彼女の秘密
僕は寝室で聖句を唱えて守護天使バクティを具現化し、癒しを行った。男の血まみれの後頭部とミレイユの背中の傷はすぐに治った。
眠っている男を起こさないようにと、僕らは寝室の隣の居間へ移動した。ミレイユがランプを点すと、質の良い調度品でととのえられた室内の様子が浮かび上がった。
僕には、彼女に言わなければならないことがあった。部屋が完全に明るくなるのも待ちきれず、声を張り上げていた。
「申し訳ありません! 玄関のドアを壊してしまいました! 明日必ず修理に来ますので、どうかお許しを……」
「いえ、あの……私の方こそ、昨日はすみませんでした。失礼な態度を取ってしまって。誰にも話すなと、夫に強く言われていたものですから。それに……お坊さんに頼っていることを、近所の人たちに知られたくなくて」
ミレイユは困ったように口ごもった。
夜中にいきなり家に乱入され、ミレイユは明らかに動揺しているし、迷惑そうでもある。けれども数刻前に会ったときと違い、敵意や拒絶は感じられない。
ミレイユと僕は、お互いに詫びの言葉を口にしながら、頭を下げ合った。
勧められないのに椅子に腰を下ろしたロランが、しびれを切らした様子で、テーブルを平手でバンと叩いた。
「どうでもいいんだよ、そんなこたぁ。……おい、おまえ。亭主を助けたいんなら、話を聞かせろ。いったい何が起きてるんだ、この家で?」
その低い声には、人を動かさずにはおかない凄みがあった。
ミレイユはうつむいたまま重い口を開き、ぽつりぽつりと語り始めた。
ミレイユの夫であるタクマインは、二月ほど前から発作を起こすようになった。ちょうど、勤めていたガラス工房をやめたばかりの頃だ。もともと丈夫な働き者で、病気一つしたことのない人だったのだが――ある夜突然、尋常ではない苦痛に襲われ、わめきながらのたうち回るようになった。
「長年無理をしてきたからな。そのせいだろう」
タクマインは発作を過労のせいにした。ミレイユがいくら医者を勧めても聞き入れようとしない。
発作は毎夜のように襲ってくる。苦しむ夫を見かねて、ミレイユは暴れる夫の体を抱きしめるようになった。自分の背中に爪を立てることによって、夫が苦しみに耐えられるのではないかと思って。
「でも私、本当はずっと不安だったんです。夫は『我慢していればそのうち治る』と言いますけど、少しも良くならないし……もしかしたらこのまま死んじゃうんじゃないか、って。こんなに苦しいのに、どうしてお医者にかかろうとしないのかしら」
うなだれたミレイユの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「このヴィーエ街では、やけに人死にが多くて……呪われているんじゃないか、なんて言う人もいます。今年だけで、近所の男の人が五人も亡くなってるんですよ。みんな、夫がガラス工房に勤めていた頃の同僚ばかりです。夫の具合が悪いのも、この土地の呪いのせいじゃないかと思うと、私……怖くて……」
ミレイユは涙に濡れた瞳ですがるように僕をみつめた。
「神の御業で、タクマインさんの病を癒すことはできます。どうか、神にもたれてください、ミレイユさん」
僕は心の底から叫んでいた。
「神の御業は、澄んだ魂や、神を受け入れる魂に対して、より大きな効果を発揮します。一度、タクマインさんと一緒に教会へ来て、祈ってください。一度でも神にぬかずくだけで全然違ってくるんですよ。夫婦が心を合わせれば素晴らしい奇跡が……」
「亭主を医者に見せろ。本人が嫌がろうが何しようが関係ねぇ」
と、ロランが割り込んできた。
(ちょっと、何言ってんだよ、君は)
僕は舌打ちしそうになるのを懸命にこらえた。せっかく信仰の話をしているところなのに。使徒のほうから医者を勧めるなんて、どういう了見なんだ? それは任務の放棄に等しい。
目を丸くするミレイユに向かって、ロランはきっぱりと言い切った。
「この病は普通の病じゃねえ。原因を知っとく必要がある」