夕暮れの風景
夕暮れ時にあちこちからふんわりと夕ご飯の香りと石鹸の香りが混ざっているあの雰囲気は好きだった。今日あの家はカレーだな、こっちは石鹸の香り、ちょうど風呂場の小窓が空いている。友人と遊んでいるとあっという間に時間が過ぎて行っていつも早く帰ってきなさいと怒られたのを思い出す。大した遊びでなくとも楽しかったものだ。自転車に乗って近くの土手まで競争して漕いだり、木登り、カードゲーム・・・思い出せなくとも心のどこかにはあるのだろう。学年が上がるにつれ門限が伸び、お小遣いももらえるようになり少しずつ自由と共に責任を手に入れていった。あの頃はよかったなぁ。
そんな私の幼少期が詰まった団地は今や閑散とした団地へと変わってしまった。所々ツタが生え、生活感は昔と比べたらほとんどなくなってしまった。ベランダを眺めるといくつか洗濯物や物干し竿が下がっている。まだ住人はいるようだ。団地の中心にあった公園に子供達の姿はなく、ブランコが風に揺られて寂しそうにしていた。池も残ってはいたがだいぶ濁ってしまっている。管理はあまりされていないらしい。主がいるとかいないとかの噂はずっとあったが実際はどうだったのだろうか。しばらくしゃがんで眺めたり、周囲を歩いてみたがそれらしき影すら見えなかった。私の幼少期なんてもう何十年と前だから、とっくの昔にお星様へと姿を変えたのかもしれないし、そもそも主はいなかったかもしれない。池には橋がかかり、橋を渡ると公園へと行けるちょっとした楽しみがあった公園だった。それほど大きくはなかったがブランコやジャングルジム、砂場、鉄棒・・・公園と聞いて想像できる遊具の一通りはそろっていたが、今ではどれも錆が目立っている。本当に長いこと誰も手をかけていないことがわかる。
団地の公園を後にし団地内を歩き回ってみた。小さな商店街のようになっていた部分はシャッター街へとなってしまっていた。わずかに数店開いていたが、見る限り経営はうまくいってないようだった。人生は長いだの短いだのと人は言うが、私は短いものだと思う。生まれてからあっという間に独り立ちして「大人」と呼ばれ働いて働いて少しの余生を過ごした後、土に還っていく。文章で書いてこれだけなのだから実際の感覚はもっと早い。、・・・考え事をしながらふらふらと歩いていたら夕方になっていた。そろそろ懐かしき団地とも別れて帰らねば。と思った時小さい頃夕暮れ時に体感した雰囲気がわっと押し寄せてきた。まるでマッチ売りの少女がマッチを擦ってごちそうや暖かい暖炉の着いた部屋を思い浮かべたように、私の目の前に現れた。家々から香る夕ご飯や石鹸の香り、にぎやかに遊ぶ同級生たちの声、ご飯できたから早く帰ってきなさい!と叱る母親の声・・・全てが懐かしくもう二度と体感できないものだ。
ふと我に返った時にはもうその景色は消えてしまっていた。私は一筋の涙を流し、幼少期の私が体感した景色に別れを告げて団地を後にした。