同じ方向を見ているのかどうかも怪しい
僕らは、ミレイユの家から見えにくいように、巨木の後ろ側へ移動した。
ロランの話によると、二月ほど前から、夜になるとミレイユの家から獣の吼えるような声が聞こえてくるという。
「やばい動物でも飼ってるんじゃねえか、ともっぱらの噂だ」
「噂って……誰がそんな噂をしているんだ?」
「盗賊どもだ。ここは奴らの一番の仕事場だからな」
「とっ、盗賊!?」
驚きをこらえきれず、僕は大声を張り上げてしまった。次の瞬間、ロランが思いきり僕の向こうずねを蹴りつけた。
「うるせえ。このアホめ、本気で隠れるつもりあんのか?」
僕は痛みに悶絶し、しばらく言葉も出せなかった。なんだってこの男は口と手が同時に出るんだろう。「静かに」と言えば済む話じゃないか?
「……そうか。君は盗賊とも顔見知りなんだな。歓楽街の賭場に毎晩出入りしてるんだから」
「当然だろーが。悪人の話は、悪人に聞くのがいちばん早ぇ。俺たち使徒の仕事は、闇に潜む悪党どもを引きずり出し、無理やり免罪符を売りつけて改心させることだ。そういう奴らの手がかりは、夜にしか見つからねーよ」
使徒の仕事ってそんなのだっけ? と混乱した僕は言葉を失った。
ロランも別にそれ以上詳しく説明しようとはしない。
僕らは無言で、ミレイユの家を眺めやった。
やがて日が暮れた。家々の窓に明かりが灯った。しかしその明かりは、時が過ぎるとともに一つ、また一つと消えていき、最後にはすべて消えてしまった。住民が眠りについたのだ。
とは言っても、真っ暗になったわけではない。ヴィーエ街全体が、青いうすぼんやりとした光で満たされている。家々の庭を囲む外塀の上に埋め込まれた煌光石のせいだ。
長い時間が経った。手で触れそうなほど濃密な静けさが辺りを満たしていた。
僕らは黙って巨木の陰に立っていた。
ロランが何をしようとしているのか気になったので、僕は立ち去れずにいた。一度「何をするつもりだ」と尋ねてみたが、答えはもらえなかった。それに、これほど辺りが静かでは、さすがにもう、声を出すのははばかられる。囁き声でさえ遠くまで届くだろう。
日が暮れてから、どれぐらい過ぎただろうか。
僕の心臓ははね上がった。うぐぉぉっ、という低い唸り声が聞こえたのだ。まさに荒れ狂う獣の声そのもの。ミレイユの家の中からだ。
威嚇するように、あるいは人知れぬ苦悶を吐き出すかのように、不気味な唸り声は続く。
ロランが動いた。まったく足音を立てずに、ミレイユの家の玄関へ向かう。僕もその後を追った。
ロランは懐から小さな煌光石を取り出し、それで自分の手元を照らしながら、もう片方の手に握った薄い金属板を扉と框の間に差し入れた。何かを探るように、板を上下に慎重に動かしている。
「何をやってるんだよ!」
こらえきれず、僕は囁いた。ロランは振り返りもしなかった。
「見りゃわかるだろ。鍵を開けてんだ」
「それじゃまるで泥棒じゃないか!」
「何言ってやがる。盗まなければ泥棒じゃねえ。ちょっと中の様子を確認するだけだ」
「『ちょっと』じゃないよ。勝手に人の家に忍び込むのは、立派な犯罪だよ。使徒には遵法精神が大事だと『使徒規則』にも書いてあるじゃないか。節度とルールを守って、人から尊敬されるように振る舞わなくちゃいけないと……」
僕はロランの肩に手をかけ、不適切な行いをやめさせようとした。
その拍子に、少し身をかがめたのが間違いだった。激痛が顔全体で弾け、目の前で火花が散った。頭突きを食らったのだ、しかも鼻に。僕は体を二つに折ってうめいた。――ロランは、頑丈な僕でも痛みを感じる急所を狙って攻めてくる。
ようやく呼吸が楽にできるようになってきたとき。
家の中から「あうっ」という女の悲鳴が鋭く響いた。それを耳にしたとたん僕の頭の中は真っ白になった。鼻の痛みをただちに忘れた。
「ミレイユさん!」
考えるより早く体が動き、僕は扉に体当たりしていた。三回目に肩をぶち当てたところで扉は激しく開いた。僕は家に駆け込んだ。
「おい、遵法精神どこ行った」
というロランの声が追ってくるが、僕はもうそれどころではない。
「ミレイユさん! どこです! 大丈夫ですか!?」
腹の底から叫びながら、薄暗がりの中を進んだ。
窓から差し入ってくる煌光石の光のおかげで、室内の様子がぼんやりと見て取れる。おかげで、家具にぶつからずに進むことができる。
荒々しい咆哮は奥から聞こえてくる。
僕はミレイユの背中のひどい傷のことを思い出した。彼女は今まさに襲われているのか。鋭い爪を持つ、獰猛な獣に。
その獣が何であれ、叩きのめしてミレイユを救う。決意に迷いはなかった。
閉じた扉に突き当たった。僕はためらわずに押し開け、飛び込んだ。
そして立ちすくんだ。
真新しい、大きく豪華な寝台が置かれた寝室。獣などいなかった。寝台の上で男女が抱き合って横たわっていた。
がっしりした体格の三十前後の男が、仰向けに横たわっていた。
これほどまでの苦痛に歪んだ顔を、僕はこれまでに見たことがなかった。顔全体が紅潮し、目はいっぱいに見開かれ、口は泡を吹いていた。太い筋が額に何本も浮き上がっていた。
ミレイユが男に覆いかぶさっていた。彼女の白い夜着の背中に血がにじんでいた。その背中を男がしっかりと抱きしめている。
苦痛は波状に襲ってくるようだ。不意に、男の体がびくんとはねた。目が完全に裏返って白眼になった。
「ううぎょおおあああっ!!」
男は身もだえた。そしてミレイユの背中に爪を立てた。苦痛で錯乱した、容赦のない力で掻きむしられて、彼女の背中に血が広がるのが見てとれた。
僕はミレイユたちを引きはがそうとした。二人は死んでも離れないと言わんばかりに固く抱き合っていたので、それをほどくのは並大抵のことではなかった。男はわめき散らしながらのけぞった。尋常ではない苦痛のあまり、完全に正気を失っている様子だった。ミレイユも目を閉じたまま、暴れる男にしがみついていた。
僕は、どうしていいのかわからなかった。守護天使バクティを呼び出せれば、男を苦しめている原因が何であれ、とにかく今の痛みを取り除くことはできる。気の間違いを正すのは難しいが、暴れるのをやめさせておとなしくさせることはできる。けれども僕はこの状況で、心を静めて最後まで聖句を唱えきる自信がなかった。
そのとき、寝室の中で、ぼこっ、というような鈍い音が響いた。
「?」
あれほど激しく歪んでいた男の顔が、呆けたような表情に変わっている。その表情のまま、ミレイユから腕を放して、仰向けにずるずると寝台から滑り落ちた。半分まで滑り落ちたところで床に頭が着いて止まった。その姿勢で目を閉じ、いびきをかき始めた。
完全に眠り込んだようだった。
僕はびっくりして男を見下ろした。あんなに苦しんでいた人が、こんなに突然眠り込むなんてあり得るだろうか? ミレイユも寝台に座り直し、目を丸くして男をみつめている。
ふと気づいて、僕はロランに視線を向けた。ロランの左手には短い木の棒が握られていた。棒の表面には黒い線で複雑な模様が描かれている。
線と見えるのは実際は細かく書き込まれた神聖文字で、ゴーラクシャー=バガヴァッド聖典の一節を綴ったものであることを、見なくても僕は知り尽くしていた。
「まさか……殴ったのか?」
「楽にしてやったんだよ。神の力でな」
「な・に・が神の力だ! 本部支給の〈シャーンティの杖〉をそんな事に使うなんて! 命名の儀式を仲介するための神聖な杖なのに……」
「うるせぇな。人助けに使ったんだから、神だって気にしやしねーよ。それよりとっととその男を癒してやれ。意外と出血がひどいみたいだ」
「誰のせいだよ!?」