな生活は、昔かたぎの職人たちにとっては、堪えがたいものだったようです。昼間あなたのお仲間が言っておられたようにね。疲れを訴える者が増えてきました。失敗が多くなり、作業効率が落ちてきました。それで彼らに〈生命の欠片〉を与えたのですよ。効果はてきめんでした。職人は疲れを知らず働くようになりました。工房の生産高は面白いほどに増えていきました」
相手の口にした「お仲間」という語を聞いて、僕の胸に希望の灯がともった。
ロランはきっとまだ、近くにいる。職人たちの住居に侵入しているはずだから。
だが――助けが来る見込みは限りなく低い。
僕が捕らえられているなんて、ロランは思いもしないだろう。気づかないまま、用事を済ませたらさっさと帰ってしまうはずだ。たとえ気づいたとしても、わざわざ助けに来てくれるかどうか。
ヴォルダの言葉は続く。
「それを私の罪だとおっしゃいますか? ご理解いただきたいのですが、工房での製造を続けるために、他に方法がなかったのです。進歩には常に若干の不都合がつきものです。新しい働き方に適応できない者は、科学の力で背中を押してやるしかない。世の中はそのようにして前へ進んでいくのですよ」
「〈生命の欠片〉は単に人を元気にするための薬じゃない。あなただって薬師なんだからご存じのはずだ。限りある命を短い期間で明るく燃焼させるだけの薬だ……あとで必ず反動が来る。それをわかった上で、職人たちに与えたのでしょう?」
僕は声をふりしぼった。ヴォルダは重々しくうなずいた。
「仕方のないことでした。私が喜んでいたなんて思わないでくださいよ、使徒様。いったん薬の力を覚えた職人たちは、自らもっと薬を求めるようになりました。
夜中も休みなく働きたいと言い出したのも職人たちの方からです。薬のおかげで活力があり余り、いくら働いても疲れを感じない……そして働けば働いただけ賃金がもらえる。まさに無限の金鉱のようなものです。彼らにとっても、これほどうまい話はなかったわけです。
職人たちがあまりに多くの〈生命の欠片〉を求めるので、こちらも初めは無償で与えていたのを、一粒いくらと代金を取るようにしました。そうしないと、きりがありませんので」
僕はタクマインの言葉を思い出していた。ミレイユの華やかなドレス、質素な家には不釣合いなほど豪華な調度品も目に浮かんだ。
タクマインは、少しでも多くの賃金を得るため、薬の力で我が身を追い立てて働き続けたのだろう。そして〈生命の欠片〉の代金を請求されるようになったので、割に合わないと判断し、やめる決意をしたのだ、きっと。
ヴォルダのいう「無限の金鉱」――それは「命」という名の金鉱だ。職人たちは命を削って金に換えたのだ。
「私も職人たちの身が心配でしたが……止めることもできなかったのです。先ほども申し上げた通り、この工房は人が『命』。職人ががんばって働いてくれればその分この工房も潤い、工房が潤えば職人の懐も潤う。われわれの利害は完全に一致していました。われわれは、どうしようもなく依存し合って、ここまで発展してきたのです」
ヴォルダの語りはどこまでも滑らかだ。僕は必死で、相手の鉄面皮を貫こうと試みた。
「あなたがそんな事を始めてから……健康を害した職人は少なくなかったはずです。ヴィーエ通りで亡くなった六人の職人も、死因は〈生命の欠片〉だったんでしょう? だけどあなたの口ぶりからすると、〈生命の欠片〉を摂っていた人数はそれぐらいじゃ済まないはずだ。あとの人たちは、どうなったんです?」
「やれやれ……あなたは本当に知りたがり屋ですね、使徒様」
ヴォルダは嘆かわしげに首を横に振った。
「本当に聞きたいんですか? そこからは、かなり汚い話になりますよ。近年の科学技術の発達はめざましいものでしてね、人体というものの利用法も、いろいろ考案されているんですよ。例えば中庭にある、あの花壇ですが……いや、やめておきましょうか。ことによっては、あなたとも無関係ではなくなる話ですからな」
穏やかな顔をして、なんという罪深い脅し文句を口にできるのだろう、この男は。工房にとって人が「命」などと言いながら、本当は自分の使っている職人を、搾取するための道具としか見ていないのだ。薬で狂わせ、ぼろぼろになるまでこき使って、働けなくなったら闇に葬る。この男は己の欲望のために、これまで何人の命を奪ってきたのか。
僕は力いっぱい暴れた。でも押さえつけている手はびくともしなかった。
(押さえ方にコツがあるのかもしれない。この男たちは本物の、暴力の専門家だ)
ヴォルダは急にしゃがみこんだ。彼の作り物めいた笑顔が近づいてきた。
「科学者としては、理屈で割り切れないものを信じたくはないのだが……村の教会であなたの起こした奇跡には感心しました。すばらしい力だ。その力を、私と工房のために役立ててくださる気はありませんか? 例えば、〈生命の欠片〉を長い間服用して弱った職人を、神の御業で元の体に戻してやるとか……報酬は思いのままですぞ」
「! ……あなたのような罪人に加担するつもりはありません!」
「断れる立場だと思っておられるのですか? まさか、お仲間が助けに来るなどと期待しているんじゃないでしょうね? あんなろくでなしが?」
ヴォルダの声に嘲りの響きが混じった。
「あなただってご存じでしょう。あの男は、本職のやくざの上を行く凄腕の博徒だと、すでにエビラ通りで評判になってるんですよ。さっきも、あなたと別れた直後、うちの職人の宿舎に忍び込んでいました。盗みに賭博……見かけ通りの人間の屑だ」
ああ。やっぱり、ロランの無断侵入は見つかってしまっていたのか。
しかし、自分でも驚いたことに、僕は相手の言葉に強い反発を覚えていた。
ヴォルダのような極悪人がロランを「屑」呼ばわりするなんて、許しがたいことのように思えた。
ロランが夜な夜な賭場に入りびたっているのは、盗賊たちと親しくなって話を聞き出すためだ。
工房の職人の宿舎に忍び込んだのだって、〈生命の欠片〉を探すためだ。
すべては免罪符を売ることが目的だ。卑しい盗みや、博打の享楽なんかじゃない――!
「……人を見かけで判断するなんて、あなたは浅はかな方ですね。僕の同行者は、あんな人相をしてますが、本当はまじめな使徒なんですよ。いずれ必ず、あなたの悪事を暴きます。覚悟しておくことですね」
僕は、自分で感じているより自信たっぷりな口調を作って、大見得を切った。
不意に太い指が僕の顎をがっちりとつかんだ。
僕は驚いて、笑みの消えたヴォルダの顔を見上げた。
頬を左右からぐいっと締めつけられて、僕の口がひとりでに開いてしまった。
「そう毛嫌いしたものでもありませんよ。あなたも一度試してみてはどうです、〈生命の欠片〉を」
あっと思ったときには、何か塊が口の中に押しこまれていた。吐き出そうとしたが、ヴォルダの手がすでに僕の口をしっかり塞いでいた。薬は僕の喉の奥へ落ちていった。
どうしよう。飲んでしまった。恐ろしい禁断の薬を。
薬が全身に回る前に吐き出さなくては。僕はなんとかして嘔吐しようと努めたけれど、何もきっかけがないのにそうそう簡単に吐けるものではない。ああ、まずいよ。ゼフォン博士はこの薬の効き目のことを何と言っていたっけ。「最初の服用時には感覚の混乱が――」とか言ってたような気がする。何が起こるんだろう。早くも手足が痺れてきているように感じるのは僕の思い過ごしなんだろうか。骨を体の外へ引っぱり出されているみたいな、痛みとも快感ともつかない強烈な脱力感。
「……さあさ、長い間お引止めして申し訳ありませんでしたな、使徒様。もうお帰りになっていただいても結構ですよ」
からかうようなヴォルダの声が遠く聞こえる。僕を押さえこんでいた男たちが手を離した。自由になった僕はさっそく立ち上がろうとしたが――体が言うことをきかない。というか、何と表現すればいいんだろう。手足の動かし方を忘れてしまった、そんな感じだ。 僕は身を起こしかけて、ぶざまに床に突っ伏した。周囲の男たちがどっと嘲笑した。
「おや、もうしばらくここにいたいとおっしゃる? ええ、構いませんとも。ごゆっくりなさってください」
気がつくと僕の目はほとんど見えなくなっていた。辺りはあいまいな闇に包まれ、親切ごかしたヴォルダの声だけが響く。
「また薬が欲しくなったら、遠慮なくおっしゃってくださいね。でもこれは私の大事な商売道具。そうそう無償では差し上げられません。次回は、信仰を捨てるという約束と引き換えに、ということにいたしましょう。今後は神にではなくこの私に忠誠を誓ってください。そうすれば〈生命の欠片〉はいつでもあなたのものですよ」