六番目の棺
僕は夜明け前に宿屋を出た。日の出と同時に教会で朝のお勤めをし、掃除をした。
箒を動かしながらも、頭の中はミレイユとタクマインのことでいっぱいだった。
どうすればあの人たちに助かってもらえるだろう。あの人たちのために、僕には何ができるのだろうか。
タクマインの不調の原因は明らかになった。それをやり過ごすための薬を、医師が処方してくれた。あとはたぶん、時が解決してくれる。
本当ならタクマインに〈癒し〉を受けてもらいたい。
ミレイユとタクマインの心が少しでも神に向けば、不調に耐えるだけの日々にも、光が差し込んでくるだろう。
しかしミレイユは、僕の助けを受けたがってはいない。タクマインもだ。自分たちの苦しみを誰にも知られないこと、それが二人の望みなのだ。
ミレイユは、僕が玄関の扉を直すために再び訪ねていくことすら拒んだ。
あそこまできっぱり断られると、僕としては踏み込みづらい。布教のベテランの先生方は、断られても拒否されても、相手を助けたいという一念で食らいついていくそうだが。僕にはまだそこまでの勢いがない。
僕に今できるのは、祈ることだけだ。
タクマインの症状が一日でも早く収まるよう、神に願うのだ。
――でも、本当にそれだけでいいんだろうか?
何か重大なものを見落としている気がして、背中がぞわぞわする。
きちんとした服装をした、ひどく顔色の悪い中年男が教会を訪ねてきた。男は葬儀屋だと名乗った。
「使徒様。明日、埋葬式のお手伝いをお願いしてもよろしいでしょうか?」
信仰がすたれた今の世でも、死者との最後の別れの際、人々は祈りの言葉を口にする。
正式な司祭のいないこの町では、葬儀屋が祈りを唱える役割を担っている。
唱えるといっても、司祭が町を去る際に置いていった古い書きつけを読み上げるだけだが。
「いつもは私が適当にお祈りを読み上げているんですが……明日埋葬される故人のお身内が、せっかく使徒様が町に来ているのだから、使徒様にお祈りをお願いしたいとおっしゃいまして」
葬儀屋の男は、わがままな客には困ったものだ、と言わんばかりの苦笑をちらりと浮かべた。
「ヴィーエ通りの方々ですのでね。何事につけても本格志向というか、『いくら費用がかかっても良い物を』というお考えをお持ちのようです。ですから、急なお願いで誠に恐縮なのですが……」
お引き受けします、と僕は即答していた。
司祭のいない町で、司祭の役割を代わりに果たすのも、使徒の大切な役目だ。
それに、神を知らない人々が正しい祈りに触れたいと望んでいるのだ。これに応えないわけにはいかない。
「で、お礼はいかほど……?」
と尋ねてくる葬儀屋に「お礼など要らない」と答え、僕は翌日、町の北のはずれにある共同墓地に赴いた。
この地方では珍しい、どんよりと曇った日だった。頭上には灰色の雲が立ち込め、冷たい風が吹いていた。まもなく雨になるだろう。
墓地では準備がすっかり整っていた。きれいな長方形の、深い穴が掘られ、故人の到着を待ち受けていた。
僕は穴のそばで、葬儀屋と並んで待っていた。やがて、案内役に先導された黒い馬車と、一団の黒ずくめの人々がやって来た。馬車は人が歩くのと同じ速度で進んでいるので、人々は苦もなく馬車についてくることができる。
その中に、ミレイユとタクマインの姿も見てとれた。ミレイユは遠くから僕に気づき、会釈してきた。
故人はヴィーエ通りに住んでいた人だと、葬儀屋が言っていた。ミレイユたちは故人と親しかったのだろう。
馬車が止まった。
粗末な黒い服を着た人足たちが駆け寄り、馬車から豪華な棺をかつぎ出した。
棺が穴の底に下ろされている間、喪服姿の人々は穴を遠巻きにして立ち、ぼそぼそと低い声でおしゃべりをしていた。
「やっぱり呪われてるんだ、ヴィーエ通りは」
という誰かの声が僕の耳に届いた。
「あんなに元気だった男が亡くなるなんて……」
「もうこれで六人目でしょう、若い人が亡くなるのは?」
「怖いわね。次は誰かしら」
「しっ! 縁起でもないことを言うんじゃない」
棺が穴に収まり、埋葬できる状態になった頃には、ぽつり、ぽつりと雨が降り始めていた。
僕は穴の縁に立ち、心を込めて鎮魂の祈りを唱えた。
故人の魂が、神の懐に安らかに抱かれることを願って。
この、複雑な彫刻や黄金色の装飾を施された華美な棺に納められた人は、神を知らないまま亡くなったのだろう。
生きているときに神を知らなくても、今こうして、正式な祈りと共に神の御許へ旅立つことができた。これも何かの縁だろう。
きっとこの人は、来世も人間に生まれ変われたら、もっと神に近い人生を送れるのではないか。
僕の祈りの声に、遺族らしい人たちのすすり泣きが混じった。
空を覆いつくす灰色の雲も、ときおり涙を落としていた。
埋葬式が終わると、参列者は三々五々立ち去り始めた。
少し離れたところから、ミレイユが強い視線で僕をみつめていた。明らかに、何か言いたいことがありそうだった。
「何をやってるんだ。行くぞ」
タクマインの厳しい声が響いた。
ミレイユは夫に腕を引かれて歩み去っていった。
その二日後の早朝のことだった。
僕が朝のお勤めを終え、教会の掃除にかかろうとしていると、ミレイユが現れた。
驚きのあまり、僕は飛び上がってしまった。
「先日はありがとうございました。お礼を言うのが遅れてしまって申し訳ありません」
物憂げに微笑む。目の下に隈のできたその笑顔は、痛々しかった。
「あ、いえ、そんな。お礼だなんて」
僕は懸命に動揺から立ち直ろうと努めた。
「タクマインさんの具合はどうです。良くなりましたか」
「はい。お医者さんの薬のおかげで、夜はぐっすり眠れるようになりましたので、これまでみたいに夜中に苦しむことはなくなりました」
お手伝いさせてください、とミレイユは言った。
僕たちは手分けして掃除をした。
村人からの寄付で、礼拝堂に並べられている椅子の数は日に日に増えてきている。村の大工が壁と天井を修理してくれたおかげで、教会は建物としての体をなし始めている。
ミレイユは力をこめて、不揃いな椅子を磨きたてた。
ひと通り掃除が済んだ頃、ミレイユは僕に歩み寄ってきた。
「お祈りのしかたを教えていただけませんか、使徒様。わたしはこれまで神様の教えを耳にする機会がなかったものですから、お祈りを知らないのです」
まっすぐに僕を見上げて、憂いに満ちた笑みを浮かべた。
「お笑いになってくださって結構です。何も知らない、何もできない愚かな女ですわ。ただ日々の生活のことだけで頭がいっぱいの。そんな女ですけど、夫が死なないように……他のみんなも死なずに済むように、毎日ここで祈りたいと思います」
思いがけない言葉を突きつけられ、僕はよろめいた。顔面をいきなり殴られたような衝撃だった。いや――殴られたぐらいでは僕はよろめかないから、殴られた以上の衝撃、と言うのが正しい。
「死ぬって……! だって、タクマインさんに薬は効いているんじゃ……!」
「お医者さんもおっしゃってましたわ。薬は、ごまかすだけだって。夜寝られるようにするだけだって。夫の体が良くなったわけではないんです。いつもひどい顔色をしてますもの。それに……おとといの埋葬式で、ふと気づいたんです。もしかしたら、みんな同じなんじゃないかって。隠してるだけで、ガラス工房に勤めている人たちはみんな、体の調子が悪いんじゃないかって。ヴィーエ通りでは、お互いに幸せ自慢をし合っているような雰囲気があるので……病気だとか心配だとか、他人に打ち明けたりはしないんですよ。もう六人も亡くなりました。今度死ぬのはわたしの夫かもしれません。あるいは、誰か他の人が」
窓から差し込む朝の光で、ミレイユの顔が聖女のように輝いて見えた。
「ヴィーエ通りで起きていることが『呪い』じゃないとしても。あそこには何かきっと、とても悪いものがあります。だから、わたしは神様にすがりたい。わたしには他に何もできませんから。もうこれ以上、悲しいことが起きてほしくないんです」
僕は彼女に真言聖句集を手渡し、これを暗唱できるまで何度も朗読するようにと勧めた。神の使徒たる者は常に冷静でいなくてはならないとわかってはいるけれど、涙が出そうなほど激しい感情を、内心でもてあましていた。
ヴィーエ通りの別名は「やもめ通り」だとロランが言っていた。住民の男は次々と死に、残っているのは未亡人ばかりだと。
確かに何かが起きている。ガラス工房の従業員ばかりが亡くなるなんて、おかしな話だ。
怪しい問題を調べるのは使徒の仕事ではない。それは駐屯所がなすべきことだ。
しかし僕は、ゴーダムの一件以来、駐屯兵を信頼する気持ちが薄らいでいた。
ヨハヌカン先輩なら「神に祈れ。もたれろ」と言うだろう。祈るのが聖職者の本分だと。
神が誰か人間を救おうとなさるなら、神はそのために必要な道具を手配して救済を行う。僕らはただ、救済がなされるよう、神に願うだけだ。
でも、僕は、感じずにはいられないのだ。
もしかするとこの場合、僕こそが、タクマインたちを救うための神の道具なのではないかと。