本編
夕食の食べながら、三年近く前の出来事がふいに脳裏に過ぎる。きっと、それは約束の日に近付いているからなのだろう。
「俺、明日から成人の儀を受けるよ」
「そっか。アルも十七才だもんね。気をつけて」
近所に住む、六才年下のアル。虎獣人の彼は全身に子供から大人になりきれない、ふわふわとした体毛を残している。目線は少しばかり背の高い私とそう変わらない。
夕方から夜に差し掛かった時間にやって来るなんて珍しいなと驚いて聞けば、彼はついに成人の儀を受けることになったのだと言う。獣人たちの中では有名な言葉であるそれは、詰まる所が「可愛い子には旅をさせろ」というやつだ。十七になったら三年間、生まれた町の外で暮らす。そしてそれを過ぎて故郷へ戻って来ることで成人と認めるということらしい。成人の儀を受けている間は故郷に戻ることは許されないし、もしそうすれば一生成人とは認めてもらえないのだ。
「俺を誰だと思ってんだよ。心配いらねぇよ」
「そうだね。アルだもんね。でも、三年も会えないなんて寂しくなるなぁ」
鼻で笑ったアルに頷くけれど、ほぼ毎日顔を合わせる少年を見ることがなくなるのだと思えば寂しさを感じずにはいられない。それも彼は私がこちらの世界にやって来てからの数少ない友人の一人である。
すると急にアルは神妙な顔で私を見た。
「……なぁ、カナエ」
「なに?」
「俺の事、待っててくれるか?」
「え?もちろん。あたしはずっとここでアルのこと待ってるよ」
「……そうか」
当然のことである。三年という時間があろうとも、私は引越しをする予定はない。職場は近いし、必要なものを買い揃えられる商店も近い。ここから移動する可能性は低いだろう。三年後であれば確実にここにいるはずだ。
アルはあたしの返事を聞いて嬉しそうに鬚を振るわせると、まるで出会った頃の子供のときのようにあたしの首元に頬を寄せる。ふわふわとした毛は気持ち良いけれど、少しくすぐったい。思わず肩を竦めてしまうと、アルの頭を挟むような形になってしまった。しかしそれでもアルは気を悪くした様子も見せず、甘えるように頬を擦り付けている。
「アル、くすぐったいよ」
「あと少し。そしたら帰るから」
アルはそう言うと、一頻り頬を擦り付けた。しばらくして、言葉通り満足したのだろう。顔を離してじっと私を見た。
「カナエ。俺、すぐに帰って来るから。だから待っててくれ!」
「う、うん」
その勢いにとりあえず頷くと、アルは嬉しそうに笑って自分の家へ帰って行った。
言葉通り待っていたというよりも、日々の生活に追われて気が付けばあっと言う間にもうすぐ三年が経つ。突然この世界にやって来て、右も左も分からない生活だった。日本での暮らしのように機械が何でもやってくれるような暮らしではない。その上、こちらには人間だけではなく獣人、竜人、樹人と呼ばれる生き物たちが暮らしていて人間は少数派の生き物でしかなかった。生命力の弱い人間は幼いうちに少なくない数が死んでしまうらしく、自分がこうして生きていけるのも大人になってから「こちら」へやって来たからこそに他ならないだろう。
「――すぐって言っても三年は縮まないのに。よっぽど外に出るのが嫌だったのかな。でも、アルは早く成人の儀を終えたいって言ってたような……」
くすりと笑みを零しながら思い出すのは、三年前にアルが言い残していった言葉だ。まだ子供の面影が強かった少年はすっかり青年になってしまっただろうか。
私は食事を終えると食器を片付けながら、いつものようにお茶を入れようとお湯を沸かし始める。温かいお茶は空腹に耐えかねて野草を齧った時に偶然見つけた、日本茶に良く似た味をしているものだ。そのことを思えば、貧乏も悪いことばかりではなかった。初めからお金に困って居なければ、この野草を齧ってみることはなかっただろうし、そうなるとこのお茶を飲むこともできなかったはずだから。
お茶を飲みながら、ほっと息をついていると控え目な音で玄関扉をノックする音が聞こえた。時間はすっかり夜になった頃。灯りの少ないこの町ではほとんど人は出歩かない時間である。
そして私にはこんな時間に訪ねて来る人に心当たりはなかった。近所の良くしてくれる人たちがこうやって訪ねてくることはあるが、それでもこんなに暗くなってから訪れる人はいない。
「……どなたですか?」
言葉は丁寧であるけれど、扉のノブを掴む手とは反対の手には洗ったばかりのフライパンがしっかりと握られている。我が家にあるものの中では一番手ごろな武器だ。思い切り打ち付ければ、近くの家に逃げるくらいの時間は稼げるだろう。こういう時に日本で暮らした家のようにドアロックがあれば良いのにと思うのだが、どちらにしてもこちらの人たちであればそんなもの関係なしに壊せるのかもしれない。人間とは非力なものである。
「カナエ。俺だ」
「……えっと……?」
俺だ、と言われたものの脳内のリストにその声の主に該当する人物はいなかった。
首を傾げて、薄く扉を開ける。もちろんいつでもフライパンを当てられるように右手の準備も万端だ。そして薄く開けた扉の先には、見慣れない見上げるほどに大きな虎獣人が居る。瞳の色は澄んでいて、毛の色は濃く、色艶も良い。立派だと言われる部類の獣人であるだろう。
だが、虎獣人の男性と言えば知り合いでは近所に住むダートンおじさんくらいなものである。ダートンおじさんと呼んでいるだけあって、立派な中年男性だ。その人は最近はおばさんに痩せるように言われて嘆きながら大きなお腹を撫でている人物であって、目の前の男性のようにすらりとした筋肉質の若々しい青年では決して無い。少し目の色は似ているけれど、それだけである。
「カナエ!やっと会えた!」
少し扉が開くや否や、素早い身のこなしで青年は扉の中へ入って来た。そしてがばりと私の体をその逞しい腕の中に収め、私の頭に頬を擦り付けながらすんすんと鼻を鳴らしている。顔に当たるふわふわの胸毛に警戒心は奪われ、フライパンは役に立つことはなかった。ふわふわでもふもふなのである。ふわふわでもふもふ。
しかし、その目の前の人物の仕草を見て、ふいに一人の人物が脳裏に浮上してくる。
「もしかして……アルなの?」
「ああ。俺だ。片付け中だったか?急に押しかけて悪い。でも、早くカナエに会いたくて」
そう言われて顔を上げて、向かい合った顔を見れば懐かしい目の色をしている。ダートンおじさんに良く似た、灰色掛かった水色。まるで宝石のようなその瞳は、まだ目線が同じだった頃のそれと変わりない。
「本当にアルなの。驚いちゃった。あれ?三年って」
「今日で三年。カナエ、また暦を読み違えたんじゃねぇか?一年は三百六十日だぞ」
「あ」
こちらと地球との相違点。それは一年の長さが違うことである。それなのによく一年の日数を間違えてというのは、来たばかりのころよくあることであったが今もやってしまうとは。
「というわけでちゃんと成人の儀を終えてきた」
「おめでとう。すっかり見違えて、格好良くなったね」
見上げるアルの姿は記憶にあるアルのものとはまるで違う。単純に背丈だけでなく、声も、雰囲気も何もかもが違った。可愛い弟分のつもりだったのに、すっかり大人の男の人みたいで何だか眩しい。
「カナエ。今まで待たせて悪かった」
「ううん。全然。三年はあっという間だったから」
「三年前、俺はカナエに待っててくれって言ったよな?」
「うん。アルはそう言ってたね。ちゃんとここで待ってたでしょう?」
彼と約束をした通り、私はここで待っていた。正確に言うと、待っていたというよりもここにそのまま居ただけであるのだが、それをここで彼に言うのは何だか忍びない。
きっと故郷に戻って来ても知っている人がいるという安心感に浸りたいのだろうから。
「ああ。俺はカナエがもうここに居ないんじゃねぇか、待っててくれないんじゃねぇかって、それがずっと怖かった。でも、カナエは変わらずここに居てくれて……」
「そんな、大げさだよ」
真剣な顔で言い募るアルは抱き締めた腕にぎゅっと力を入れた。そんなアルにくすりと笑って首を振る。本当に彼が言うような大げさな話ではないのだ。仕事も家も、それに親しくなった人もいて、ここを離れる理由が無かったのである。
「いや、俺は嬉しかったんだ。だから、やっと言える」
「うん?」
「カナエ。……俺の番になってくれるよな」
「……番?」
アルはまっすぐに視線で私を射抜いた。抱き締められているので、距離は限りなく近い。その距離感で言い放たれた言葉。
それは数年こちらで暮らした知識と照らし合わせると、プロポーズの言葉に違いなかったような気がしないでもない。そんなまさかとその考えを頭から追い払って、確認するためにアルを見た。
「待っててくれたっていうのは、カナエも同じ気持ちだったってことだろ?俺とカナエは年も離れてるし、そういう対象に見られてないんじゃねぇかってずっと不安だったんだ。でも、こうしてカナエが俺と同じ気持ちで居てくれたなんて……!」
「え?え?……えええっ?」
そう言うと、アルは再び感極まったように私の頭にすりすりと頬を擦り付けている。もちろん、混乱の最中にいる私のことは置いてきぼりだ。
「カナエも喜んでくれるんだな。それならすぐに番になるか!」
「え。いや、それは、アルの両親の許可が必要なんじゃないかな!ええと、……ほら!あたしは随分年上だし?」
彼は良き隣人である。ここでばっさりいくよりも、ぼかした言い回しが良いだろう。それに、アルが二十ということは私は二十六。随分と年の差がある。これだけあれば、きっと彼の両親だって結婚を許したりはしないだろう。
「心配ねぇよ。来る前に、親父とお袋にはカナエによろしくと言付かってる。花嫁姿楽しみにしてるって」
「嘘!」
「心配すんな。確かに少し年は離れてるかもしれねぇけど、それが何だよ。俺はカナエがカナエだから好きなんだ」
「アル……」
アルの言葉に不覚にも、ぐっと来てしまった。
こちらでの人間はとても非力だ。力は獣人に敵わない。知識は樹人。そして体の丈夫さは竜人が圧倒的に優れている。そんな中で人間である私は誰かに必要とされる理由が見えなかった。ずっとこのまま、この世界に一人きり。そんな風に思っていた。
そんな時に自分を自分だから好きなんだと言ってくれる人が居て、嬉しくないわけがない。
だから、全部そのせいだ。
アルの腕を振りほどこうと思えば振りほどけたのに、振りほどく気になれなかったのは。そして、アルの顔が近付いて来ても避ける気になれなかったのも。アルに優しく口づけされて、嬉しく思ってしまったのも。
それから、アルが両親の了解を得ているというのは確かだったようで、あっという間に式の日取りになってしまった。周りにはこちらで親しくなった友人たちと、近所の人たち。そしてアルの両親が厳つい表情を崩して、大泣きしている。
小さな町の小さな古い教会はいつもの静けさが消え、喜びムードでいっぱいだ。そんな中で、気が付けば私は着慣れない白の美しい民族衣装を身に纏っている。白無垢にも似たそれはどこか懐かしくて、結婚するという実感を生み出すのに一役買ってくれた。
隣に立つアルも揃いの衣装を着て、まさに私達は二人で一組という出で立ちである。そんなアルは私の花嫁衣裳を見て、誰よりも褒めて抱き上げてくれた。同じくらいの背丈だったころが嘘のように、彼は易々と私を片腕に抱き上げている。
「私アルのこと好きなのかもしれない」
「俺は知ってたよ。カナエは年齢差で怯んではいるけど、俺の事絶対好きだってな」
そう言って優しく笑うアルと唇を合わせて。それが近所の虎獣人の男の子が私の夫になった日のことである。