己の無知を認めないわけにはいかない
それから数刻もしないうちに、僕らは町外れを歩いていた。タクマイン家の前を通り過ぎると、家並みが途切れた。目の前にだだっ広い平原が広がる。
少し離れたところに、巨大な建物がそびえ立っていた。
それは、タクマインがかつて勤めていたガラス工房だ。
ロランはガラス工房の経営者に話を聞きに行くつもりなのだ。
「おまえ、オーランド・ヴォルダのことをどれぐらい知ってる?」
いきなりロランにそう尋ねられ、僕はとまどった。
「ヴォルダ? ……誰だい、それ?」
「このぼんくら野郎が! 本部から支給された資料に、三ページも使って説明してあっただろーが! まさか、読んだ内容を全然覚えてねえのか? てめえの頭は穴の開いた砂袋か?」
資料?
僕は、本部から支給された荷物の中に、黒い表紙の本が何冊か含まれていたことを思い出した。
それらの本はきっちり重ねられ、革のベルトで縛られている。ときどき、立ち寄った教務支庁で新しい本を渡されるので、ベルトをほどいて新しい本を束に追加し、もう一度縛り直さなければならない。
少なくとも、ヨハヌカン先輩と旅していた間、本を追加するとき以外にベルトを解いたことはなかった。つまり、本を開いたことは一度もないということだ。
黒表紙の本は僕らにとって、「使う可能性は低そうだが、何かの時のために本部から持たされている余分な荷物」ぐらいの存在だった。本部の支給荷物の中には、教服のボタンの予備とか、何に使うのかわからない謎の容器や用紙とかが入っている。あの黒い本の束も、それと同じような不要物なのだ。そう思い込んでいた。
そう言えば、ロランはいつも宿屋で資料を熱心に読んでいた。暇つぶしで眺めているだけなのかと思っていたが。
「あの資料って……読むための物だったんだ……」
僕が茫然としてつぶやくと、ロランが足を止めて振り返り、すさまじい罵声を僕に浴びせかけた。
僕はただ、ぼんやりしていた。ロランの発する単語の多くは、あまりにも柄が悪くて、僕のような山奥育ちの人間が聞いたこともないようなものだった。
ただ、罵声の最後の、
「……そんなだから、てめえは免罪符を一枚も売れねえんだよ、この頭からっぽ野郎が。備えもなしにぶつかっていって何とかなると思ってんのか? 免罪符を売るには戦略が必要なんだ。相手のことも知らずにどうにかなるわけねーだろ!?」
という言葉が深く突き刺さり、僕はうなだれてしまった。
「わかったよ……僕が努力不足だったってこと、よくわかった。これからは心を入れ替えてもっと勉強する。資料も読むよ。だから、とりあえず今は……そのヴォルダさんって人のことを教えてくれないか」
ロランは、ふん、と盛大に鼻を鳴らした。しかし、ひとまず、悪態の流れは止まった。
不機嫌がはっきりあらわれた口調で、ロランは説明してくれた。
オーランド・ヴォルダとは、ガラス工房の持ち主で、タクマインの元雇い主だ。
そして、このカロリック大平原でも指折りの資産家だ。
ヴォルダはこの町の大農場の息子として生まれた。少年の頃から科学技術なるものに強い関心を持っていた彼は、成人すると村を離れ、帝都アレリーズへ出奔した。科学技術の最先端の地であるアレリーズで、薬師としての修業を積んだ。
彼は五年前に町へ戻ってきたが、農場の経営を継ぐのではなく、農場の土地を利用してガラス工房を建てた。
最初はまだ、納屋に毛が生えた程度の規模だった。
もともとカロリック大平原ではガラス産業が盛んだ。原料となる石灰が多く採れるためだ。どの町村にも必ずと言っていいほど数軒の工房があり、親方から弟子への技術の伝承が行われている。
カロリック大平原のガラス製品は昔から有名で、帝国内外に愛好者も多い。けれども製品を一つずつ手作業で仕上げていたため、数多くを製造することはできないでいた。
それを変えたのが、ヴォルダの画期的なやり方だ。
彼は大勢の職人たちを工房に集めた。ガラスを作るために必要な作業を細かく分け、それぞれ別々の職人に担当させた。
砂や石灰などを混合する作業。
混ぜ合わせたものを液体状のガラスだねに溶融する作業。
ガラス窯の口のところで液体状のガラスだねを加工する作業。
ガラス製品を乾燥窯から取り出し、分類する作業。
出荷のため運び出す作業。
これまで一人の職人がやっていた工程を、数十人の職人が手分けして行うことになった。
分業することで、一人一人の担当する作業が単純になったので、より手早くできるようになった。大勢で集中して作業をするので、材料や道具を無駄なく使うこともできる。
一つの作業所に五十人が集まって分業することによって、五十人の職人が五十の工房で作っていた頃よりも桁違いにたくさんの製品を作れるようになった。
ヴォルダの工房は数多くのガラス製品を出荷し、多額の利益をあげた。
ヴォルダは気前のよい雇い主だった。工房が儲かると、職人たちにもその分賃金をはずんだ。
働きたいという者たちが遠方からもどんどん集まってきた。ヴォルダは窯を増やし、さらに大勢を雇い入れた。未熟な見習い職人にもできる仕事はあったので人集めに苦労はなかった。
ヴォルダは工房を開いてわずか五年で三百人以上の職人を抱える大実業家となり、巨万の富を築き上げた。
「……立派な人のように聞こえるね」
それが、僕の心に浮かんだ感想だった。
「頭のいい商売の方法を思いついて、成功した。職人に高い賃金を払い、自分も他人も豊かにしている。いいことじゃないのか?」
「豊かさは善だってのか? 使徒のくせに生臭ぇこと言う野郎だな」
「そういうわけじゃないけど。このヴォルダって人は、ただまじめに商売をしてるだけの人に思える。この人の何が問題なんだ?」
ロランは肩をすくめた。
「アレリーズで薬師やってたんなら、〈生命の欠片〉のことを知る機会はあったはずだ。……訊いてみる価値はあんだろ?」
「……」
〈生命の欠片〉という語を耳にしただけで、僕の気分は沈んだ。
苦痛に歪むタクマインのすさまじい形相。獣のような叫び声。それらがぞっとするような鮮明さでよみがえってくる。
いつの間にか僕らは、巨大な建物の戸口のすぐ前に立っていた。
すぐ近くで見上げると、改めてその大きさに圧倒される。褐色の煉瓦で組み上げられた、三階建ての直方体の建造物だ。装飾のほとんどない簡素なつくりの建物だが、ガラス工房だけのことはあってガラス窓は実にたくさん付いている。
工房内では大きな自動工具が動いているらしい。単調で機械的な振動が地面を伝わってきた。
気は進まなかったが、工房の玄関の呼び鈴を押した。これから会うヴォルダが悪人でないことを天に祈っていた。自分だけでなく周囲にも富をもたらしている成功者は善人であるはずだ。そうであってほしい。