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《ジン、目標が家を出たよ》
テッドから連絡が入り、俺は歩き出した。
鏑坂は怯えた様子で周囲を何度も見まわし、消え入りたいと願うように、そそくさと歩き出す。俺は丁重に間合いを取りながら、そいつを見逃さないように注意した。今のところこちらには気付いていないようだ。
彼は東京郊外のスラム化した街へと進んでいた。スクラップや塵芥の小山のあいだを通り抜け、雑然とした人混みのなかへと入り込む。
《テッド、ブラックマーケットだ》
俺はコンタクトレンズから得る視覚情報を、テッドに転送した。
《ほうほう》
《俺はこのあたりの地理には詳しくない。ネットも充実してないこの辺は、お前の案内が欲しい》
テッドは躊躇いのイメージを寄越した。
《うーん、まあいいか》
《……すまない》
《なにが》
《あまり、良いことではなかったのかと思った》
《いや、別にそういうことじゃないんだ》
《どうした。珍しいぞ、お前が曖昧なのは》
《そうかな……》
《お前は見かけよりも頭が固い。デジタル的な、一か〇かの二値的な考え方ばかりしている。アホくさく感情振りまいているが、それは後腐れしないための計算だってこともわかっている》
笑い声。しかしそこにはどこか突き放した冷徹さを感じる。
《そういうのは後にしようよ。さあ、目標が動き出したぞ。案内しよう、赤いドラム缶の見えるあたりを左折だ……》
俺は注意して感情を押し殺した。テッドにどこまで知られたかはわからないが、動揺が俺の内側に沸き上がるのを覚えていた。
テッドの指示の通りに、俺は動き出す。鏑坂は怯えながら、しかし着々と進む。
街には正規社会から溢れ出したものたちで溢れかえっていた。サイボーグ、改造生命体、なかには豹の頭部を合成して歩く、いわば獣人も歩いていた。男はこうした傾奇なファッションをまとい、女は一部そうしながらも、多くは流行りの美形に顔を整形している。どいつもこいつも同じ顔に見えた。装着型端末を改造したさまざまなアクセサリも付けている。通りの傍では死を演じる道化師もいた。
《ところで彼はなにに怯えているんだろうね……》
トタンの影に隠れた時、テッドはそう独り言ちた。
《わからん。例のオーナー……鷺本との別れぎわに、何か脅しを掛けられたんじゃないのか》
《そんなにブラックな職場に見える、あの〈ギルド〉……》
《新進気鋭の〈ギルド〉ってのはどこもかしこもブラックな職場だよ。見かけはクリーンホワイトだが、押入れのなかは汚くて真っ黒だ》
《はは、違いない。しかし職能集団が殺しを頼むとなると、なかなか普通じゃないものを感じるな》
《まあ、アテがないわけじゃない。生体工学者にも宗教ってもんがあるからな。科学という名の宗教が》
《セントラル・ドグマ……犯すべからざる生命の原理……それは〈生体工作法〉によって禁止されている禁忌中の禁忌じゃないか。そんなものを公認〈ギルド〉の内側にほっとくわけにはいかない》
《それで、こうした外道が集まる区画に身を潜めたっていう寸法かな》
鏑坂は首をきょろきょろと廻らせ、落ち着かなげに、或る廃ビルのなかへと入って行った。
そのなかに入る。鏑坂の足音が、空虚に跳ね返ってゆくのが聞こえた。俺は足音のタイミングを合わせ、慎重にあとを追う。塵埃の薄れた、奴の足跡の上を踏んで、先に進む。
「……な」
人の声がしたので身を潜めた。
呼吸を殺しながら、蜘蛛の形をした遠隔機を放つ。それは本物の蜘蛛のように、動き出し、壁をよじ登った。
ここからでは声の話している内容が掴めない。しかし、十数秒待っていると、〈蜘蛛〉が集音した声が、はっきりと意味を持って聞こえてくる。片方は鏑坂のものだ。もう一方は、低く、籠もりがちな声で、秘密に話すにはもってこいな声質だった。
「それで、いかがかな。製作の調子は……」
「ええ、まあ。なんとか上手くやっています。あなたたちがスポンサーとなってくださったお陰で、もう憚りなくやっていけますよ」
「そうか、順調で何よりだ鏑坂君。それで……製作はあとどれくらいで完結しそうかな」
「今しばらく……そうですね、三週間はせめて待ってください」
「三週間……」
男の唸り声。
「思ったよりも長くない。良しとしよう。せいぜい製作に励むと良い」
「ありがとうございます。エヴリッタ様にもそのようにお伝えください」
この時、テッドが動揺する反応を示した。だが俺はそのことを尋ねる余裕がなかった。会談が終わったのだ。急いで跡を戻り、廃ビルから抜け出る。そして、トタン板の影に隠れた。
《テッド、奴が出る》
虚を突かれたようなリアクション。テッドは軽く息を吸い込むと、
《オーケイ、ひと気のないところで鏑坂と接触してくれ》
《了解》
数秒間、待った。
鏑坂は不安げにあたりを見回しながら、出て行った。相手の男はいない。遠隔機で確認すると、すでに居なくなっている。別口から出たのだろうか。
《ジン、目標を見失うぞ》
《スポンサーの情報もあった方が良いんじゃないか》
《それは依頼内容とは外れている。僕らの目的は、飽くまで鏑坂を秘密裏に殺すことだ。違うかな》
《まあな。しかし焦って殺すほどのことじゃないさ》
テッドは無言だった。
鏑坂が角を曲がる。スラム街を出るつもりなのだろう。だがその前に俺が彼の肩を叩いた。
ビクッと心臓に刃物でも突き立てられたみたいな反応を示して、鏑坂は振り返った。
口が開きかける。俺はそれを眼で黙らせた。そして瞬き一つせずに、
「ちょっと来い」