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居なくなっている。
これが芳しくない状況であることは、すぐに察せられた。最悪の事態がやってきた。つまりそういうことだった。
《……テッド》
《あ、ようやく繋がった。今まで何処でなにしてたの……》
《AIだ。英里紗嬢の意識を乗せたAIが、何者かに拉致された》
《あ、その何者かって、〈闇黒街〉のお歴々だよ。僕は先刻からずうっとそのことを連絡しようとしてたんだ》
《……なんてこった》
俺は振り向いて、何か手掛かりを求めた。動きの止まった観覧車。空虚さだけが漂う空間。塵埃の溜まった座席。
果たして先代はこの遊園地の持つ危険性に気づいていたのだろうか。それとも、危険だからこそ廃園になったのだろうか。どちらにせよ、一人の人間が生み出した願望はあまりにも刺激的すぎた。誰もが欲しがるであろうもの。普段は隠していても、ふとした拍子に耽溺したくなるような欲求が、あれのなかには潜んでいる。それは電子ドラッグとなんら変わりはない。
俺は空間のなかに、ほんのわずかだけ歪んでいる箇所を見つけた。侵食の痕跡。閉ざされかけた侵入口だ。それが閉じる前に、俺は手を伸ばした。カーテンを引き剥がすように、俺は逆探知を掛けた。
仮想空間へと跳躍する。
* * *
白い空間。ユークリッド幾何学の整然たる格子が、無限に広がっているという幻想。俺はそのど真ん中に立っていた。
白紙の世界。何処にも出入りしない空間。
《テッド、連中の居場所はわかるか》
《一応〈鼠〉は張らせたんだけどね……暴露てなければ……お、よっしゃバッチリわかったよ》
《位置情報をくれ》
《案内情報はいる……》
《要らない》
データの奔流。
忽ちにして空間は彩られ、東京の摩天楼群が、文明進展史を早送りで観察したように生えてゆく。さながら雨後の筍とはこのようなものだったろう。ホログラム広告や星の見えない夜空まで正確に再現される。しかしそこに人影は欠片もない。
俺は街を歩いた。
静寂だけが友だった。時たまカッと降ってくるスコールのような騒音があるが、それは小煩い広告の音だ。人間の話す言葉は何一つとして存在しない。
だが人でないものは居た。
巨大な狼のようなイメージを持ったそれは、俗に〈フェンリル〉と呼ばれる侵入者排除プログラム。コードを持たない部外者を何であれ喰い殺す魔物、いわば白血球のようなものだ。
奴らは、侵入者を見つけたら最後、どこまでもどこまでも追いかけてくる。そして捕まったやつは、二度と肉体現実に戻ることができなかった。
だが、奴らと真っ正直に戦おうとするものはいつまでも後世から間抜けと呼ばれ続けるだろう。通常はいかに奴らの目を欺くかというところに要点がある。
俺は身を隠しながら〈フェンリル〉の様子を窺っていた。奴らはふらふらと歩き回りながら、番犬の役割を忠実に果たしている。もっと下位のプログラムならば、適当なはったりを掛けて騙せるが、〈フェンリル〉はそうはいかない。奴らは日進月歩のプログラム開発によって生み出された、無欲で、賢い犬なのだ。
しかし使っている人間はどうか。彼らはプログラムよりも貪欲で、愚かだ。欲望がある限り人は動き続ける。しかし、裏を返せば人間とは欲望に突き動かされた機械と大差ないのではないのか。
俺は彼らに特に恨みを持っていない。だが、これは仕事だった。仕事。これもまた、欲望の持つ一つの形態だ。
《動くな》
後頭部に、銃を突きつけられるイメージ。しかしそれは唯のイメージではなく、仮想現実内で、本当に銃を突きつけられていることを示している。
《まったく、ハイエナが一匹紛れ込んで、〈フェンリル〉にも引っかからずにいるから、わざわざ出なけりゃならねえとはな。何の用だクソ野郎》
《いや、別に……面倒な家出娘を捜しててね》
《小娘なんざ、知らねえ》
素早く足払いをかけるイメージ。あらかじめ肉体現実と同じ物理法則を採用したこの空間において、体幹を奪うのはとても大事なことだった。
宙に浮く男の肉体。俺は振り返り際に右手の甲でそいつの顔を殴りつけた。勢いに任せて吹き飛ぶ身体。
俺はそいつを改めて観た。するとそいつは、今夜会うはずだった代理人だとわかった。
《おいおい、こりゃあ……》
男はキッと睨みつけるようにこちらを見るが、動く前に俺はそいつを取り押さえた。
《立場逆転だな。命が惜しかったら道案内してくれよ》
これもまた、一つの取引だった。