ゼフォン博士
「思い出したぞ。そう言えば、奇跡を起こす坊主がスぺクロに来ていると、町の連中が騒いでおった。あれは、あんたのことか。……本当にそんなことがあるもんかね。お祈りで病気が治るものなら、わしら医者は商売あがったりじゃないか」
グレゴル・ゼフォン博士は丸眼鏡の奥から、疑わしげな視線を僕に投げた。
豊かな髪に、彫りの深い四角形の顔。ぎょろりとした目に、大きな鷲鼻。いかにも「町の名士」という感じの威厳あふれる老人だ。
僕が答える前に、
「じゃあ、さっさと廃業しやがれ」
と、ロランが口をはさんできた。
敵意全開で睨み合う二人の間に、あわてて僕は割って入った。
「あなたは神を信じておられないのですか、博士」
角が立たないように、できるだけにこやかに尋ねてみる。ゼフォン博士は、ふん、と鼻をうごめかせた。
「あいにくわしは科学者だからな。その辺の無学な職人どもとは違う。……患者の心の持ちようによって容態に変化が生じ得る、ということは否定せん。だが、そこまで強い妄信にとらわれるのは、教育を受けていないからだ。神だの何だの、そういう非科学的なたわごとは、わしには聞かせないでもらおうか」
「ほぉー、上等じゃねぇかジイさん。神の御業の威力、一度その身で確かめてみるか」
「もう、いい加減にしてくれよ。喧嘩しに来たわけじゃないだから!」
ロランの挑発にもひるむことなく、ゼフォン博士は昂然と頭を持ち上げ、強い視線で僕たちを睨んだ。
「そもそもあんたらの言動には矛盾がある。神の力で何でも治せるというなら、医者など不要じゃないか。そうだろう? なぜわしに往診を頼もうとする?」
「誰が好きこのんで、てめえみたいな強欲ジジイに……」
ロランの悪態をかき消すために、僕は腹の底から大声を張り上げた。
「あなたには見立てをお願いしたいんです、博士。病の原因が何なのか。僕たちでは、痛みを取り除くことはできても、診断まではできませんから」
――タクマインの不審な発作を目撃した翌日、僕はさっそく医者を探したのだ。顔見知りの町人に尋ねてみたところ、こんな大きな町なのに、スペクロには医者はいないという。少し離れた隣町まで行かなければならない。
近隣一帯の病人を一手に引き受けているゼフォン博士は、大変な豪邸に住んでいた。僕らがそこに着いたのは、夜の帳が完全に下りた後のことだった。
重々しい玄関扉を入ってすぐ左手にある診察室らしい部屋で、博士は僕らを出迎えた。
「往診なら、馬車を呼んでもらわなくてはな。わしは歩いて行くのはまっぴらごめんだ」
それが博士の第一声だった。
僕はうなずいた。長い道のりなので馬車は手配してあった。
小ぶりなシャンデリアに照らし出された診察室内は明るかった。白塗りの壁は年代物らしい本棚に埋め尽くされている。本棚のほかには書き物机と座り心地の良さそうな椅子、そして部屋の真ん中に診察台。どの家具も木目が美しく、高級品であることが見て取れた。けれども僕の注意を引いたのは、書き物机の上にある円筒形のガラスの置物だった――どういう細工なのか、中に楕円形の金属板が埋め込まれていて、その板には黒地に金色の文字で「われら人間の叡智をもって、自然を征服し使役せよ」と書かれている。
馬車が来るのを待つ間、博士は無言で往診用の鞄にいろいろな物を詰めていた。この人は僕が知っているどんな医者とも違うな、と思いながら、僕は博士を眺めていた。
たいていの医者は、まず患者のことを知りたがる。年齢や性別。今の状態。
それなのに、このゼフォン博士は、患者がどこの誰なのか尋ねようともしない。口にしたのは馬車のことだけだ。
すると、博士は急に鞄から顔を上げた。
「わしの往診料は安くはないぞ。夜中に出向くからには特別に時間外料金ももらわなきゃならん。おまえさん方は、あまり金を持っているようには見えんな。先に金を見せてもらおうか」
「……」
僕は神に仕える者として、できるだけ人の悪い面を見ないように心がけている。それでも、博士の態度に誠意の無さを感じ、不安を覚えずにはいられなかった。この人は患者のことなんて、何も考えていないみたいじゃないか?
ロランの方は反感をはっきりと示した。「てめえ金のことしか頭にないのかよ、このヤブ医者が」と、僕があえて思い浮かべないように努めていた言葉をずばり口にした。
博士の顔が見る見る険悪になった。僕に向かって、
「この小さいのは、あんたの子供か何かか? 一人前の大人にしちゃ背丈が足りていないようだが。黙らせておいてくれ。不愉快じゃ」
僕は、ロランが博士に殴りかかるのを止めるため、全力を振りしぼらなくてはならなかった。博士もすっかり機嫌をそこねてしまった。悪態を投げつけ合う二人を、なだめながら馬車に乗せるのは大変だった。
――僕らがスペクロ町のヴィーエ街に着いたのは真夜中に近かった。ヴィーエ街の外れにあるミレイユの家は、塩街道から歩いてすぐだ。明かりの消えた家の中からすでにタクマインの荒々しい唸り声が漏れてきていた。ゼフォン博士が顔色を変えた。
医者を連れて行くことをあらかじめミレイユに教えてあったので、扉には鍵はかかっていなかった。僕らは家の中に踏み込んだ。
奥の寝室ではタクマインが目をむいて苦痛に暴れ回っていた。
「その男を押さえるんだ!」
ゼフォン博士が叫んだ。僕とロランはタクマインの腕を一本ずつつかんで寝台に押さえつけた。寝室の隅に顔をひきつらせたミレイユが立って、悲鳴をこらえるかのように、握り拳を口元に押し当てていた。
博士は手際よく火打石を打ってランプに明かりを点すと、それを掲げて寝台に歩み寄ってきた。そして慣れた手つきでタクマインを診察した。
ひと通り確認を終えると、鞄から取り出した小瓶の液体を綿球に染み込ませ、それをかなり乱暴にタクマインの一方の鼻の穴に押しこんだ。眠り薬だったのだろう。タクマインの体からふと力が抜けた。両目を閉じ、寝息をたて始めた。
「この症状は病ではない」
博士は僕に向かってそう宣言した。立ちすくんだままのミレイユに向き直り、
「あんた、この人の奥さんかね」
彼女がうなずくのを確認してから、博士はおだやかな口調で説明を始めた。
「あんたの夫は、俗に〈生命の欠片〉と呼ばれる薬品を常用していたと思われる。あんたも何度か家の中で見かけたことがあるんじゃないかね? 真っ黒な粉だ。これぐらいの大きさの(と、指で幅を示しながら)塊になっていることもある。
人の身体活動と精神活動を非常に活発にする薬だ。薬に体が慣れないうちは……つまり最初の二、三回の服用時には多少の感覚の混乱が見られるが、やがて薬を服用すると、ひどく良い気分になれる。自分が偉人になったように感じられ、何でもできると感じる。そして疲れを知らず何時間でもぶっ通しで動き続ける。
薬を定期的に服用している間は、その良い気分が持続するが……服用をやめたとたん、あんたの夫のような症状に陥る。服用中は神経が異常な興奮状態にあったので、その反動が来るのだ。全身を焼かれるような苦痛を覚えるらしい」
「『禁断症状』ってやつか」
ロランが僕には耳慣れない単語を口にした。ゼフォン博士は渋面のまま、ふむ、と唸った。
「坊主にしては、しゃれた言葉を知っているじゃないか? ともかくこの症状は、医者にはどうしようもない。これ以上ひどくなることはないから安心しろとしか言えん。何日か、何週間か、あるいは何か月かすれば……〈生命の欠片〉を服用していた期間の長さにもよるが……薬の影響が抜けて、今の症状も治まるだろう。それまでは我慢することだな」
「真っ黒な塊? 〈生命の欠片〉? 何のことですか。私には、さっぱり……」
ミレイユが呆然とした様子でつぶやいた。思いもかけない診断に、すっかり混乱している様子が見てとれた。