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男の案内を受けて、俺は〈闇黒街〉に忍び込む。〈フェンリル〉とは遭遇せずに済んだ。
ひと言で〈闇黒街〉と呼ばれるが、別に常に危険なビジネスやら、いかがわしい出店が見えるわけではない。むしろその逆で、一見すると真っ当なオフィス街だった。だが、人目を憚る仕事柄か、どのオフィスも盗聴防止の電磁遮蔽を掛けてある。こちらからは何も見えない。
《なあ、いい加減に俺を解放してくれないか……》
男はそう言った。
俺は具現化したスマートガンでそいつの背中を突いた。男は渋々と黙って歩を進める。
《まだだ。奴らの保管庫の場所がわかるまでは、まだまだ役に立ってもらわないと》
《……ドブネズミめ》
男は忌々しげに言った。
《企業のお零れもらうだけの、このゴキブリ野郎が》
《お前も他人のことを言えまい。〈闇黒街〉の手先、か》
《俺はまだ、自分の意志ってものを持ってるさ。てめらとは、違う》
《そのちっぽけなプライドが、現代では仇となる》
《構うか。俺は意志のある人間だ。命令受けてへえへえ言ってるAIじゃねえ》
意志。
それは果たして人間とAIを区別し得るのか。
かつて、二十一世紀の後半に機械破壊運動があった。十九世紀の産業革命時に起きた暴動からその名を取られた運動は、科学技術の変遷に適応できなかった人間の呪詛に過ぎなかった。多くの哲学者は機械に取って代わられる人間性を嘆き、そして芸術や思想を通じて危機を訴えた。
だが歴史は証明している。科学技術と人間はなかなかうまくやっていける、と。
《あいにくだな。意志がある人間の方が、無欲なAIよりも劣ってるとは考えたことはなかったか》
《……戯れ言を》
男がふり向こうとしたその瞬間。
彼の瞳孔が見開かれた。糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
俺は素早くスマートガンを構え、撃つ。寸分の差で、俺の頬に弾丸が掠る。
仆れる影、立ち去る人。
《気付かれていたか》
俺は駆け出した。
仮想現実における運動は、肉体現実のそれとはあまり変わらない。地球の物理法則とほとんど同じ物理法則が基本的に採用されている。
しかし、特殊なコードを用いれば、その一部を破ることかできる。
《制限解除》
言うや否や、俺は加速する。次の瞬間には、男の肩を掴み、その鼻をへし折った。
もうこうなったら繊細にやっている場合ではない。
* * *
《きみはなんて粗雑な奴なんだ、まったく》
テッドのため息が聞こえる。
奴らは引き払ったあとだった。しかし幽霊はそこにいた。大きな犠牲や損失を払うくらいなら、一旦手を引く。それが奴らの流儀であった。
《また報復とかされるよ、どうするの……》
《慣れている。職業柄だ諦めろ》
《僕は平凡に暮らしたいだけなんだけど……》
《お前の言う「平凡」っていうのが何を指しているのか、さっぱりわからないな》
《……うん。僕にもよくわからないや》
俺は未だに彼女の姿を取ったままのそいつに近寄った。
《……おい、好い加減にその娘を還してくれないか。その娘が外にいると、いろいろ厄介なんだよ》
《彼女はもういません》
《なんだと……》
《もう、私なのか、彼女なのか、わからなくなってしまったのです》
《どういうことだ》
《最初、私は彼女の〈声〉を聞きました。心の底に潜んでいた〈声〉を。私はその〈声〉を聴き入れ、可能な限り夢を与え続けたのです。しかし、途中から彼女が私の夢を見たのです》
《夢……》
潜在的な欲求……欲望の目的……手垢にまみれた理想の姿……そして、秘められた素朴で純粋な願い。
《すると私はわからなくなりました。彼女が私の夢を見ているのか、それとも、私が彼女の夢を見ているのか……》
《そうしているうちに、分かれられなくなったってことか》
《……はい》
《やれやれ》
俺はため息を吐いた。
《それで……どうするつもりだ。まさかこのまま何処かへ行こうとか、考えているのか》
《いいえ。確かに私は遊園地のAIでも英里紗・磐座でもありませんが、その両方でもあります。さりとて何処か行くあてもあるわけではありませんし、戻ってなにか不都合があるわけでもないと考えられます》
《そうか……》
彼女はフッと力を抜くように、自然に笑った。
《ご迷惑をお掛けしました》
そう言って、彼女は消えた。